#004 「孤高の輪郭」
朝の光が強化ガラス越しに差し込み、1年A組の教室に淡い白を落としていた。
その日のはるなは、いつも以上に静かだった。
背筋は一本の線のように伸び、長い黒髪は肩を越えて静かに流れ落ちている。
制服の襟も、ネクタイの結び目も、乱れひとつない。
まるで、触れれば音を立てて壊れてしまいそうな静謐さだった。
「……今日も、誰とも話してないよね」
「近寄ったら睨まれそうって感じじゃない?」
「でも……顔はすごい可愛いよね、あの子……」
小さな声が、教室の端で重なっていく。
どれもはるなの耳に届く距離だった。
だが彼女は、ひとつも反応を見せなかった。
(……聞こえてないふり、またやっちゃってる)
言い返す気はない。ただ、どう扱えばいいのか分からないだけだ。
ほんのわずかな表情の揺れが伝わるだけで、誰かの心を乱してしまう──
そんな気がして、いつの間にか距離を取る癖がついていた。
今日もまた、教室の空気から少し浮いていた。
「ねえ、名前聞いてもいい?」
声が落ちてきたのは、背後からだった。
はるなはゆっくりと振り返る。
そこにいた男子生徒は、勇気をふりしぼったように笑っていた。
「あの……灯野、はるなさん?」
呼ばれた瞬間、胸が固まった。
はるなは一度だけ瞬きをし、そのまま小さく首を振る。
「……そんなふうに、呼ばないで」
「あっ……ごめん、えっと……」
男子生徒は慌てて手を振った。
「変な意味じゃないんだ。ただ……名前、合ってたかなって」
「……うん。合ってる」
「そっか……なら、よかった」
気まずそうに頬をかき、男子は席へ戻っていった。
見送るはるなの視界が、少しだけ滲んだ。
(また……上手く返せなかった)
胸の奥に小さな痛みが残る。
はるなは胸の奥に、薄い痛みのようなものを覚えた。
ほんの少しだけ、“話してみようかな”と思っていた自分を裏切るように、言葉が勝手に防壁を作ってしまう。
(このまま……誰とも話さないで卒業しちゃうのかな)
その不安が胸のどこかで小さく揺れた。
天井付近にふっと光が灯る。
「1年A組のみなさん、本日はあと5分で1時間目の開始です」
ホログラムAIの優しい声が、教室の空気を整えるように響く。
機械なのに、不思議と温度がある。
はるなは一度だけ小さく息を吐き、また窓の外へ視線を戻した。
静かな街並み。春風に揺れる校舎の影。
その景色のどこかに、昨日すれ違った“一瞬”が残っている気がした。
──風の中で漂った、誰かの匂い。
──すれ違った背中に覚えた、説明できない引っかかり。
(……あれ、誰だったんだろ)
自分でも理由は分からない。でも、胸の奥に薄い余韻だけが残っていた。
昼休み。教室がざわつき始める。
「はるなさん、一緒に食べない?」
声をかけてくれた女子もいた。はるなは小さく首を振った。
「……ありがと。でも……今日はひとりでいい」
無理に断ったわけではない。ただ、人の輪の中に入る勇気がなかった。
(優しい子だったな……)
でも、それ以上踏み込めない。
はるなは静かに立ち上がり、教科書を机にそっと閉じる。
(少し……静かな場所、行こう)
廊下の喧騒から離れ、階段を上がる足取りはほとんど音を立てなかった。
屋上に続く扉の前で、一度立ち止まる。
この場所はまだ誰にも知られていない“逃げ道”だった。
金属の冷たい取手に触れ、そっと扉を押し開ける。
春風が頬を撫でた。
「……静か」
はるなは、強化ガラスの柵のそばまで歩く。
遠くの街の音が、薄い膜の向こうからかすかに聞こえる。
ここだけ、世界が少し広くなる気がした。
(……なんでだろう。ここ、落ち着く)
ほんの少しだけ口角が緩む。
風が髪を揺らし、はるなの影が床に伸びる。
それは、彼女が“たったひとりで呼吸できる場所”だった。
午後の授業は、どこか上の空だった。
教室に戻っても、心はまだ屋上に残っていた。
放課後。
人の流れと逆方向へ歩きながら、はるなは再び階段を上っていた。
(昼より、少し肌寒い……でも、嫌じゃない)
扉を開けると、夕焼けが校舎の端に長い影を作っていた。
春の風がゆっくりと吹き抜ける。
そのとき──足音が近づく気配がした。
(……誰か来る……?)
振り返るより先に、扉が静かに開いた。
夕日を背にして立っていたのは──
昼間、すれ違った“あの背中”の持ち主だった。
(……あ……)
想太の胸の奥で、静かに何かが震えた。
昨日から続く“名前の残響”。
理由もなく、ただその存在に心が揺れる。
想太は喉を鳴らし、ほんの少し息を吸ってから、言葉を落とした。
「……ひの、はるなさん……で、合ってる……かな……」
はるなの瞳がわずかに揺れた。
「……なんで、知ってるの?」
声は弱く、しかし警戒を帯びている。
けれど、その奥にほんの小さな“引っかかり”があった。
「ご、ごめん……変な意味じゃなくて。ただ……昨日から、名前が……残ってる、っていうか……たぶん……気のせい、なんだけど」
(名前……? 残ってる……?)
はるなの胸の奥で、眠りの底に落ちた“灯り”がふっと揺れた気がした。
昨日の夜の、あの声の残響──
夢と現実の境界で聞こえた“ひかり”。
言葉にできない沈黙が、ふたりの間を満たす。
風がひとすじ通り抜け、髪を揺らした。
その沈黙を破ったのは、静かに流れるホログラムAIの声だった。
「そろそろ下校時間です。屋上にいる生徒の皆さん、安全に気をつけてお帰りくださいね」
はるなは、ゆっくりと顔をそらした。
夕日の方へ視線を戻し、胸の奥に残った微かなざわめきを押し隠すように。
「……じゃあ」
短い言葉だけを残し、扉へ歩き出す。
その背中は迷いがないようでいて、どこか頼りなく揺れていた。
(……変な人……でも……)
はるなは、ゆっくりと彼を見た。
──ほんの少しだけ、安心した。
想太はその背中をただ静かに見送った。
胸の奥に残る揺らぎは、説明のつかないままだった。
はるなが階段を降りていく階下の気配が消えたあと、夕日の色がゆっくりと薄れていくのを見つめながら、想太は微かに息を飲んだ。
(……また、会えるのかな)
答えのない問いだけが、風の中に残った。
その夜、二人を包んだ風は、どこか同じ温度を帯びていた──。




