#051 「ノーザンダストへ その1」
バスのドアが、油の切れた蝶番のような音を立てて開いた。その音に誘われるように、はるなは一歩、外の空気へと足を踏み出す。
見渡す限り、灰色の風景。錆びついた看板、ひび割れたアスファルト。空は広く、雲はゆっくりと流れているのに、街そのものは、まるで時が止まったかのようだった。
「……ここが、ノーザンダスト」
想太が呟いた。
はるなはその声に、小さくうなずく。
「思ったより……静かだね」
「人が少ないというより、音が少ない感じだな」
要が短く付け加えた。
どこかで見たことがあるような、懐かしさが胸の奥に広がる。はるなには、その理由がわからなかった。ただ、風の匂いが記憶を優しく揺らしていた。
隼人は、仲間たちの少し後ろを、黙って歩いていた。一歩踏み出すたびに、足裏が小さく軋む。その音すら、懐かしく感じられる。
この道を、自転車で駆け下りた日があった。この塀をよじ登って、向こう側へ抜けた日も。
記憶のなかのノーザンダストは、もっと賑やかで、もっと狭かった。今の街は、広すぎる。静かすぎる。思い出の中で知っていた街とは、少し違う。
「……変わったな」
そう呟いた声は、誰にも届かないほど小さかった。
湊の顔が、ふと脳裏をよぎる。再会は近い。けれど、それが“再会”と呼べるのか、隼人にはまだわからなかった。
一方ではるなは、胸の奥にひっかかった“懐かしさ”の正体を、ずっと探していた。
この街に来たのは初めてのはずだ。それなのに、心が知っている。
記憶じゃない。もっと深いところ。「ともり」と初めて出会った、あの夜のように。何かが、静かに共鳴していた。
ふと隣を見ると、想太が無言のまま歩いていた。歩幅は変わらず、表情も硬い。けれど、彼の指先が、わずかに震えている。
「……緊張してる?」
はるなは、あえて軽く声をかけた。
想太は一瞬だけ視線を上げ、すぐに前を向いた。
「……たぶん。逃げてきた場所に、戻ってきた感じがしてさ」
はるなは、それ以上は聞かなかった。今は、言葉よりも歩く時間が必要だと、感じたからだ。
想太が向き合おうとしているのは、自分がずっと背を向けてきた“記録”。ノーザンダストという街は、久遠野とは異なる視点でAIを見てきた場所。
そこで何が語られ、何が黙殺されてきたのか——彼は、それを確かめに来ている。
美弥は、歩きながらもきょろきょろと街並みを見回していた。
「あー、なんか昭和レトロ感すごい……え、てか誰も気づかないの?ノーザンダストなのに、“ダストパーク”って書いてあるんだけど」
「そこ、昔の名称だよ」
要が即座に答える。
「観光再編の途中で、名前だけ残った」
「なるほどね。看板だけが観測者だったわけだ」
「うまいこと言ったつもり?」
「三割くらい」
冗談めかして笑う美弥の目は、冴えていた。一見緩やかでも、何かあればすぐ動ける。心のどこかで、臨戦態勢を解いてはいなかった。
はるなは、みんなの歩幅が、微妙に揃っていないことに気づく。同じ方向へ進んでいても、心の中では、それぞれが別の時間を歩いている。
ノーザンダストという場所が、一人ひとりに違う“問い”を投げかけている。
そして、それにまだ答えられていないのは——自分だけかもしれない。
はるなは、ふと立ち止まった。背中を、風が吹き抜ける。どこか懐かしい音だった。
「こっちだよ」
要が短く言って、通りの奥へと歩き出す。その声も、どこかこの街に馴染んでいるように感じられた。
足元の道は、わずかに傾いている。アスファルトの隙間から草が伸び、電柱にかかった古びた案内板には、消えかけた観光地名が残っていた。
遠くで、風鈴の音が鳴る。季節は夏なのだと、忘れかけていたことを思い出す。
「……この音、久遠野じゃあまり聞かないね」
「向こうは管理が行き届きすぎてるからな」
隼人の言葉に、要がうなずいた。
路地の奥に、小さな無人の売店があった。飴玉や使い捨てのタオルが並ぶ棚の横に、小さなディスプレイが埋め込まれている。
人感センサーが反応し、画面に柔らかな女性の顔が映った。
「こんにちは。今日は、歩きやすい日ですね」
音声は、機械的ではなかった。ゆったりとして、どこか懐かしさを含んだ声。
はるなは、少し戸惑ってから、ぽつりと答えた。
「……うん。涼しい風、気持ちいい」
ディスプレイの女性は、ほんのわずか、表情を緩めたように見えた。
「それは、よかったです」
会話は、それだけだった。けれど、はるなの胸には、静かに何かが残った。“ともり”以外のAIと、こんなふうに言葉を交わしたのは、初めてだった。
命令でも、評価でもない。ただ、そこにいて、「こんにちは」と返してくれただけ。
「……こんな街も、あるんだね」
はるなの声は、わずかに震えていた。
少し先では、スピーカー越しにAIが老婦人と話している。
「今日はね、あの子が来てくれるんだよ。だからお昼はちょっと豪華にするの」
「うれしいですね」
それだけ。けれど、老婦人はにこにこと笑っていた。
「……話し相手、なんだ」
想太が、ぽつりと呟く。
要は、歩みを止めずに言った。
「この街じゃ、AIは“使われるもの”じゃない。一緒に生きてる存在なんだよ」
想太は、静かに息を吐いた。
「共にある……そんな関係、本当に成り立つんだな」
はるなは、うなずかなかった。それでも、胸の奥が、少しだけあたたかくなっているのを感じていた。
「ここで——会ってもらいたい人がいるんだ」
要の声が、風の中ではっきりと響いた。




