賢い選択
「鍋底会?」
千里はその名前を、ゆっくり反芻した。
「なんでも鍋に放り込んで、最後に真っ黒な塊だけ残る、みたいな名前だな」
弥作が笑い声をあげた。
「その喩え、好き」
アモンドが小さく笑う。
「知らないの?」
「鍋底会は、“あらゆる傷害の形”を保存しようとする狂人の集まりよ。火、酸、毒、腐食、爆裂、粘着……それに“概念”の副産物まで。
あいつらの“商品”って、要するに――災害を持ち運べる形にしたものに過ぎない」
弥作は手を上げ、やけに穏当なジェスチャーを作った。
「俺らは品物が欲しいだけ。命はいらない。
その箱を渡せば、通してやる」
雇主は帳簿を抱えたまま、唇が白い。
旅牙は黙っているが、槍先がわずかに下がる。
漂刃の顔は恐怖でぐしゃっと歪む。
千里は荷車の脇に立ち、もう軍刀の柄に指がかかっている。
その瞬間、彼の頭に浮かんだのは「勝てるか」ではなかった。
――名だ。
地竜討伐協力。護送の仕事。履歴がようやく形になりかけた。
ここで荷を差し出せば、明日にはこうなる。
あいつは、塞がれたら膝をつく。
一度膝をつけば、次からは皆が膝をつかせに来る。
つかないと言えば、「前はついたじゃないか」と言われる。
その評判は、傷より治らない。
千里は奥歯を噛んだ。
だめだ。
顔を上げ、言葉を出そうとした――
その瞬間、アモンドが遮った。
アモンドは背を向け、荷台の横から布包みの箱を拾い上げた。
急ぐ様子はなく、妥協した人間特有の、やる気の抜けた仕草。
「いいわ」
声は漫不経心。
「どうせ私たち、雇われただけだし。命までは売ってない」
雇主の指が帳簿の縁でぴくりと震えた。罵声が喉まで上がったのだろうが、旅牙の視線に押し戻される。漂刃は荷車の陰に寄りかかり、震えていた。
千里はアモンドの背中を見つめ、喉の奥が締まる。
声を落とし、歯の隙間から絞り出す。
「……本当に、渡す気か?」
アモンドは立ち止まらない。代わりに振り返り、目つきは鋭く、刺すようだった。
「英雄気取りはやめなさい、海辺千里」
皮肉が綺麗に刺さる。
「名声は、死んでから墓に飾る花じゃない。生きていなきゃ。ここには、有名な死人なんていくらでもいるんだから。」
アモンドは弥作の前で止まり、布包みを掲げた。
「降参です」の証拠を突きつけるみたいに。
「欲しいの、これでしょ?」
目を細める。
「近づいて。私、緊張すると手が震えるの。震えると、うっかり――誰かが後悔することをする」
弥作は動かなかった。
ただ細めた目で、その布包みを見ている。
「信用しきれないな」
低く呟いた。
「鈍良、嗅げ」
熊耳の少女が「ん?」と声を漏らし、小走りで近づく。
鼻先をかすかに動かし、布包みに顔を寄せて一息吸い込む。
そして眉を寄せた。
「苦い……」
一拍置く。
「それに……焦げた鍋底みたいな匂いもする」
弥作の眉がわずかに跳ねる。
「いい。合ってる」
彼は手を上げる。
「いやぁ」
弥作は軽い調子で笑う。
「これはこれは……やっと“賢い選択”をする人がいましたか」
言い終わる前に。
「――ヒュッ!」
布包みの中から、毒矢が空気を裂いた。
弥作の短刀が反射で振り下ろされ、矢柄を弾いて軌道を逸らす。
だが、矢先は彼の肩にかすめた。
小さすぎる傷口が、たちまち青い炎のような気が吹き出した。
弥作の動きが、半拍だけ止まった。
彼は視線を落とし、自分の肩を見る。
「……え?」
瞬いて、もう一度瞬く。
「この色……」
「健康に見えないんだけど?」
アモンドの手首が、わずかに揺れた。
“薬水”に見せた布包みが、彼女の手で一気に剥がされる。
中に薬はない。
木箱の側面には、掌が入るサイズの穴が穿たれていた。
削り屑の縁はまだ新しく、裂け目が生々しい。
そして中身は――
起動済みの小型弩。
アモンドは顎を上げ、口角を隠しもしない得意顔にする。
「薬水ってさ?」
彼女は小型弩を取り出し、空箱はパッと横へ投げ捨てた。
「なんで瓶に入ってなきゃいけないのよ」
彼女は弥作の、青く浮き上がった傷を指で指し示した。
「お前の狙いは“内容物”だろう」
「さっき、ちゃんと渡した」
弥作は半拍、呆けた。
次の瞬間――
「――痛っ!!」
声が完全に裏返った。
身体が反り返る。
腕が硬直し、短刀が垂れ、刃先が砕石にちょんと触れる。
誰でも「倒れる」と思う姿勢。
だが、その一瞬で。
弥作の体が逆方向に折り返した。
限界まで引き絞られたバネが解けるみたいに。
刃がアモンドの喉へ――一直線。
刀光が走る。
