災害
——
ほぼ同じ時間、要塞の別の側面。
ロベルトは片膝を地面につき、鉄の手袋をした手を土の上に押し付けていた。鎧には夜露と泥がこびりつき、明らかに長時間外で探索していた痕跡がある。
彼は三人の騎士と、耳の尖った女性を連れて、一晩中、事象発生地点を捜索していた。報告によれば、この一帯で「異常振動」が起きたらしい。しかし目撃はなく、痕跡もなく、異常も残留物も、何もない。
「綺麗すぎるな」
ロベルトは低く呟く。「妙だ……」
「あるいは、もう去ったのかもしれません」騎士の一人が言う。
「あるいは……」
「あるいは、地表での活動など最初からしていない」耳の尖った女性が冷静に続けた。「地竜だ」
その言葉に、空気が一瞬凍る。
「地竜だとしたら」別の騎士が眉をひそめる。「どうやって捕まえる? 地竜は地下に潜れば、ずっと我々をかわす」
「だから面倒なんだ」ロベルトは眉間を揉む。「要塞はもう、奴の活動範囲内だ。早く対処しないと、被害が大きくなる」
その言葉と同時に、地面がわずかに震えた。
前回のような漠然とした感覚ではない。
今回は誰の目にもはっきりと分かった。背後に立つ三名の騎士は互いに目を合わせ、そのうちの一人が声を出した。
「……あの感覚!」
「……上がってきた」
ロベルトは素早く馬に飛び乗る。「全員、移動だ」
——
土、石、枯れた根が空中に飛び、重力が再び制御を取り戻すと地面に落下した。
アモンドは飛び散る石に押されて数歩後退し、足元が滑り、再び転倒しそうになる。
海辺千里は咄嗟に彼女の手を掴み、二人はかろうじてバランスを取り、最初の衝撃を避けた。
影が完全に姿を現す。
それは地表に横たわる、幅二メートル、長さ六メートルの巨大な存在。
全身が漆黒で、鱗は粗く乱れ、泥や岩をまとっている。
アモンドは反射的に一歩後退するが、すぐに止まった。
動けない。
地竜は「モンスター図鑑」に載る、新人向け経験値用の生物ではない。
これは「区域級の脅威」——要塞の地図に赤丸で記され、「必要なければ近づくな」と書かれる存在だ。
「……地竜」
アモンドの声は、かろうじて喉から絞り出された。
「名前知ってるのか?」千里は慌てつつも、期待を混ぜてアモンドを見る。「ついでに“生存のアドバイス”は……?」
言いかけた千里の袖を、アモンドが強く引いた。
「黙れ」
その声はかすかで、耳を澄まさなければ聞こえない。「もう一言でも聞いたら、遺言を書いたと思うから」
アモンドは千里のそばにしゃがみ、声を限界まで低くした。「……動くな、奴は『聞いている』」
しかし千里は静かにならない。
無謀だからではなく、体の状態が“静まる”ことを許さないのだ。
先ほどの救出で筋肉と関節は限界まで使い果たされ、両手は制御不能に震え、アモンドは初めて千里の呼吸がめちゃくちゃになっていることに気付く。
——彼女は瞬時に理解した。この作戦は通用しない。
今、千里が黙ったとしても、この体の波動だけで、地竜は確実に位置を把握する。
地竜の呼吸は低く規則的で、まるで地底でゆっくり稼働する巨大な機械のようだ。
空気には鼻を突く生臭さが混じり、湿った土と腐敗鉱物の匂いが入り交じる。呼吸のたびに、確実に近づいてくる。
——地竜は千里に迫っていた。
アモンドの視線はゆっくりと動く。
地竜ではなく、海辺千里を見ていた。
彼女は少しずつ体を横にずらす。
動作は極限まで小さく、靴底と石の摩擦音さえ最小限に抑える。
絶対に静止し、十分な距離を取れば、地竜の注意はより明白な“異常”に向くだろう。
