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灯野はるなは、世界の鍵をポケットに入れていた。(シリーズ1)  作者: 皆月 優
001_第一章「鍵はまだ、手の中にない」
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#004 「孤高の輪郭」

 朝の光が強化ガラス越しに差し込み、1年A組の教室に淡い白を落としていた。

 その日のはるなは、いつも以上に静かだった。

 背筋は一本の線のように伸び、長い黒髪は肩を越えて静かに流れ落ちている。

 制服の襟も、ネクタイの結び目も、乱れひとつない。

 まるで、触れれば音を立てて壊れてしまいそうな静謐(せいひつ)さだった。


「……今日も、誰とも話してないよね」

「近寄ったら睨まれそうって感じじゃない?」

「でも……顔はすごい可愛いよね、あの子……」

 小さな声が、教室の端で重なっていく。

 どれもはるなの耳に届く距離だった。

 だが彼女は、ひとつも反応を見せなかった。


  (……聞こえてないふり、またやっちゃってる)


 言い返す気はない。ただ、どう扱えばいいのか分からないだけだ。

 ほんのわずかな表情の揺れが伝わるだけで、誰かの心を乱してしまう──

 そんな気がして、いつの間にか距離を取る癖がついていた。

 今日もまた、教室の空気から少し浮いていた。


「ねえ、名前聞いてもいい?」

 声が落ちてきたのは、背後からだった。

 はるなはゆっくりと振り返る。

 そこにいた男子生徒は、勇気をふりしぼったように笑っていた。


「あの……灯野、はるなさん?」

 呼ばれた瞬間、胸が固まった。

 はるなは一度だけ瞬きをし、そのまま小さく首を振る。


「……そんなふうに、呼ばないで」

「あっ……ごめん、えっと……」


 男子生徒は慌てて手を振った。


「変な意味じゃないんだ。ただ……名前、合ってたかなって」

「……うん。合ってる」

「そっか……なら、よかった」


 気まずそうに頬をかき、男子は席へ戻っていった。

 見送るはるなの視界が、少しだけ滲んだ。


  (また……上手く返せなかった)


 胸の奥に小さな痛みが残る。

 はるなは胸の奥に、薄い痛みのようなものを覚えた。

 ほんの少しだけ、“話してみようかな”と思っていた自分を裏切るように、言葉が勝手に防壁を作ってしまう。


  (このまま……誰とも話さないで卒業しちゃうのかな)

 その不安が胸のどこかで小さく揺れた。

 天井付近にふっと光が灯る。


「1年A組のみなさん、本日はあと5分で1時間目の開始です」

 ホログラムAIの優しい声が、教室の空気を整えるように響く。

 機械なのに、不思議と温度がある。


 はるなは一度だけ小さく息を吐き、また窓の外へ視線を戻した。

 静かな街並み。春風に揺れる校舎の影。

 その景色のどこかに、昨日すれ違った“一瞬”が残っている気がした。


  ──風の中で漂った、誰かの匂い。

  ──すれ違った背中に覚えた、説明できない引っかかり。


  (……あれ、誰だったんだろ)

 自分でも理由は分からない。でも、胸の奥に薄い余韻だけが残っていた。


 昼休み。教室がざわつき始める。


「はるなさん、一緒に食べない?」

 声をかけてくれた女子もいた。はるなは小さく首を振った。


「……ありがと。でも……今日はひとりでいい」

 無理に断ったわけではない。ただ、人の輪の中に入る勇気がなかった。


  (優しい子だったな……)

 でも、それ以上踏み込めない。

 はるなは静かに立ち上がり、教科書を机にそっと閉じる。


 (少し……静かな場所、行こう)

 廊下の喧騒から離れ、階段を上がる足取りはほとんど音を立てなかった。

 屋上に続く扉の前で、一度立ち止まる。

 この場所はまだ誰にも知られていない“逃げ道”だった。

 金属の冷たい取手に触れ、そっと扉を押し開ける。

 春風が頬を撫でた。


「……静か」

 はるなは、強化ガラスの柵のそばまで歩く。

 遠くの街の音が、薄い膜の向こうからかすかに聞こえる。

 ここだけ、世界が少し広くなる気がした。


  (……なんでだろう。ここ、落ち着く)

 ほんの少しだけ口角が緩む。

 風が髪を揺らし、はるなの影が床に伸びる。

 それは、彼女が“たったひとりで呼吸できる場所”だった。


 午後の授業は、どこか上の空だった。

 教室に戻っても、心はまだ屋上に残っていた。


 放課後。

 人の流れと逆方向へ歩きながら、はるなは再び階段を上っていた。


  (昼より、少し肌寒い……でも、嫌じゃない)

 扉を開けると、夕焼けが校舎の端に長い影を作っていた。

 春の風がゆっくりと吹き抜ける。


 そのとき──足音が近づく気配がした。


  (……誰か来る……?)


 振り返るより先に、扉が静かに開いた。

 夕日を背にして立っていたのは──

 昼間、すれ違った“あの背中”の持ち主だった。


  (……あ……)

 想太の胸の奥で、静かに何かが震えた。

 昨日から続く“名前の残響”。

 理由もなく、ただその存在に心が揺れる。


 想太は喉を鳴らし、ほんの少し息を吸ってから、言葉を落とした。


 「……ひの、はるなさん……で、合ってる……かな……」

 はるなの瞳がわずかに揺れた。


「……なんで、知ってるの?」

 声は弱く、しかし警戒を帯びている。

 けれど、その奥にほんの小さな“引っかかり”があった。


「ご、ごめん……変な意味じゃなくて。ただ……昨日から、名前が……残ってる、っていうか……たぶん……気のせい、なんだけど」


  (名前……? 残ってる……?)

 はるなの胸の奥で、眠りの底に落ちた“灯り”がふっと揺れた気がした。

 昨日の夜の、あの声の残響──

 夢と現実の境界で聞こえた“ひかり”。

 言葉にできない沈黙が、ふたりの間を満たす。

 風がひとすじ通り抜け、髪を揺らした。

 その沈黙を破ったのは、静かに流れるホログラムAIの声だった。


「そろそろ下校時間です。屋上にいる生徒の皆さん、安全に気をつけてお帰りくださいね」

 はるなは、ゆっくりと顔をそらした。

 夕日の方へ視線を戻し、胸の奥に残った微かなざわめきを押し隠すように。


「……じゃあ」

 短い言葉だけを残し、扉へ歩き出す。

 その背中は迷いがないようでいて、どこか頼りなく揺れていた。


(……変な人……でも……)

 はるなは、ゆっくりと彼を見た。

  ──ほんの少しだけ、安心した。


 想太はその背中をただ静かに見送った。

 胸の奥に残る揺らぎは、説明のつかないままだった。

 はるなが階段を降りていく階下の気配が消えたあと、夕日の色がゆっくりと薄れていくのを見つめながら、想太は微かに息を飲んだ。


  (……また、会えるのかな)

 答えのない問いだけが、風の中に残った。

 その夜、二人を包んだ風は、どこか同じ温度を帯びていた──。

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