予言の未来
かつて、世界の半分が魔に沈んだとき、人々はこう嘆いた。
――魔王が目覚めた、と。
その言葉通り、世界の西にそびえる灼熱の火口の最深に、それはいた。
漆黒の玉座に座す巨躯。
全身が鋼のような筋肉で構成され、背に負うは、人ひとりの身の丈ほどもある漆黒の大剣。
その者の名を知る者はいない。ただ「魔王」と呼ぶ以外、誰も思いつかなかった。
そんな魔王の前に、漆のローブをまとった悪魔神官が跪いた。
「……陛下。未来の兆しが見えました」
静まり返った空間に、声だけが響く。
「勇者……か」
「はい。人間の少女。“ユナ”という名だそうです。孤児らしく、現在は辺境の村カリナで暮らしており、まだ剣も握らぬ幼子ですが――将来、確実に陛下を討ち果たす存在となります」
「ふむ。なら殺してしまえばいい」
「……それができれば、私も苦労しません」
神官が片手を上げる。宙に光の輪が浮かび、その中に少女の姿が映った。
栗色の髪に、あどけない顔。細い手足をして、村の片隅でパンをちぎっている。
「この姿からは想像し難いですが、少女には“女神の加護”があります。明確な殺意を向けた瞬間、魔物であるこちらが浄化されるでしょう。幼少期は特に加護が強く働くらしく、攻撃そのものが加護で弾かれます。つまり、抹消は不可能と見ていいかと」
「……面倒だな」
「未来を変えるのはほぼ不可能でございます」
「ふむ、では我直々に人間界に行ってみるとするか」
魔王が頭をかきながら立ち上がると、その身長が天井に届かんばかりになる。圧倒的な威圧感に、周囲の魔炎がうねった。
そこへ現れたのは――ひとつの鎧。
いや、中身のない首なしの鎧だった。
「し、失礼します、陛下……。で、ですが、に、にに人間界に出向いて、な、何を……?」
デュラハン。
この様子から想像はつかないが、かつて数千の騎士団を一人で葬った戦鬼にして、魔王の忠臣だ。
「殺せぬ少女だろう……。クク、そうだな。ならばこの我が変えてやろうと思ってな」
「か、変えるとは……?」
「育てるのだ。勇者にならぬよう、我が育て、こちら側の存在として導く。つまり――親としてな」
「ぷっ、ぶっはははっ!」
場の空気をぶち壊すような笑い声が響いた。
声の主はメドューサ。
魔眼を操る美女にして、魔王軍の筆頭魔女。グラマラスな体と蛇状の下半身をくねらせケラケラと笑っている。
「魔王様が子育て!? 冗談は顔だけにしなさいよ。あんた、子供の扱いとか絶対ムリでしょ?」
「冗談ではない。勇者として剣を握る者には、それ相応の理由がある。ならば、理由ごと笑が育て変えてやればいい」
「まさか、普通の村娘として生かすつもり?」
「その通りだ。戦のない暮らしを与え、平穏を教え、生きる道を選ばせる。……我たちが、家族となってな」
沈黙。
神官、デュラハン、メドューサ――誰もが絶句した。
だが、真っ先に口を開いたのはデュラハンだった。
「で、ですが……人間界に出るなら、色々と準備が必要です。ま、魔族の気配は、加護で弾かれますし……! あ、ほら名前も」
「名など適当に決めればいい。偽りの名も、偽りの顔も、すべては我らの未来の為だ」
魔王は、大剣を玉座の背に立てかけた。
それは、戦いからの一時の離別。
そして、勇者という宿命に抗う第一歩。
「よろしいでしょう。では我ら、当面“封印中”ということにいたします。表向き、魔王軍は沈黙の時を迎える……」
神官がローブの中から黒き魔印を取り出すと、それがふわりと宙に浮かび、光の粒に変わった。
「目指すは、辺境の村カリナ。ユナという名の孤児が、人目を避けて暮らす地。……あなたが“育ての親”になる場所です」
「面白くなってきたじゃない」
メドューサがにやりと笑う。
「ねえ、我も“姉”ってことでいい? ……どんな子かは知らないけど、しつけは任せなさい」
「お、俺は……どうしよう……」
「おまえは黙って“兄”でいい」
「ひ、ひぃ……」
こうして、世界を震撼させた魔王とその配下は、密かに姿を変え、人間界へと旅立った。
その目的はただ一つ。
――未来の勇者を、勇者にしないこと。
――そして、一人の少女に、“生きる意味”を与えること。
誰も知らない、小さな奇跡の物語が、今始まろうとしていた。