「ぶちっ!」
影が、二人の間に無理やり割り込んだ。
――海辺千里。
ほとんど“突っ込んだ”。
体でアモンドを死線から半歩押し出す。
胸元が刃に削られ、皮膚が裂ける。
血が、すぐ滲んだ。
「いやあ、いいサプライズ戦術だな」
千里の声は軽い。傷など気にしていない。
「下がれ。前に立つ席は俺のだ!」
押し出されたアモンドは半歩滑り、砕石で踵を取られかけるが、すぐ踏み直す。
弩を握る指がわずかに震える。
声は意地のように硬い。
「……あと半秒遅かったら、自分で避けてたわ」
頬の血を拭い、冷淡に言う。
「英雄の登場、まあ及第点」
その瞬間――
アモンドの背中に、冷えが脊椎をなぞって駆け上がる。
振り向く暇すらない。風が圧をかけてくる。
見えたのは、一閃の刃影だけだった。
弥作もそれに気づいた。短刀を上げ、素早く防いだ。
「カン!!」
火花が、二人の頬の横で爆ぜた。
漂刃の顔が、目の前にあった。
表情は完全にパニック。
だが彼の刀は、迷いがない。
二の太刀が続けて落ちる。
弥作の回避はぎりぎりで、刃は外へ押される。腰の側面に細長い血の線が一本走った。
「え? きみ――」
弥作が言葉を出しかける間もなく、漂刃は止まることなく、当たったかも見ずに、弥作の脇を駆け抜けた。
「すみませんすみませんすみません!」
叫びながら突っ込む。自分に勇気を叩き込むみたいに。
「ぼぼぼ僕は、ただ生きたいだけなんです!!」
最初から弥作と絡む気がない。
狙いは“地面に立っている人間”ではなかった。
――夜佣だ。
夜佣は突っ込んでくる影を見た瞬間、背の翼が反射的に爆ぜるように展開した。
「や、やめて……飛ばないで……お願い飛ばないで……」
漂刃の声は最後、泣きそうに崩れる。
「飛ばれたら、ほんとに……ほんとに困る……!」
漂刃はさっきまで荷車の後ろで、風が吹けば倒れる薄板だった。
それが刀光が走り、空気が裂けたその瞬間。
背中を誰かに乱暴に押されたみたいに、地を這って飛び出す。
双刀が同時に抜け、刃は低い。砕石を舐めるほど。
表情を作り替える余裕すらない。
夜佣の蝙蝠耳がぴくりと動き、瞳孔が収縮する。
「冗談でしょ――!」
呪うように翼を打ち、体を上へ跳ね上げた。
次の瞬間、刃の光が彼女の足元をすり抜けた。
夜佣は空中で息を吸う。
地上で、漂刃が見上げる。
歯を食いしばり、涙声で言う。
「失敗した……すみません……!」
だが千里は、彼に自責の余白を与えない。
背後から声が叩きつけられた。
「漂刃! 弥作がもう――!」
漂刃が振り向く。
弥作の影が、もう呼吸の距離まで沈んでいた。
漂刃は身を捻り、双刀を交差させて受ける。
カン!!
火花が散る。
手首が痺れ、踵が砕石で半寸滑る。
それでも退かない。
弥作は止まらず、短刀を一本投げた。
刃が空中でひるがえり、直線で迫る。
漂刃は左の刀を跳ね上げ、「カン」と弾いて軌道を逸らす。
この瞬間、弥作はもう貼り付いていた。
いつの間にかもう一本、短刀が増えている。
二枚の刃が前後から来る。雷の筋みたいに走る。
漂刃は左の刀で受ける。
弥作が刀の背で「パチン」と弾き、漂刃の左の刀は外れた。
右で繋ごうとした瞬間、弥作のもう一方の刃が刀の背を押さえ、腕に一気に力が抜けた。
弥作の刃先が躊躇なく喉へ。
漂刃は反射で上体を反らす。
刃が喉を擦り、浅い血の線が走る。熱がすぐ滲む。
そのまま体を横へ転がす。
刀身が地面を引きずり、砕けた石が火花を散らした。
転がりきる寸前、刀の背で地面を掬い上げる。
立ち上がると同時に腕を振り抜いた。
砂礫が跳ね上がり、正面から突っ込む弥作の顔面へ降りかかる。
弥作は反射的に目を細め、瞬きをした。
その“一瞬き”の間に、漂刃が地を這って突進した。
双刀が前後に走る。地面を泳ぐ銀蛇みたいに。
弥作は辛うじて受けるが、刃が触れた瞬間、腕がわずかに固まる。足も半拍遅れる。
漂刃はその隙を逃さず、三連で押し込む。
カン! カン! カン!
弥作が二歩下がり、肩が沈む。
呼吸は乱れ、顔に緊張が走った。
漂刃は喉が締まりながら、それでも言葉を押し出した。
「お願い、早く倒れて……すみません」
弥作は息を吸い、口角を少し引く。
「そんな丁寧に言われたら、立ってるのが申し訳なくなるな」
漂刃の刃が上がる。
弥作の刃も上がる。
刃と刃が噛み合い続ける。音は密で、鉄板を打つ雨みたいだ。
「カンカンカンカン――!」
二人は砕石の中へ転げ込み、刀光が地面で跳ねる。
低い場所で雷が鳴っているみたいに。