その“異常”が、すぐ隣にある。
千里。
「……ごめん」
言葉には出さずとも、アモンドの脳裏で何度も繰り返された。
指先を握り、痛みで緩め、理性が結論を組み立てる。
——これが最適解だ。
——彼が露出した、もうどうしようもない。
——私が静かにしていれば。
——地竜は彼だけを認識する。
——ふふ、私、生き残れる。
アモンドは唇を噛み、歯が痛むほど力を込める。
「死体が残ってたら、私が処理する」
「もし残っていたら、だけど」
さらに一歩後退した。
千里は気付いた。
振り返らず、ただ視線の端で、彼女の位置の変化を捉えた。
極めて微細な感知だが、脳に突き刺さるような感覚だった。
千里は口を開かない。
問いたださない。
怒りも見せない。
ただ、その瞬間に理解した。
この世界のルールを。
アモンドのような人間の生き方を。
理性的。
簡潔。
余計な感情はない。
「……そうか」
千里は心の中で低く呟く。
むしろ、少しだけ力が抜けた。
そのわずかな油断の瞬間、地竜は目の前まで迫っていた。
アモンドの瞳孔がわずかに縮む。
地竜の尾が同時に持ち上がる。
巨大な尾の筋肉が一瞬で収縮し、鱗が泥を弾き飛ばす。尾先は風を巻き起こし、千里の方向へ一掃した。
「——バカ!!」
アモンドは体を反射的に投げ出し、千里の手首をつかむ。全力で後ろに引っ張る。
千里はそのまま地面から引き離され、アモンドに引かれて走る。
ドゴォ——!!
地竜の尾が、千里が先ほど這っていた位置を叩きつける。土、石、折れた根が爆発のように飛び散る。衝撃波が空気を揺らし、二人の背を容赦なく叩く。
アモンドはよろめき、倒れそうになったが、手を離さない。
尾の末端は次に隣の老木へ振られる。
これは“倒す”のではない。
粉砕だ。
木の幹は歯がきしむ爆音とともに真っ二つに裂け、上部が断片とともに飛び、遠くへ重く落ちる。鈍い音が響いた。
「撤――退!!」
アモンドは恐怖の叫びを上げる。
千里は彼女に引かれ、足取りは乱れ、さっきの“諦めた覚悟”の表情は完全に消えた。
残ったのは歪んだ表情だけ。
痛みでも恐怖でもない。
いくつもの感情が押し込まれ、ぎゅうぎゅう詰めになった結果だ。
少量の感動、乱された判断、自信満々だった結論が覆された焦燥、そして……「もう死んでいい」と否定される意地。
その顔は勇敢でも、覚悟している者でもない。
まるで強制的にカードゲームに引き戻され、賭けがまだ終わっていないことに気づいた者のようだ。
「……お前な」
千里は引かれながら喘ぐ。「悔いるの、遅すぎだろ」
「黙れ!!」
「黙れ黙れ黙れ!!」
アモンドは泣き声を抑えきれない。「もう後悔してる……」
「こいつ……目がない」
アモンドは千里を引きながら息を荒くし、恐怖混じりに言う。「地竜は大地の微細な振動や、一歩一歩の圧力変化、話す音まで感じ取れる……だから目なんて必要ない!!」
地竜の巨大な身体はわずかに沈み、腹部の鱗が地面と擦れ、歯の根がぞわりとする低い唸りを上げる。次の瞬間、動く。
這うのではない。
突進だ。
まるで地中に埋められた攻城槌のように、四肢の力で地面を踏みしめ、地表を押し潰す。飛び散る石、土、枯れ根。震動が地面を伝い、千里とアモンドの脚に直撃する。
「なんて速さだ!?」
アモンドは声を張り上げる。
千里はほとんど本能で横に倒れ、次の瞬間、地竜の前足が降り注ぐ。彼らが立っていた場所に浅い穴が砕け散り、石板が割れ、土が舞い上がる。もしほんの一瞬遅ければ、千里の背中は貫かれていただろう。




