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灯野はるなは、世界の鍵をポケットに入れていた。(シリーズ1)  作者: 皆月 優
001_第一章「鍵はまだ、手の中にない」
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#005 「夢の余韻と、遠ざかる名前」

 朝の光が、薄い白膜のように部屋を満たしていた。

 想太はゆっくりと意識を浮かせる。

 胸の奥に、かすかなざわめきが残っていた。


 夢の中で──

 誰かが名前を呼ぶ気配があった。

 光の粒に触れられるような、やわらかな響き。

 目覚めた今も、その残り香だけが静かに揺れている。


  (……灯野さん……)


 昨日、夢の中で聞いたはずの名前。

 そして屋上で、本人に確かめてしまった名前。

 現実では誰も口にしていないのに、どうしてこんなにも胸に残るのか。


  (……どうして……初めて聞いた気がしないんだ)


 制服の襟を整え、まだ半分だけ夢の中にいるような朝の光へ踏み出した。


 通学路の空気は透明で、風が少し冷たかった。

 学園ゲートに近づくと、ホログラムAIがやわらかく挨拶する。


「本日もよろしくお願いいたします、成瀬想太さん」


 いつもと同じ声のはずなのに──

 名前の響きが、胸に静かに沈んだ。


 教室に入ると、美弥が先に席についていた。


「おはよう、成瀬くん。なんか……夢の途中みたいな顔ね」

「そんなに変かな……?」

「うん。ふわふわしてる感じ。無理してない?」

「大丈夫。ちょっと、考えごと」


 美弥は首をかしげつつ微笑む。


「考えごとするタイプだったっけ?」

「……どうだろ。最近、多いのかも」

 言葉を濁すと、ちょうど隼人が教室に入ってきた。


「おはよー想太。うわ、お前ほんと寝ぼけてんじゃん」

「寝ぼけてないって。夢のせい」

「夢ねぇ……。あ、そういえばさ」


 隼人は何気なくA組の方を見た。


「昨日見たあの静かな子、A組の子なんだってよ」

「……うん」


 想太が短く返事をすると、美弥が小さく声を重ねる。


「名前……分かったの?」


 一瞬、胸が跳ねた。

 けれど、答える理由は十分にある。


「……灯野はるなさん。昨日、少し話すことになって……その時に」


 美弥は驚いたように瞬きをした。


「話したの? あの子と?」

「偶然だよ。屋上で──ちょっとだけ」


 隼人が肘で軽くつつく。


「へぇ。成瀬って何気にコミュ力あるじゃん」

「そんなのじゃないって」


 想太は困ったように笑い、視線をそらした。

 胸の奥で、名前の響きだけが静かに揺れている。


  (……今日こそ、話せるんだろうか)


 窓越しにA組を見ると、はるなが静かに座っていた。

 淡い光が髪を揺らし、昨日の屋上と同じ“透明な孤独”をまとっていた。


 理由は分からない。

 でも、近づきたいと思った。


 昼休み。

 廊下は白い光で満ちていた。

 角を曲がった瞬間、想太は足を止めた。

 はるなが、ひとりで歩いていた。

 昨日の屋上と同じ空気。

 けれど、どこか少しだけ弱い。


 互いに気づき、ほんのわずかに視線が重なる。

 言葉にならない沈黙。


 その静けさは一瞬で破られた。


「ちょっとどいてよ、灯野さん」

 数人の女子が肩を押しながら通り過ぎた。

 はるなの身体がゆれる。

 それでも、何も言わなかった。


 呼吸が小さく震えているように見えた。


  (……嫌だ……)


 胸が痛んだ。

 声をかけようとしたのに、言葉が出てこない。


 はるなはすれ違いざまに、一瞬だけ想太を見た。

 その瞳は、昨日と同じ──傷ついた透明。


  (……守りたい……?)


 考えるより先に落ちてきた感情。

 けれど足は動かなかった。


 はるなは小さく会釈し、静かにその場を去っていった。


 廊下に風がひとすじ流れ、光がゆっくり揺れた。


 遠ざかる背中。

 追いかけられなかった距離。


  (……今日こそ話せると思ったのに……)


 胸の奥に残ったのは、名前の残り香と、触れられない距離の痛みだけだった。

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