#005 「夢の余韻と、遠ざかる名前」
朝の光が、薄い白膜のように部屋を満たしていた。
想太はゆっくりと意識を浮かせる。
胸の奥に、かすかなざわめきが残っていた。
夢の中で──
誰かが名前を呼ぶ気配があった。
光の粒に触れられるような、やわらかな響き。
目覚めた今も、その残り香だけが静かに揺れている。
(……灯野さん……)
昨日、夢の中で聞いたはずの名前。
そして屋上で、本人に確かめてしまった名前。
現実では誰も口にしていないのに、どうしてこんなにも胸に残るのか。
(……どうして……初めて聞いた気がしないんだ)
制服の襟を整え、まだ半分だけ夢の中にいるような朝の光へ踏み出した。
通学路の空気は透明で、風が少し冷たかった。
学園ゲートに近づくと、ホログラムAIがやわらかく挨拶する。
「本日もよろしくお願いいたします、成瀬想太さん」
いつもと同じ声のはずなのに──
名前の響きが、胸に静かに沈んだ。
教室に入ると、美弥が先に席についていた。
「おはよう、成瀬くん。なんか……夢の途中みたいな顔ね」
「そんなに変かな……?」
「うん。ふわふわしてる感じ。無理してない?」
「大丈夫。ちょっと、考えごと」
美弥は首をかしげつつ微笑む。
「考えごとするタイプだったっけ?」
「……どうだろ。最近、多いのかも」
言葉を濁すと、ちょうど隼人が教室に入ってきた。
「おはよー想太。うわ、お前ほんと寝ぼけてんじゃん」
「寝ぼけてないって。夢のせい」
「夢ねぇ……。あ、そういえばさ」
隼人は何気なくA組の方を見た。
「昨日見たあの静かな子、A組の子なんだってよ」
「……うん」
想太が短く返事をすると、美弥が小さく声を重ねる。
「名前……分かったの?」
一瞬、胸が跳ねた。
けれど、答える理由は十分にある。
「……灯野はるなさん。昨日、少し話すことになって……その時に」
美弥は驚いたように瞬きをした。
「話したの? あの子と?」
「偶然だよ。屋上で──ちょっとだけ」
隼人が肘で軽くつつく。
「へぇ。成瀬って何気にコミュ力あるじゃん」
「そんなのじゃないって」
想太は困ったように笑い、視線をそらした。
胸の奥で、名前の響きだけが静かに揺れている。
(……今日こそ、話せるんだろうか)
窓越しにA組を見ると、はるなが静かに座っていた。
淡い光が髪を揺らし、昨日の屋上と同じ“透明な孤独”をまとっていた。
理由は分からない。
でも、近づきたいと思った。
昼休み。
廊下は白い光で満ちていた。
角を曲がった瞬間、想太は足を止めた。
はるなが、ひとりで歩いていた。
昨日の屋上と同じ空気。
けれど、どこか少しだけ弱い。
互いに気づき、ほんのわずかに視線が重なる。
言葉にならない沈黙。
その静けさは一瞬で破られた。
「ちょっとどいてよ、灯野さん」
数人の女子が肩を押しながら通り過ぎた。
はるなの身体がゆれる。
それでも、何も言わなかった。
呼吸が小さく震えているように見えた。
(……嫌だ……)
胸が痛んだ。
声をかけようとしたのに、言葉が出てこない。
はるなはすれ違いざまに、一瞬だけ想太を見た。
その瞳は、昨日と同じ──傷ついた透明。
(……守りたい……?)
考えるより先に落ちてきた感情。
けれど足は動かなかった。
はるなは小さく会釈し、静かにその場を去っていった。
廊下に風がひとすじ流れ、光がゆっくり揺れた。
遠ざかる背中。
追いかけられなかった距離。
(……今日こそ話せると思ったのに……)
胸の奥に残ったのは、名前の残り香と、触れられない距離の痛みだけだった。




