エラー
拷問具が火鉢の中で、かすかな音を立てていた。
まるで旋律のようだ。
私はその演奏者。
ここでは最も権威ある尋問官と呼ばれている。
だが今日は、楽器が一つも歌わない。
椅子に縛られている男の名は海辺千里。
名前は女の子みたいだが、肉は裂けても、意志が裂ける気配はなかった。
熱と冷気が交互に肌を“訪問”する。
通常なら、叫び、罵り、あるいは意識を失う段階だ。
だが――
彼は笑っている。
挑発ではない。
雨に濡れ、傘を忘れたと気づいた時のような、少し困惑した笑み。
私は砂時計を返す。
砂が落ちる。
彼の呼吸は、あまりに安定している。
「続けろ」
私は助手に告げる。
痛みは正確に与えられる。
量、部位、間隔。
英雄でも聖者でも例外はない。
存在しない罪すら認めさせるリズムだ。
だが海辺千里は顎をわずかに上げる。
風を受けるような姿勢。
瞳孔は散らない。
むしろ一点に収束している。
「どうして……痛みに反応しているのは確かだな」
私は再び海辺千里を検査し、愕然とした。
「失禁反射なし。涙なし。情動安定」
鉄のペンチが指を締める。
普通なら、ここで崩れる。
だが彼は眉をひそめるだけだった。
わずかな失望を浮かべて。
「頼む……助けてよ。話せば分かる。終身監禁とか、冗談きついって。父は大海賊だ。金も払うし、メリットも渡せる。解放してくれ」
声は平穏だ。
滑稽さすら帯びている。
私は目を見開き、彼を見つめる。ありえない反応に、心の奥に冷たい感覚が芽生えた。
困惑に沈み込んだその瞬間――
空気が歪んだ。
空間が、見えない手に引っ張られるように揺れた。
拷問具。石壁。松明。
すべてが震える。
現実の境界が裂ける感覚。
千里の笑みが途切れる。
見えない奈落に引き込まれるように――輪郭が空間で歪み、伸び、
次の瞬間、完全に消え去った。
椅子ごと、海辺千里は空間から消失した。まるで存在したことすらなかったかのように。
炎が揺れ、鎖が軽く響き、日常が徐々に戻る。
そして、沈黙。
私の知る限りの拷問学、異端記録、神跡譚のどれも、この“欠落”を説明できない。
逃走でも、幻術でも、死でもない。
現実の一片がえぐり取られ、私はその縁に立っていた。
――落下。
海辺千里が意識を取り戻した最初の認識は、それだった。
上下のない下落。
方向感覚の喪失。
周囲は絶えず変化し、焦点は定まらない。
痛みは消えていない。
だからこそ、これは現実だと分かる。
落下は突然終わる。
重力が戻り、視界が定まる。
千里は地面に投げ落とされた。
落地、椅子が真っ先に犠牲になった。
椅子が砕ける音。
背骨に重力の名残が叩き込まれた。
二秒間、彼は地面に伏せた。
皮膚が裂け、筋肉が抗議し、骨が鈍く響く。
それでも彼は立ち上がる。
歯を食いしばるわけでもない。
何かに抗う様子もない。
ただ、先延ばしにしていた用事を片付けるように、
泥から身体を引き上げ、どうやっても払い落とせない血と灰を軽く払った。
「おい? 助けてくれた恩人?」
千里は森に向かって声を投げた。
「さっきの手口、なかなかワイルドだったな。腰を折る寸前だったけど、効率は悪くない。覚えておく」
そう言いながら文句をこぼし、壊れた椅子を一蹴りした。まるで空気に向かって示威するかのように。
「後でちゃんと礼はするからな」
しかし、しばらく返事はない。仕方なく、千里は口調を少し和らげて続けた。
「もちろん、効果は抜群だ。目が覚める、気が引き締まる。ただし、隠れずにやってくれよ。借りを作るのは好きじゃない」
応答はない。
風の音と、遠くの獣の唸りだけが残る。
低い茂みと、奇妙にねじれた木々に囲まれ、海辺千里はしばらく立ち止まる。
小さくため息をつき、腰に手を置いた。
「まあいいか」
息を吐く。
「どうやら、名乗らないタイプの善人らしい。善行は匿名、そのついでに人を死ぬほど叩き落とす、と」
視線を落とし、自分の姿を確認する。
衣服は拷問具に引き裂かれ、縄の痕と火傷が入り混じっている。
乾いた血が皮膚にこびりつき、その色は汚れた鉄錆のようだった。
素足で砂利と泥を踏んだ瞬間、足裏に鋭い刺激が走る。
「この格好……サバイバルでもやれってのか。それともこのまま転生しろって?」
千里は小さく笑う。
「靴すらないのに、せめて刃物くらい残してくれてもいいだろ。筋が通ってない」
ここに立ち尽くすのは最悪だ。
そう判断し、高所を目指す。
傾斜は緩い。
だが足元は砕けた石だらけだ。
踏むたびに足裏が裂ける。
鋭い痛みが走る。
途中で立ち止まり、息を整える時。
見えない「善人」に一言毒づき、再び登る。
頂上に達した瞬間、視界が開けた。
森は無秩序ではない。
遠く、草の色が断絶している。
細く整った線。
道だ。
獣道ではない。
自然の浸食でもない。
人の手によるもの。
さらにその先、
いかにも「物語に出てきそうな砦」がある。
その理解に、千里は三秒固まった。
「……は?」
瞬き。
「待て。砦? この風景、伝説すぎるだろ」
