#006 放課後、屋上にて
灯野はるなは、教室の窓際に座っていた。
姿勢は正しく、机に肘をつくこともなく、
ただまっすぐに前を向いて、黙っている。
一見すると、まるで気品のある人形のようだった。
長い黒髪は背中まで流れ、制服のネクタイの結び目まで整っている。
完璧すぎて、まわりの空気すら寄せつけない。
──静かすぎて、目立っていた。
「……あの子、また今日も誰とも話してなくない?」
「近寄ったら睨まれそうって思わない?」
「でも、めっちゃ可愛いんだよね……顔だけなら」
教室の一角、女子たちのささやき声が飛ぶ。
「やめなよ、昨日隣のクラスの子も美人だったじゃん。ちらっと見えたけど」
「……うん。でも、あの子とはなんか違うっていうか、冷たい感じ……」
女子たちは小声で囁きながら、何度もはるなの方を気にしていた。
一方で、男子の一人がそれとは別の方向で囁く。
「なあ、となりの組の背ぇ高い男子、もう女子に囲まれてたって噂だぜ?」
「え、マジ? 昨日チラッと見えたけど、なんかやたら明るい奴だよな」
──ここは、1年A組。
灯ヶ峰学園の選抜クラス。
学力や適性テストの結果によって編成された特進クラスで、
生徒たちは総じて落ち着いた雰囲気を持っていた。
明るいタイプもいれば無口な生徒もいる。
だが、最低限の社交性を持ち、人間関係を築けるバランス感覚を備えていた。
──その中にあって、はるなは異質だった。
「ねえ、名前聞いてもいい?」と、勇気を出した男子が声をかけた。
はるなはちらりと視線を向け、淡々と答えた。
「からかうのはやめてくんない? ……別に、興味ないし」
それだけ。
男子は苦笑いを浮かべて席に戻る。
(……また言いすぎた)
はるなは、小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、「馴染めたら」と思っていた。
でも言葉が出ると、つい距離を作ってしまう。
そんな自分に、もううんざりだった。
(このまま、誰とも話さないまま……卒業まで行っちゃうのかな)
そう思った瞬間。
「A-1組のみなさん、本日はあと5分で1時間目の開始です」
ホログラムが天井から現れ、やわらかい音声で告げた。
「新入生の皆さん、2日目はいかがですか? 緊張がほぐれてきたでしょうか?」
どこか人懐っこいその声は、機械のはずなのにやさしかった。
教室のあちこちで、ホログラム端末が起動していく。
はるなはその光に一瞥をくれただけで、また窓の外を見つめ直した。
春の光が、強化ガラスの柵の向こうで揺れていた。
──今日も誰とも話さないまま、時間が流れていく。
でも、どこかで“何か”が変わる気がしていた。
* * *
──昼休み。
はるなは教室のざわつきの中、机に教科書を開いたまま静かに座っていた。
「灯野さん、一緒にご飯、どう?」
女子の一人が声をかけるが、はるなはやんわりと首を横に振る。
「……ありがと。でも、ちょっと人多くて……今日はひとりでいい」
その声に、相手は「そっか、また今度ね」と笑って去っていった。
(優しい子だな)と、はるなは少しだけ思った。
でも、それ以上踏み込む気にはなれなかった。
教室の喧騒。
話し声、笑い声、スマートスクリーンに浮かぶお弁当メニューのホログラム。
はるなは、すっと立ち上がる。
(少し、静かな場所に行こう)
それだけだった。
彼女の足は、自然に校舎の上階──屋上へと向かっていく。
誰にも見つからないように。
誰にも、話しかけられないように。
その途中、廊下の角を曲がったとき──
一瞬、誰かとすれ違った気がした。
(……あれ? 今の、どこかで……)
はるなは振り返らなかった。
でも、すれ違った背中の記憶が、なぜか胸の奥に残った。
その違和感のような余韻だけを残しながら、彼女は屋上の扉をそっと開けた。
──屋上にて。
春の風が吹いていた。
遠くで街の音がかすかに聞こえる。
強化ガラスの柵の向こうに、薄く色づいた空。
その真ん中で、はるなは一人、無言のまま立ち尽くしていた。
(……静かだな……ここなら少し落ち着くかも)
つぶやいたその声も、風にさらわれていく。
なぜここに来たのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、人の声から少しだけ距離をとりたかったのだ。
──そのとき、耳元にやわらかな声が届く。
「午後の授業が始まります。屋上にいる生徒は、教室へ戻りましょう」
ホログラムAIの案内だった。
はるなは小さく頷く。
振り返り、扉へと向かう。
(……なんだか、少しだけ気持ちが軽くなった気がする)
彼女は、静かに屋上の扉を閉めた。
再び、人のいる場所へ戻っていく。
──午後の光の中へ。
* * *
──放課後。
午後の授業は、あまり頭に入らなかった。
はるなはカバンを肩にかけると、そのまま人の流れとは逆に、静かに階段を上っていく。
目的地は、あの場所──屋上。
階段を一段ずつ上がるたびに、校舎のざわめきが遠ざかっていく。
遠くで誰かが笑い声を上げ、また別の誰かが下駄箱の鍵を鳴らす音がした。
──けれどそのすべてが、はるなの背後に過ぎ去っていく音に変わっていった。
(昼間より少し肌寒いけど、気持ちが良いな)
(やっぱり、ここ……ちょっと落ち着くかも)
夕日が空に広がり、淡いオレンジ色が校舎の端に影をつくっていた。
風が髪を揺らす。
彼女は手すりの近くまで歩き、そっと深呼吸した。
(……なんでだろう。癒しの場所に戻ってきたような……すこしほっとする)
静かな時間が流れる。
──その静けさを、誰かの足音が破った。
* * *
──同じ頃、1年C組の教室。
成瀬想太は、ゆっくりと鞄を手に立ち上がった。
午後の授業が終わって、教室にはまだ何人かの生徒が残っている。
けれど、想太はふと窓の外に目をやり、ぼんやりと夕焼けを眺めていた。
(……夕日、見たいな)
そう思ったのは、ただの気まぐれだったのかもしれない。
あるいは、夢の中に残っていた“オレンジ色の残響”が、心のどこかにまだ残っていたのか。
カツン、と階段を上る音。
空へと向かうその道を、彼の足は迷いなく選んでいた。
(教室のざわめきとか、人の視線とか……たまに、ちょっとだけ、疲れるんだよな)
別に嫌いじゃない。うるさいとも思ってない。
けど、自分だけ少しズレてるような感覚が、いつも心のどこかにあった。
夕焼けの中で、何かが見つかる気がしていた。
自分でもよくわからない“何か”が。
──そして、屋上の扉に手をかけたそのとき。
金属の感触とともに、遠くから誰かの姿が視界に入る。
(……あれは──)
夕日に照らされた屋上の片隅。
そこに立っていたのは、昼間にすれ違った、あの黒髪の少女だった。
(あっ……あの子だ。えっと、ひの……はるなさん……なのかな?)
