#005 夢の余韻と、遠ざかる名前
覚めたばかりの夢は、まだ肌の奥に残っている気がした。
何か、大事なことを聞いたような──
けれど目覚めてしまった今、それは霧の向こうに消えてしまった。
「……なんか、大切なことだった気がするんだけど」
口の中でつぶやいた声は、少しだけ自分でも驚くくらい真剣だった。
制服に袖を通しながら、想太はぼんやりと鏡を見つめた。
──あれ?
……ひの……?
……はるな……?
かすかに、耳の奥に残っている名前。
でも、それが誰なのかまでは、思い出せなかった。
昨日の放課後、窓越しに見かけた彼女の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。
あの静かな後ろ姿。
そしてそのとき感じた、どうしようもなく強い「既視感」──
***
──窓の向こうにいた、あの女の子。
猫と、紙袋と、小鳥と。
春の光の中に立っていた、ただそれだけなのに──
どうしてあんなに、気になるんだろう。
わからない。
でも、今日もきっとあの学園のどこかにいる。
それだけで、ほんの少し足取りが軽くなる気がした。
***
登校の道。街のアーケードを抜け、坂道を登ると、
灯ヶ峰学園の正門ホログラムが朝の光を浴びて輝いていた。
「本日もよろしくお願いいたします、成瀬 想太さん」
ゲートAIの音声が、やさしく応える。
彼は笑って会釈しながら、ゆっくりと校舎の中へと入っていった。
──まもなく、授業が始まります。各自、席についてくださいね。
***
灯ヶ峰学園、2日目の朝。
教室に入ると、昨日よりも少しだけ賑やかになっていた。
すでに席に着いている生徒、談笑するグループ、
その中心に、天城隼人の姿があった。
「いやいや、まじでそれ中学の時の話? どんだけだよ!」
「でさー、先生より英語うまいって言われたんだけど、
それ絶対ほめてないよな? なあ?」
隼人の軽快な声が、周囲の笑いを誘っていた。
彼はクラスの中心に自然に存在していて、
男子とも女子とも分け隔てなく話しかけ、誰とでもすぐに打ち解けていた。
──そして、何人かの女子はもう彼に惹かれているようだった。
「やっぱ背が高いといいよねー」「え、天城くんって彼女いたのかな?」
そんな小声が、窓際の席に届くか届かないかの音量で交わされていた。
そのとき──
「久遠さんもどう思う?」と、隼人が不意に話題を振る。
「ふふ……なにが?」
黒髪を揺らして振り返ったのは、久遠 美弥だった。
隼人は笑って、「いやー、『第一印象ってどこで決まるか』って話してたんだけど、久遠さんならどう返すかなーって」
「んー、天城くんみたいな人がそう言うと、全部軽く聞こえちゃうのよね」
「おっと、手厳しい」
「でも、たぶんそれでいいと思ってるでしょ?」
──そう言って、美弥はやわらかく笑った。
けれど、想太には分かった。
その笑顔の奥に、「ひとつ引いた距離感」があること。
……この子、たぶん本当は、すごく人をよく見てる。
想太はそんなふたりのやりとりを横目に見ながら、
自分の居場所を探すように、教室を見渡した。
そのときだった。
ふと視線の先に、
隣の教室──A-1の窓際に座る、ひとりの少女の姿があった。
静かに、前を向いて座っている。
光を受けるその横顔は、どこか孤独で、どこか美しかった。
……あれは……
昨日の窓の向こう、猫と、紙袋と、春の光の中にいた、
あの少女。
──彼女だ。
想太の胸の奥で、何かが静かに震えた。
想太はうっかり席をずらし、机の端末がふっと反応した。
「……どうかしましたか? 心拍数が普段より少し上がっています」
「え、あ……なんでもないです」
「安心しました」
机の表示が優しく消えた。
周囲は誰も気づいていない。
──この世界では、“ちょっとした心の変化”すら、見守られている。
でもその安心が、嬉しいと思う自分に、少し驚いていた。
***
昼休み。
自販機で水を買って、廊下の壁に寄りかかっていた。
そのとき──
正面から歩いてくる、ひとりの女子生徒の姿が目に入った。
空気が、変わった。
制服はきちんと着こなしていて、髪はきらめくように揺れている。
でも、それだけじゃない。
彼女のまわりだけが、静かな張り詰めた空間になっていた。
男子が何か言葉をかけようとして──その一言を凍る視線で斬られる。
──その瞬間。
すれ違った、あの少女。
黒髪がふわりと揺れて、微かに甘い香りが残った。
想太は、一瞬だけ振り返る。
でも、彼女は振り返らない。
ただ、まっすぐ前を見て歩いていく。
(……よく表現できないけど……)
「なんでだろう」
「……あの子、名前……なんて言うんだろう」
昨日の夢、今朝の残響、そしてこの瞬間。
全部が、ひとつの線になって繋がっていく気がした。
髪が揺れて、風が残る。
その一瞬のきらめきだけが、目の奥に焼きついた。
──はるな。
その名前が、また浮かぶ。
どこかで……夢で聞いた気がする。
そのとき、机の端末からふいに音声が漏れた。
――灯野 はるな、だよ。
想太は目を見開いた。
「え……? 今、なにか言った……?」
「発話ログは記録されていません」
AI端末は、静かにそう返すだけだった。
……でも、その声は確かに、心の奥で響いていた。
(……やっぱり。名前、知ってる)
そして、気づいた。
──これが、ただの“偶然”なんかじゃないことを。
なかなか公開が遅くてすみません。
皆月です。
#0005と#0006は登場人物については大事な物語になっています。
#0007から(まだ今から草案を初めて行くけど)舞台が広がっていきます。
読んでいただける人が少しでもいたら嬉しいな。