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階段がきしりと鳴り、酒場の広間の喧騒が正面からぶつかってきた。
誰かがサイコロを振り、誰かが口論し、「昨日は死にかけた」を今日の肴にして笑っている。
若い鍛冶屋は二人を見ると、眉を上げ、口角をほんの少し持ち上げた。その笑みは少し狡猾だった。
「よう」
鍛冶屋は手を上げ、古い知り合いに声をかけるように言った。
「生きてるな。いいことだ」
千里は金色の紙片の束を掲げる。まるで白旗みたいに。
「俺もそう思う。ほら、清算。901、きっちり」
鍛冶屋の手は、炉から跳ねた鉄屑を掴むみたいな速さで伸びた。
紙片は指の間をすべり、ほとんど聞こえない音を立てる。
数えもせず、「パン」と一度叩いて、腰の薄い革袋に押し込んだ。
「確認成立」
頷く。判を押すみたいに。
「債務、解消だ」
舌打ち一つ。急に年長者めいた口調になり、妙に楽しげな色も混じる。
「地竜の件、広まるの早いな。協力討伐、区域級脅威。
若いのに大したもんだ」
「俺もなかなか格好よかったと思う」
千里は肩の新しい痂を触る。
「ちょっと擦り傷は負ったけど」
鍛冶屋は上下に眺め、鼻で笑った。
「それが擦り傷なら、昨日割れた俺の金床も擦り傷だな。
芸術的に砕けただけだ」
言い返そうとした千里を、アモンドが先に遮る。
話題の首根っこを掴むみたいに。
「感傷は後。あの刀、999の理由、あるんでしょ?」
鍛冶屋は瞬いた。
まるで「太陽は熱いのか?」と聞かれた顔だ。
「あるさ」
「へえ?」
アモンドは微笑む。「じゃあ価格設定の論理をどうぞ。
物語は要らない。物語には免疫あるの」
鍛冶屋の口元が吊り上がる。
「物語はおまけだ。理屈はな、武器への理解を叩き込んだ。素材選び、火の見極め、刃の角度は三度直し、刀背の厚みも斬る用と受ける用で何度も作り直してる。
お前らは高いかどうかしか聞かないが、
折れた刀を持って戻ってきて文句を言う奴はいない」
アモンドが冷ややかに言う。
「そりゃ不満は届かないわね。
肝心な時に壊れたら、人はもう冷たい死体で、文句の言いようがない」
鍛冶屋の笑みが半拍だけ固まり、すぐに「商売上手」の顔に戻る。
「口が悪いな。だから誰も組まないんだ」
アモンドの目尻が跳ね、卓をひっくり返しそうになる。
千里は二人の間に立ち、切れかけの綱を引き戻す。
「つまり、この刀が最良なら、俺はもう限界ってことか?」
呟くように言う。
「でも俺、まだ弱い。
もっと高くて強いのを買えば、強くなれると思ってた」
アモンドは小さく鼻を鳴らした。
「何が欲しいの? 銃?」
千里の目が一瞬だけ光る。
「あるの?」
アモンドはその一瞬を即座に押し戻す。
「単発は扱いづらい。爆弾の方がマシ。」
眉を上げる。「あんたの場合、敵より先に自爆しそうで怖いわ」
だが鍛冶屋は、まるで自分の趣味領域に触れられたみたいに身を乗り出す。
目に炉火が宿る。
声を少し落とし、裏話を共有するように言った。
「《再造の国》が最近、各地で依頼を出してる。
新型の熱武器を作れ、って。
名は“リボルバー”」
アモンドが「ああ」と小さく声を出し、何かを思い出した顔になる。
鍛冶屋は勢いづく。
「火縄銃やライフルよりずっと上だ。連射できる。
弾は鉛じゃない。一体型の金属弾だ。
外来者が持ち込んだ、まったく新しい時代の産物だ」
「連射?」
千里は反射的に言い返す。「銃なら多少は知ってる。
そんなに早く進歩するわけない」
鍛冶屋は肩をすくめる。
「俺もそう思う。でも現実だ。
新しい外来者の技術だってさ。
新時代の産物だ」
アモンドが手を上げ、彼の頭を叩く仕草をする。
「新人、常識を一つ足す」
珍しくからかいのない声で言う。
「この世界と地球じゃ、時間の流れが違う。
同じ方向には進むけど、速さが揺れる。
