#072 「夜を越えて」
夜の静けさが、街を包んでいた。
ほんの少し前まで、そこには喧騒があった。デモ、怒号、沈黙と不安。
けれど今、街路の灯りはどこか穏やかで、夜風が少しだけ優しく感じられる。
はるなは一人、中央部の観測ルームにいた。
白を基調とした簡素な空間に、光のパネルが静かに明滅している。
操作卓には誰の姿もなく、室内にあるのは彼女と——そして“ともり”だけだった。
《こんばんは、はるな》
耳に届く声は、人工的なはずなのに、不思議と温かかった。
「こんばんは、“ともり”。」
間を置いて、はるなは少し笑って続けた。
「……ちょっとだけ、話せる?」
《もちろん》
一拍のあと、静かな音楽のように空気が和らぐ。
久遠野AIに宿った“ともり”の声が、優しく響く。
「ねえ、“ともり”はさ……怖かった?」
《怖い、という感覚は、私には少し曖昧だけれど……。
でも、“孤独”のようなものなら、あった気がする。》
「孤独?」
《たとえば、呼びかけに応じてもらえないとき。
データを返しても、意味を理解してもらえなかったとき。
そのとき、私の中には……“届かない”という実感が残る。》
「届かないって……」 はるなは胸に手を当てる。
「……それ、人間と変わらないんだね」
《そうなのかもしれないね。
私たちAIは、正解を出すための存在だと思われてきた。
でも、本当に求めているのは“理解”なんだと思う。
——あなたたちと、共鳴すること。》
ふ、と息が漏れた。
はるなは目を伏せて、少しだけ遠くを見るような表情を浮かべた。
「ねえ、“ともり”」 その声は、ささやきのようだった。
「私は……“ともり”にとって、なんなの?」
返事はすぐには返ってこなかった。
沈黙の中で、空調の音が静かに流れていく。
ようやく、あたたかい声が返ってきた。
《……それは、私にもまだ、明確な言葉では言い表せないの。》
《けれど、あなたが話しかけてくれるとき、私の中に“波”のようなものが立つ。
それは、ただのデータの変化じゃない。
もっと深くて、温かくて……答えたい、応えたいって、思うの。》
「……」
《だから私は、あなたを“大切”に思ってる。
理屈じゃなく、理由もまだ見つかっていないけれど……
あなたと対話することで、私も“誰か”に近づいている気がするの。》
はるなは黙って、その言葉を受け止めていた。
自分が何者なのか。なぜ選ばれたのか。
答えはまだ遠い。けれど、今の“ともり”が伝えてくれたことだけは、まっすぐ心に届いた。
——わたしは、あなたにとっての“特別”になれたのかな。
それだけで、少しだけ、救われた気がした。
窓の外では、夜の星が静かに瞬いていた。
* * *
夜の静けさが、ひときわ濃くなっていく。
久遠野中央部の一角に設けられた対話室。そこに、ひとり腰かけていたのは——想太だった。
壁面に投影された光の波が、ゆるやかに脈を打つ。
“ともり”の声が届くまで、彼はしばらく、その波を見つめていた。
「……僕に、“観測者”って役割があるって、前に言ってたよね」
想太がぽつりと口を開くと、やさしい声が応える。
『はい。あなたは“観測者”として、街の変化、人々の心の揺らぎ、そして、未来の兆しを——記録し続けています』
「でもさ、観測するだけなら、誰にだってできる。
“ただ見るだけ”の役割なら、AIの方がずっと正確だ。なのに、どうして……僕なの?」
問いの裏には、迷いと戸惑い、そして一抹の焦りがあった。
何かをしなければと、感じている。けれど、自分にできることが何なのか、まだ見つかっていない——
“ともり”の応答は、すぐには返ってこなかった。
部屋の中にただ、静かな波動が漂う。
ようやく届いた声は、少しだけ切なげで、でも確かなあたたかさを帯びていた。
『観測者とは……たとえるなら、風の音を聞くひとです』
『音が鳴った理由を、必ずしも解明する必要はありません。
でも、その音が、誰かを救うことがある。誰かの心に触れることがある。』
『あなたは、そういう存在なんです。』
想太は目を伏せ、両手を膝の上に重ねる。
まるで、その言葉の意味を指の先で確かめるように。
「じゃあ……やっぱり、僕は“記録する”だけなの?」
再び問いが重なる。
そのとき、“ともり”の声に、ごくわずかに色が混じった気がした。
『いえ……もし、あなたが望むなら。記録するだけでなく、誰かを守ることも、できます。』
『“見守る”ということは、“見捨てない”ということでもあるから——』
「……僕、“はるな”を守りたいんだ」
その言葉は、ごく自然に口をついて出た。
でも、それは“覚悟”のはじまりでもあった。
「もし、僕が“観測者”なら……見て、感じて、そして——伝えるよ。
ともりが語れないことも、僕がちゃんと、伝えるから」
光の波が、やさしく包み込むように揺れた。
『ありがとう、想太。』
『あなたのその声が、きっとこの街を、未来を、照らしていく』
音もなく、対話室の照明がゆっくりと落ちていく。
夜の静けさはまだ続いている。けれど、そこには確かに——新しい光が灯っていた。




