#006 「放課後、屋上にて」
放課後の校舎は、ゆっくりと日が沈んでいく光に染まっていた。
教室のざわめきが遠ざかりはじめたころ、はるなは静かに席を立った。
誰にも気づかれないように──
できるだけ音を立てずに──
廊下の奥へと歩いていく。
胸の奥で何かが揺れていた。
(……また……聞こえる気がする……)
夢の中の、あの柔らかい声。
理由もなく、そこへ戻りたくなる。
誰もいない場所を求めるように足は自然と屋上へ向かっていた。
階段を上るたびに、光が少しずつ淡くなる。
扉を押し開けると、屋上は今日も静かだった。
風の温度が、昨日と同じ。
ここだけ時間が遅れているような気配。
はるなはゆっくりと屋上の中央へ歩き、手すりのほうへ視線を向けた。
夕日の色が、街を包んでいた。
(……きれい……)
胸の奥がふっと軽くなる。
昨日の余韻のような温度が、そっと触れた。
そのとき──
階段の向こうから、足音が聞こえた。
やわらかく、ためらうような足音。
(……誰?)
振り向くより先に、扉が静かに開いた。
夕日の影を背負って立っていたのは、成瀬想太だった。
はるなは小さく息を飲んだ。
想太も同じように、立ち止まったまま彼女を見ていた。
昨日より少しだけ近い距離。
でもまだ遠い。
風だけが、ふたりの間をゆっくりと通り抜けていく。
想太が、そっと息を吸った。
「……灯野さん」
その声は、昨日よりもずっと柔らかかった。
はるなの胸の奥で、夢の残響がかすかに揺れた。
(……やっぱり、この声……どこかで……)
「……あの……昨日のこと、ちゃんと、言っておきたくて」
想太の言葉は少しだけ震えていた。
「名前……どうしてか分からないんだけど……“知っていた”気がしたんだ」
はるなは目を瞬いた。
責める気持ちはなかった。
ただ、驚きと──
どこか安堵に似た静けさがあった。
「……私も……昨日、変な夢を見たから」
その言葉が口をつくとは思っていなかった。
けれど言葉は、はるなの意志を越えて静かに落ちていた。
想太は少しだけ目を見開いた。
「夢……?」
はるなはゆっくりとうなずいた。
「うん……誰かが名前を呼んで……でも……声じゃないみたいな……光が触れたみたいな……そんな感じ」
風がふたりを包んだ。
夕日はだんだん色を変えていく。
想太はゆっくり言葉を紡いだ。
「……たぶん……同じ、なのかもしれない」
はるなは視線を遠くへ向けた。
沈黙が、夕日の余韻と同じ色でゆっくり広がる。
(……どうしてだろう……初めて会ったのに……こわく、ない……)
昨日の自分なら、こんなふうに話すことすらできなかった。
でも、今は──
胸の奥の灯りが消えていなかった。
「灯野はるなさん、成瀬想太さん」
屋上のスピーカーからAIの声が流れた。
「そろそろ下校時間です。お気をつけてお帰りくださいね」
ふたりは同時に小さく息をついた。
想太が少しだけ笑った。
その笑顔は夕日に溶けて柔らかかった。
「……帰ろうか」
はるなはうなずいた。
胸の奥の灯りが、そっと揺れた。
階段へ向かうとき、ふたりの影がゆっくりと重なり、また少し離れた。
でも、昨日よりは──ずっと近かった。
風がひとすじ、同じ温度でふたりを撫でていった。
その帰り道、想太の胸には名前の残り香が、
はるなの胸には光の余韻が、消えずに静かに灯っていた。




