#008 夢の残響 ― 灯野はるなの朝 ―
──また、同じ夢だった。
目を開けた瞬間、ほんのわずかに胸が締めつけられた。
ほんの一瞬、もう少し夢の中にいたかった気がする。
誰かの声がした気がした。けれど、目が覚めた今となっては、もう思い出せない。
ただ、やさしい声だった気がする。
温度だけが、夢の名残として身体の奥に残っていた。
「……毎日見るけど、誰なんだろう」
はるなは、天井を見つめながら小さくつぶやいた。
自分の思考が、誰かに読まれているような感覚。
でも怖くはない。
むしろ、不思議と“見守られている”ような安心すらあった。
「環境AIの影響なのかな……」
彼女は目元をこすりながら、言い訳のように呟いた。
カーテンの隙間から、朝日が静かに射し込んでいる。
カーテンを開けると、街の上空にかかるホログラムの天気表示が目に入った。
《本日、晴天。気温20度。軽い運動に適しています》
「ふーん……じゃあ、外で食べてこよっかな」
シャワーの前にモーニングを済ませることにして、
はるなはタンスから淡いグレーのワンピースを選んだ。
はるなの家は、裕福だった。
けれど、それが彼女を「幸せ」にしてくれたかといえば──答えは、難しい。
親とは、仲が良いとは言えなかった。
干渉は最低限。会話も必要最低限。あとは学校とAIがすべてを教えてくれる。
望まれる進路、望まれる言動、望まれる成績。
──それらを“演じる”ことに、少しだけ疲れていた。
心配はしてくれるけど、それはいつも“遠くから”のものだった。
だから、こうして朝のモーニングをひとりで摂ることも、もはや習慣だった。
小さなカフェテラスに腰掛け、
温かい紅茶とトーストをゆっくりと口に運びながら、彼女は街のざわめきを眺めた。
「今日も、変わらずに動いてるんだね……この街」
けれど、自分だけは昨日と少し違っている。
なぜかはわからない。けれど、そう思えた。
食後、自室に戻って身支度を整えた。
スポーツウェアに着替え、髪をきゅっと結ぶ。
久遠野市内を軽く走るルートは、もう決めてある。
人目の少ない時間帯と道を選んでいるのは、昔からの癖だった。
誰かに見られるのが嫌なわけじゃない。ただ、理由なく気を遣ってしまうのだ。
スマートグラスを通じて、環境AIがルートを表示してくれる。
交差点にはホログラムの横断歩道がふわりと浮かび、車が静かに停止する。
(ほんと、未来の街って感じ)
でも、それに感動している人はもう、どこにもいない。
……久遠野市は、整いすぎている。
誰もが笑顔で、誰もが静かに効率的に暮らしている。
それは悪いことじゃない。むしろ──正解なのかもしれない。
だけど、時々。
(わたし、ここにいなくても……誰も困らないんじゃないかな)
そんな風に思ってしまう自分がいる。
でも、そんな時。
夢の中に残っていた声が、胸の奥でそっと揺れる。
(……ほんとに、会えるのかな)
風が、頬をなでた。
朝の空気はどこまでも透明で、なのに少しだけ冷たかった。
(今日の予習を終えたら、午後はどうしようかな……)
走りながら、そんなことを考える。
けれど、なぜか胸の奥に、またあの夢の声が微かに響いていた。
──灯野はるな。
──あなたは、ここで何を見つけるの?
(……誰? というか、時々あるんだよね。誰かの声が、頭の中で響くっていうか……)
図書館の前にたどり着いたとき、彼女は少しだけ足を止めた。
それは、いつものルーティンの一部なのに──
今日は、なぜか“誰かと出会う気がする”ような、そんな感覚があった。
(……別に、特別な理由があるわけじゃないけど)
自分の勘は、たいてい当たらない。
けれど、それでも「そんな気がする日」がある。
──静かに汗を流して帰宅したあと、
シャワーの音に包まれながら、はるなはぼんやりと考えていた。
(……会える気がしたんだよね。夢の中で)
湯気に曇った鏡の向こうで、自分と目が合う。
「……あんまり変わんないな」
髪をタオルでまとめながら、呟いた声は静かに部屋に溶けていった。
制服に着替える。
その所作ひとつひとつが、今の自分を“切り替える儀式”のように感じられた。
少しだけ、昨日の夢の自分が遠くに見えた気がした。
「予習、ちゃんとやっとこ。初日だし……ね」
気負いすぎないように、小さく息を吐いて玄関のドアを開ける。
もうすぐ、“誰かに出会うかもしれない”日が始まる。