こっちで数日でも、地球じゃ数年かもしれないし、数時間かもしれない」
一拍置いて、千里の顔色を見る。
「あなたは数日しかいないけど、
ある外来者から見れば、もう“原始人”よ」
千里の頭が、ぶん、と鳴った。
煙草を咥え、いつも不器用に説教してきた老人が浮かぶ。
毎朝港に立ち、海を眺め、波を数えるみたいに日を数える背中。
腰は真っ直ぐで、少しでも曲げたら海に負けるみたいだった。
もし時間が違うなら……
「……親父、今ごろ何してるんだろ」
もう俺の部屋に鍵をかけたかもしれない。
相変わらず「風より早く逃げやがって」と罵っているかもしれない。
もう港で煙草を吸う人はいなくなったのかもしれない。
あるいは――
もう、生きていないのだろうか。
頭に、場違いな情景が浮かぶ。
甲板に腰を下ろし、白い煙を吐き、海を睨んで一言。
「あの馬鹿息子、どこ行きやがった」
胸が、きゅっと締まった。
千里は気づいた。
帰りたい。
安全だからじゃない。
慣れているからでもない。
――罵ってくれる人が、そこにいるからだ。
だが「連射銃がもうある」という現実が、記憶を引き戻す。
そんなものまで来ているなら、
地球側は、もっと早い。
「もう、間に合わないな」
帰るかどうかの問題じゃない。
帰っても、
彼が出てきた時間には戻れない。
長すぎて――
港に立つ人はいないかもしれない。
長すぎて――
叱る声も消えているかもしれない。
長すぎて――
彼は“行方不明者”だ。
長い沈黙のあと、千里は口を開いた。
声は小さいが、はっきりしていた。
「……どうやって帰る?」
アモンドは一瞬、彼を見る。
冗談かどうかを確かめる目で。
だが千里は笑っていなかった。
胸の中から取り出した問いを、卓に置いたみたいだった。
「時間がずれてるなら」
「元の時間に戻れないなら」
「せめて――道があるか知りたい」
空気が、短く静まる。
アモンドは後頭部を掻き、初めて誤魔化さない声になる。
「その質問……」
少し考えてから。「答えられる奴は少ない」
「屍織なら知ってるかも」
鍛冶屋は布で手を拭いていたが、その名を聞いて動きが止まる。
「……誰だって?」
アモンドは顎を上げ、「大物を知っている」顔をした。
「屍織。
《再造の国》の首領。生命技術の源。
この異常世界で、人が生きられる理由」
驚きというより、「口にしてはいけない名」への反応だった。
「……なんでその名を出す」
鍛冶屋は低く言う。「あの人は、話題にする存在じゃない」
千里は英雄譚には反応しなかった。
ただ一点だけ掴む。
「帰り方を知ってる?」
アモンドは少し黙り、頷く。
「研究した」
「試したこともある」
鍛冶屋が冷笑する。
「この話なら知ってる。彼女、帰るためのヒントを少しだけ公にしてた。」
「帰りたいなら」
「新しい“誤差”を作る」
アモンドが補足する。
「もっと大きな」
鍛冶屋が短く頷いた。
「そうだ。
もっと大きな」
「じゃあ、会いに行ける?」
今度は、アモンドの反応が速い。
「やめとけ」
「なんで?」
アモンドの目が、急に鋭くなる。
「屍織が方法を持っているなら」
「それは必ず――」
「犠牲の上だ」
最後の言葉は、ひどく軽かった。
「離れることを考えるな」
「少なくとも、今は」
深く息を吸い、核心を告げる。
「でなければ、あなたは人を殺すことになる。」
脅しじゃない。
結論だった。
「……なら、どうして教えた?」
千里は低く問う。
アモンドは視線を逸らす。
「聞いたから」
鍛冶屋は拭きかけの布を投げ捨て、意図的に話を切る。
「はいはい、そこまで」
手を上げ、急に日常の調子に戻る。
「この話題、高すぎる」
「鉄売りには聞けん」
足で椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
「ほら、安い話に戻ろう」
彼は銃を千里の前に押し出した。
「新時代の銃だ」
「しばらく作ってる」