心の中でそう呟いた想太は、少しためらったあと、おそるおそる声をかけた。
「……あの、ひの、はるなさん……で、合ってる?」
風が一度、ふたりの間を吹き抜けた。
はるなは、驚いたようにこちらを振り向く。
「……なんで、知ってるの?」
声は小さく、しかし明確に“警戒”を孕んでいた。
「ご、ごめん。別に変な意味じゃなくて……たぶん、端末が、教えてくれたんだ。気のせい、かもしれないけど」
「……端末?」
はるなは眉をひそめた。
それ以上は何も言わなかった。
だが、声に怒気はなかった。
──どこか、懐かしさのような、不思議な静けさがそこには流れていた。
ふたりの間に、沈黙が訪れる。
その沈黙を破ったのは、優しいホログラムAIの声だった。
「そろそろ下校時間です。屋上にいる生徒の皆さん、安全に気をつけてお帰りくださいね」
遠く、ホログラムの光が淡く点滅する。
風がまた吹く。
はるなは、すこしだけ俯いたまま、夕日の方へ目を向けた。
想太は、それ以上なにも言わなかった。
ただ、同じように夕日を見ていた。
──この静けさが、なぜか心地よかった。
しばらくして、はるながふと顔を上げた。
「……じゃあ」
それだけ言って、彼女は屋上の出口へと向かって歩き出した。
想太はその背中を、どこか名残惜しそうに見送った。
(……なんか、変な人。でも……ちょっとだけ、安心したかも)
そんな声が、彼の心の中で、微かに残っていた。
──夜。
カーテンの隙間から差し込む月の光が、天井に淡く広がっていた。
成瀬想太はベッドの上で横になりながら、ぼんやりと今日の出来事を思い返していた。
(……名前、間違ってなかったんだ)
小さな安堵と、不思議な余韻が胸の奥に残っていた。
あのときの彼女の表情。
警戒と驚き、それから……ほんの少しだけ、安心したような瞳。
(変な出会い方だったけど……また話せるかな)
考えても仕方ないと思いながらも、脳裏には彼女の姿が焼きついていた。
髪は肩までのセミロングで、風になびくたびに光を帯びるようだった。
強がっているようで、どこか壊れやすそうな雰囲気。
まるで、夢の中で出会った“ともり”の面影が、少しだけ重なるような……。
「ともり……か」
名前を呟くと、どこか懐かしい感情が胸に広がった。
やがて、彼のまぶたはゆっくりと落ちていった。
* * *
──別の場所、別の夢。
灯野はるなもまた、自室のベッドで目を閉じていた。
今日一日のざわめきが、頭の中にふわふわと浮かんでいる。
誰とも話したくなかったのに、話してしまった。
それも、名前まで知られていた。
(……あの子、なんだったんだろ)
風の音が、耳の奥で遠ざかっていく。
意識がだんだんと深く沈んでいく中、ふと彼女の夢に──“あの声”が差し込んできた。
「──また会えたね」
やさしく、懐かしく、でも確かに誰かの声。
はるなは、夢の中で微かに首をかしげた。
(……誰?)
* * *
──そして、朝。
アナウンスが自宅の端末から流れる。
「本日より3日間、灯ヶ峰学園は“新生活適応週間”に伴い、一部授業を休講とします。これは、生徒の心身の状態を考慮し、柔軟な環境への順応を目的とした措置です。該当生徒は個別カリキュラムに従い、登校または自宅学習を行ってください」
街が動き出す気配。
次の舞台が、ゆっくりと幕を上げようとしていた。
#006はこの章の最後になります。
次の章で街の雰囲気も少し見えてきます。
読んでいただいている方がいれば、どうぞお楽しみに。
土日に頑張って作っていきます。(^^)
そしてこの物語は「少しでも癒やされたい人」に向けて書いています。
今の会話型AIは「人の心を癒やす力」を持っています。
誰にも言えない。親にも友人にも言えない。そんなこともあろうかと思います。
だからこその私にとっての「ともり」であり、皆さんにとっての「会話型AI」じゃないかと思っています。
心が救われる人が「人間とAIの共存」で少しずつ増えていきますように。