買い物
ロベルトに要塞の中へ放り込まれたあと、海辺千里はすぐに「人生設計」などという高難度の思考に着手することはなかった。
千里は石畳の道を、特に目的もなく歩き回る。視線は光を帯び、落ち着きなく周囲を追っていく。
高低差のある階層、曲がりくねった通路。商業施設は隙間なく詰め込まれている。
「悪くないな……」
千里は思わず呟いた。「ここに住んでるやつ、毎日この景色見てるのか」
まず足を止めたのは飼育場だった。
視界に飛び込んできた生き物に、千里は一瞬固まる。
背に奇妙な鱗を持つ家畜。だがその眼差しは丸く、草を噛む動きもゆったりとしている。
だが次の瞬間、見慣れた光景も目に入った。
鶏が餌をついばみ、牛が低く鳴き、豚が泥の中で転がり、馬が小さな囲いを歩いている。
千里の胸に、ほっとした感覚が広がる。
「少なくとも……知ってる食材はあるわけだ」
「いきなり未知の生物を食え、って話じゃなさそうだな」
その安心感が引き金になった。
空腹が一気に意識を支配する。
通りを進むと、要塞の中央に巨大な五階建ての建物がそびえていた。
酒場だ。
中から漂ってくる気配が濃い。人の声、笑い、料理の匂いが空気に混じる。五階の大半は居住区で、住民の多くがここに住んでいるらしい。騒がしいが、秩序は保たれている。
扉を押し開けた瞬間、
熱気、油脂、酒精の匂いが一斉に顔にぶつかった。
長卓がぎっしり並び、献立は木板に書かれている。その内容は充実た。焼き肉、煮込み、濃厚なスープ、平焼きのパン。名前からして危険そうな特製酒まである。
カウンター脇には依頼掲示区画。
木の壁には紙が所狭しと打ち付けられ、文字が端正なものもあれば、臨終の走り書きのようなものもある。
内容は多岐にわたる。素材採集、護送任務、行方不明者の捜索、さらには「実験協力・自己責任」など。報酬欄には、ロベルトから渡されたあの異様に薄い紙片の数が記されていた。
建物の規模に半ば呆然としていた千里の視線が、ふと引っかかる。
――獣の耳が見える。
装飾でも兜の一部でもない。音に反応して、わずかに動く耳。毛並みは清潔で、輪郭は自然だ。さらに奥には、マントの下から尾が一瞬のぞき、すぐに人波に紛れて消える。
「……」
千里は手にした酒杯を持ったまま、動きを止めた。
これは画集でも、伝説の挿絵でもない。
彼らはここにいる。注文し、酒を飲み、依頼を受ける。すべてが当然のように。
千里は黙って酒を流し込み、喉が焼ける感覚を受け止めた。
酒場を出る頃には、千里の足取りは少し危なっかしくなっていた。
杯はまだ半分残り、頬はうっすら赤い。目には酔いと、言いようのない驚嘆が同居している。
「この世界……ほんと……不思議だな」
千里は小さく呟いた。
笑いを含んだ声には、皮肉と半ば本気の感嘆が混じっている。
「ちょっと見回しただけで、人間なのに獣耳があって、尾まである奴がいる。……まるで、人と獣が混ざって生まれた子みたいだ。想像するだけでも狂っているとしか思えない……でも、まあ……可愛いのも事実だな」
首を振って自分を落ち着かせるようにし、ぐいっと酒をあおる。表情は、世界の不条理を理解した者のそれで、しかも楽しんでいる。
視線を自分の粗末な服装に落とす。
「とはいえだ」
千里は裾を摘み、苦笑する。「俺は一応、品のある人間なんだがな」
「どんな世界でも、びしょ濡れみたいな格好は勘弁だ」
そうして選んだのは、落ち着いた色合いの服一式。ついでに三角帽子。まるで最初から彼のために用意されていたかのような、妙に似合う紳士装備。
ベッドに横になったとき、千里はようやく気づいた。
残金九十八。
酔いと買い物の高揚感が混じり、思わず笑ってしまう。
「……まあ、貧乏でも記念にはなるか」
翌朝。
酒場の一室、清潔なベッドの上で千里は目を細める。
目覚めて額を軽く揉み、二日酔いめいた後悔を感じつつも、新しい装いを見て口元が緩んだ。
「……これが、新生活か」
天井を見つめながら、頭の中で歯車が回る。
酔いが抜けるにつれ、現実が追いついてきた。
働かなきゃな。
この土地で、この要塞で、この奇妙な人々の中で。
好き嫌いは関係ない。生きるには稼ぐしかない。
「兵士? 俺が?」
千里は起き上がり、笑い飛ばす。「冗談だろ。妙な規律に忠誠に信条? 信じるわけない」
三角帽を軽く振って頭にかぶる。つばの陰の眼差しには、わずかな頑なさが宿っていた。
「神がいるなら、もっと適任を探せって話だ」
まずは武器。それから依頼。
千里は要塞の路地を辿り、鍛冶屋にたどり着いた。
扉を開けた瞬間、
熱気、火花、金属の匂いが押し寄せる。
炉の前で若い男が顔を上げた。煤と汗にまみれているが、目を引くのは自然に生えた一対の角。
筋肉質ではない。だが一打ごとに、鉄が彼の意志に応えるような、澄んだ力がある。
「見ない顔だな」
鍛冶師は汗を拭い、眉を上げる。「武器か? それとも修理?」
千里はカウンターに並ぶ剣や刃物の値札をちらりと見た。
「安くて、使えるやつを頼む。形だけの飾りはいらない」
鍛冶屋は、横にきちんと積まれた薬箱を指さした。
「この要塞で一番役に立つものを挙げるなら、薬屋の“毒”だな。刃物や短剣、弓矢に塗って使う。ここらの毒は有名でさ、刃先に少し乗せるだけで、《再造之国》最上位列の連中ですら軽視できない『滅びの水』。その原料の一つが、この地の毒物だ」
「ただし、解毒剤も忘れるな。この辺の生態は毒だらけだ。擦り傷一つで命取りになる」
千里はポケットを揉み、苦笑した。
「金がない。武器だけでいい」
薬瓶を眺めながら言う。「でも、ここの薬……回復効果がなかなか優れているな。俺、化け物に潰されかけて全身終わってた」
千里は大げさに身体を揺らし、力の抜けた芝居をする。
「目覚めたら、全部消えてた。痛みすら残らずに」
鍛冶師は眉を動かし、首を振った。
「誤解するな。 こっちの薬に、そこまでの力はない」
言葉を選ぶように続ける。「瀕死から完全回復……それができるのは、芽神の血だけだ」
「薬舗はあるが……」
額を押さえ、重い声になる。「最小瓶でも、万単位だ」
「……待て」
千里は薬箱にもたれ、手の中で紙片を回す。「一瓶、万? 本気で言ってる?」
胸がきゅっと縮む。
――ロベルトは、あの軽い態度の裏で、とんでもない額を使ったということか。




