人間として
ーー数ヶ月前。
「ぼ、僕も……擬態とか、そんな……ちゃんとできるかな……」
森の中、陽の差さぬ木陰にひっそりと佇む三つの影。
その中心で、魔王ゴルドは腕を組んで立っていた。
筋骨隆々たる巨体は、見上げるような大木と同じ高さ。
その背には巨大な黒剣を背負い、ただそこに立っているだけで周囲の空気が震えている。
「デュラハン、メドューサ……我らはもう“魔界の主”ではない。今は、ただの旅人であると認識せよ」
「……そう簡単に言うけどね。私、蛇よ? 下半身が。どうやって人間に擬態するのよ……これ呪術でなんとかなるの?」
「お前ほどの魔力制御があれば問題なかろう。人の骨格を模し、外見を整え、魔力を内に潜ませる。それが擬態の基本だ」
「うーん……じゃ、ちょっとやってみるけど……っと……ぐっ……」
メドューサの体が淡く光り、その姿が少しずつ変わっていく。
蛇の尾が収縮し、足の形を取り、柔らかな肌が露わになる。
(ふむ、うまいものだな……)
ゴルドは内心で頷く。擬態とは、魔族にとって得手不得手の差が大きい。
特にメドューサのように人型から大きく逸れた種は難しいが、彼女は苦戦しつつも、それをやってのけた。
「ふぅ……できた、かな?」
そこに立っていたのは、切長の目を持つ美しい人間の女だった。
艶やかな黒髪をかき上げながら、メドューサは自らの姿を確認する。
「……意外とイケてるじゃない、私」
「ああ、充分だ」
「ふふん、当然よ。じゃあ、名前も考えないとね。人間界での名前。……うーん、どうしよう」
「では“メドラ”と名乗れ」
ゴルドが言うと、メドューサは不満げに眉をひそめた。
「え、それって単に短くしただけじゃ……」
「覚えやすさは大事だ」
「はあ……ま、いいけど」
その横で、デュラハンがそっと手を上げる。
「あ、あの……ぼ、僕も、やってみます」
頭部のない鎧が、青白い光に包まれ、その輪郭が揺らぐ。
やがて鎧は縮み、甲冑の代わりに薄手の布と革に包まれた青年の姿が現れた。
背は高く、肩幅は狭く、髪も目元も地味で、どこか印象に残らない顔立ち。
「お、おかしくない……かな?」
「うん、目立たない。逆に感心するわね、その存在感のなさ」
「よ、よかった……」
「よし、お前の人間名は“ラハン”だ」
「えっ、それって……デュラハンだからラハン……ですか?」
「似て非なる名前で十分だ。問題はない」
ラハンは不安げに頷き、足元を見つめた。
やがて、ゴルドが腕を解く。
「さて、我も擬態せねばなるまい。……数世紀ぶりに“人間らしい姿”を取るのも悪くない」
黒い霧がゴルドの体を包む。
次の瞬間、どこか荒野を渡り歩く戦士のような――大柄で日焼けした男が立っていた。
筋骨隆々、背には巨大な剣。
しかし顔つきは柔和で、瞳の奥には何かを見据えるような静かな光があった。
「名は、“ゴルド”。そのままで通す」
「……変わらないじゃない」
「気にするな」
「まあ、似合ってるわよ。妙に威厳あるし、村人に好かれそう」
「うむ」
ラハンは満足そうに腕を組む。
そしてゴルドは二人を見渡し、改めて言った。
「いいか。我らの目的はただ一つ。――未来を変えることだ」
「……ああ、そうだったね」
「予知の未来に従えば、やがて現れる“勇者ユナ”にこの身は滅ぼされる」
「勇者ユナねぇ……ちゃんと見つけられるのかしら」
「難しいだろうが、だが、我ーーーーいや、俺たちにしかできん」
静寂が森を包む。風が葉を揺らし、木々の隙間から光が差す。
「さあ、人間としての旅路が始まるぞ。人という仮面を被り、人の振る舞いを学び、日常の中に身を溶かす」
「じゃあ……“普通の人間のふり”を頑張らなきゃ、ね」
メドラ――いや、メドューサはどこか遠い目をしながら呟いた。
「……まずは、服を買わないと。なんでこの世界、女の服って露出多いのよ」
「た、確かに……見てて恥ずかしいかも……」
「恥ずかしい? なにそれムカつく……じゃあ派手な服でも探しましょうかね」
「覚悟があるなら、服の露出など些事だろう」
「それ魔王の価値観でしょ?」
「む、そうか?」
笑い声が、森に響いた。
だが、その奥には――誰も知らぬ決意が宿っていた。
未来を変える。そのために、“家族”になるのだと。