#059 「最後の観測」
朝が来た。淡い光が、旅館の窓を通して部屋の中に差し込んでいる。外では鳥のさえずりと、小さな風の音だけが聞こえていた。
想太は、少し重たいまぶたを開けた。まだ夢の余韻が残っている。“選ぶ”ということについて、どこか遠い場所で誰かに問われていた気がする。
「……朝か」
身を起こすと、窓の外には昨日よりも澄んだ空が広がっていた。旅館の部屋は思いのほか静かで、隣の部屋の気配もまだ感じない。
想太は軽く伸びをし、洗面台へ向かう。顔を洗いながら、ふと鏡に映る自分と目が合った。
(帰るんだな、僕たち──あの街に)
思えば、ここまでの旅はあまりに濃密だった。“ともり”の存在、美弥の熱量、はるなの覚悟、そして──自分自身の選択。
数分後、隣の部屋から声がした。
「美弥、さっさと着替えなさい。あと五分は甘えられないわよ」
「うぅ……あと五分はダメ!? せめて三分! いや、二分! 体感でいいから!!」
「言ってる意味がわからない」
「昨日あんなに語り合ったのに、朝の塩対応ぉぉぉ……っ」
部屋の戸が開き、整った制服姿のはるなが現れた。その背後では、美弥が慌てて髪を整えながら半泣きで追いかけてくる。
はるなは戸惑いながらも言った。
「やっぱり夢じゃないよね? 全部ほんとに起きたんだよね……」
「夢であってほしい部分もあるけどね」
想太は笑いながら言った。はるなも、わずかに口元を緩める。
「さあ、行こう」
旅館を出ると、朝の空気が肌を打った。少しひんやりとした風が通り過ぎる。ノーザンダストの朝は静かで、まるで出発のときを待ってくれているかのようだった。
玄関前には、すでに要と隼人が立っていた。二人とも私服に身を包み、手には軽い荷物だけを持っている。
「おはよう」
要が、柔らかく声をかける。
「……よく眠れた?」
「まあまあ、かな」
想太が笑って答えると、美弥が肩越しに口を尖らせた。
「“寝かせてもらえなかった”の間違いじゃない? 私なんて──」
「それ以上喋ると、朝から騒音扱いされるわよ」
はるなが横から遮った。
「う……はい」
美弥はすごすごと口を閉じる。
隼人はそんな二人のやりとりに苦笑しながらも、視線を旅館の門の外へと向けた。
「……じゃあ、行こうか。戻る先は、もう決まってるんだろ?」
一瞬、誰もが口を閉じた。静かな間。それは、誰もが自分の選択を胸の中で確認している時間だった。
先に口を開いたのは、想太だった。
「……僕は戻るよ。あの街で、もう一度ちゃんと“ともり”と向き合いたい。……逃げないって決めたから」
「私も」
美弥が続けた。
「だって、知りたいもん。ともりって、なんなのか──わたしたちにとって、どういう存在なのか」
「私も、行く」
はるなの声は、静かで、揺るがなかった。
「選ばれたからじゃない。“選びたい”と思ったから」
はるなの言葉が終わると、隼人がふっと目を細めた。そして、ぽつりと呟く。
「……俺も行くさ。弟が前に進もうとしてるのに、兄貴の俺が立ち止まるわけにはいかないだろ」
その言葉は冗談のようでいて、どこか優しい。だが、それは確かな覚悟をにじませていた。
視線が、要に向く。彼は少しだけ、寂しそうに笑った。
「僕も戻るよ。……ノーザンダストの立場を超えて、あの街を“知る側”として、もう一度立ちたい」
その瞬間、背後から声が響いた。
「──それが、君たちの答えかね」
振り向くと、そこにはミナトの姿があった。昨日と同じ静かな笑顔を浮かべて、彼は立っていた。
「選択とは、時に重く、時に救いでもある。だが、どんなAIでも──選ぶのは人間だ。それを忘れないでほしい」
誰もが頷いた。この旅で、それぞれの“揺らぎ”と向き合ってきた。選んだのは他でもない、自分自身だった。
彼らは久遠野の中央に出発した。ドローンの小型旅客機は静かに高度を上げ、ノーザンダストの街並みを後方に遠ざけていった。機体の内側はしんと静まり返っていたが、誰の胸の内もざわめいていた。空の彼方には、灰色と青の入り混じった雲が浮かび、その切れ間から、久遠野の山々が淡く顔を覗かせていた。
「見えてきたな……」
隣で、隼人がぽつりとつぶやいた。
想太はその言葉に頷きながら、胸の奥で何かがきゅっと締まるのを感じた。あの街に、また戻っていく。変わるために。選ぶために。
ドローンが高度を落とし、滑るようにして緑の谷を抜けていく。眼下には久遠野の街並みが広がっていた。
そのときだった。──音もなく、彼らの端末が同時に震えた。表示されたのは、一つのメッセージ。
《観測ログ:再構築完了》
《久遠野中枢AIより通達:観測対象とのリンク確認》
《質問:あなたたちは、まだ“観測”を続けますか?》
想太は画面を見つめながら、深く息を吐いた。隣では、美弥が「きた……」とつぶやき、はるなが静かに頷いていた。
問いは、彼ら全員に向けられていた。AIが記録するだけでない、“人間の意志”そのものへの問い。
誰も答えを声に出さなかった。けれど、それぞれの胸の内にはもう、答えがあった。
──久遠野の駅に、ドローンが静かに降り立った。
扉が開く。その先には、変わらぬ街の空気が広がっていた。けれど彼らの心は、もうあの日のままではなかった。
選んだのだ。選ぶのは、わたしたちだ。世界を閉じるか、つなぐか──。