「本でしか、画集でしか見たことない建物だ」
海辺千里は呟く。
「よし、行ってみるか……まさか、本の世界に来ちまったとか?」
額の血を拭い、笑みを浮かべる。
海辺千里は道の方向へ歩き出す。最悪の事態を考えながら。
追われる、指名手配される。
別の場所で不運を続ける。
――少なくとも、森よりは安全だ。
土は徐々に硬くなり、踏むものは石に似ているが骨のような感触。数回後、思わず下を覗き、すぐに後悔した。
それは石ではない。
少なくとも、全部ではない。
「……なるほど」
唇を噛む。
「きれいに食べられてるな、腐敗臭はしない。ここらの肉食獣、衛生にうるさいらしい」
草むらから時折、物音がする。姿は見えず、見えるか見えないかの距離で動く。
千里は大声で追い払うつもりだ。
「警告する。俺は機嫌悪いぞ。野犬や狼なら、状態戻ったら――」
言いかけたところで、草むらから短く低い鳴き声が響く。
獣の咆哮ではなく、湿った、気嚢の共鳴を帯びた音だ。
千里は足を止め、背筋の毛が立つ。ゆっくり振り返ると、草が押し倒され、すぐ元に戻る――何かが地面に張り付くように近づいてくる。
「……やめとこう」
千里はすぐに訂正。「もしあんたがこの場所の原住民なら、先に言っておく。俺は火に炙られたことはあるが、今みたいに汚れた状態じゃ、清潔そうなあんたのご馳走には向かないと思うぞ」
草むらが完全に払われた瞬間、海辺千里は自分の終わりを悟った。
千里は速く走れない。
意志ではない。
損傷だ。
足裏は裂け、内出血している。
踏むたびに釘を踏む感覚。
走れる。
だが持たない。
その存在は地面に張り付くように滑行し、摩擦音はほとんどなく、視認も困難。
地面に湿った跡を残し、距離を肉眼で確認できる速度で詰めてくる。
初めて姿を捉えた瞬間、千里の脳はそれを「何か」に分類できなかった。
透明に近い。
引き伸ばされたクラゲのような形状。
表面は絶えず揺れ、内部では濁った液体がゆっくり循環している。
地面に沿って距離を保ちながら漂う。
そこに意図があるように見えた。
千里は逃げながら振り返って一瞥した。明確な眼はないが、正確に“千里を見ている”。
「……冗談だろ」
千里は走りながら息を切らす。「こいつ、どう進化した? 気持ち悪くして捕食かよ?」
次の瞬間、背中に何かが叩きつけられた。
灼けつくような痛みが炸裂した。
火ではない。液体だ。
熱い、では足りない。
皮膚が悲鳴を上げる温度。
衣服が泡立つ。
繊維が波打ち、焦げる匂いが立つ。
千里は地面に落ちた。
転がり、泥にまみれ、それでも立つ。
走る。
方向は選ばない。
ただ遠ざかる。
背後の軟体生物は落ち着いている。
常に距離を一定に保ち、時折、液体を放つ。
追いつくためではない。削るためだ。
「くそ……追いかけてくるなよ。これじゃ健康になっちまうだろ!」
笑う余裕もない。
声は掠れ、ほとんど悲鳴だった。
走る。
息が裂ける。
肺が焼ける。
それでも、思考は止まらない。
千里は視線を後ろへ向ける。
あの存在は、常に地面に貼り付くように滑っていた。
障害物を迂回し、隙間を抜ける。
「……待て」
馬鹿げているが、生死に関わるひらめきが脳裏をよぎる。
「滑るやつ、だろ……」
千里は息を吸い込む。
恐怖を押し殺す。
「なら……跳ぶのは苦手か?」
千里は歯を食いしばる。進路を切り替える。
断溝が前路を断つ。
深さは四メートル以上。
下には裸の岩層。
その上に、無造作に積まれた枯骨。
今の千里にとって、このジャンプは非常にリスキーだ。
失敗した時の絵面しか浮かばない。
しかし千里は減速しなかった。
最後の瞬間、足裏に力を込める。
裂けた皮膚が鋭く抗議する。筋肉は即座に悲鳴を上げた。
跳ぶ。
視界が揺れる。
対岸に重く落ち、石に激しくぶつかった。骨の奥で鈍い振動が鳴った。
転がる。
ほぼ勢いだけで距離を稼ぐ。
背後で異様な音が響く。
怒りでも咆哮でもない。判断を失った一瞬の空白のような音だ。
半透明の生物は断層の手前で止まる。内部の液体が渦を巻く。
跳ばない。
迂回する。
「……は」
千里は岩に寄りかかる。
震えながら、笑う。
得意ではない。恐怖が遅れて押し寄せただけだ。
跳べた。助かった。
だが、脚から力が抜ける。
視界が灰色に滲む。
耳鳴りが潮のように満ちてくる。
千里は透明生物の逆方向に歩き続ける。自分でも、どこに向かっているのか分からない。
続けて、どれほど歩いたのか分からない。
「……疲れたな」
千里は低く呟く。
「方向を確認するのは重要そうだけど……顔を上げて見るのは面倒すぎる」
膝から力が抜け、腰も沈み、ついには前方に倒れ込む。千里は体裁のいい姿勢を選ぶ余裕もなかった。
「……もういいや」
それが千里の最後のまともな思考だった。
身体の支えを失い、地面に重く倒れ込む。
視界が完全に暗くなる前に、千里は気づかなかった。頬の下の感触は、もはや泥や小石ではなかった。
幸運にも、彼は人間の痕跡に倒れ込んでいたのだ。




