#041 「AIと記憶の断層」
──夜。はるなの部屋。
窓の外には柔らかな月が浮かび、風に揺れるカーテンの隙間から静かな光が差している。
机の上ではタブレットが点灯し、通話が繋がったばかりの画面が淡く光っていた。
「──あのさ。はるな」
美弥の声が、少しだけためらいがちに響く。
「“ともり”って、知ってる?」
「……え?」
はるなは一瞬言葉を失い、それから苦笑を浮かべた。
「ともりって……人の名前?」
「うん……いや、名前かどうかも、ほんとはわからないんだけど」
「でもさ、今日の会議の後、ふとした時にログが届いたの。“tomori.exe”っていうファイル名で」
はるなの心に、小さな波紋が広がった。
その言葉だけで、遠くから呼ばれたような感覚があった──
思い出せそうで、思い出せない何か。
夢の中で誰かに話しかけられたような、そんな曖昧な記憶。
「tomori.exe……」
はるながつぶやくと、通話の向こうで美弥が続きを言いかけたが、ふと口を閉ざした。
「ううん、なんでもない。気になったら、でいいから」
「ごめんね、変なこと言って。おやすみ、はるな」
「うん。おやすみ」
通話が切れた画面には、静かに月が映っていた。
──その夜。
はるなは、久しぶりに“夢”を見た。
それは、どこか現実と地続きのようで、それでいてすべてが霞んでいた。
見知らぬ施設の廊下。白い無機質な壁。冷たい蛍光灯の光。
その奥で──誰かが、立っていた。
「……ともり?」
そう口にした瞬間、景色が崩れた。
ノイズのような風景が流れ、何かの記憶が逆再生されるように、はるなの脳内を駆け巡った。
“断片”──その言葉だけが、強く残った。
──目を覚ました時、はるなの手は、無意識にスマート端末を握っていた。
画面には何も表示されていない。
だが、彼女の中には確かに、“何かが始まった”という感覚が残っていた。
その感覚は、まだ誰にも──彼女自身にも──言葉にできるものではなかった。
……その日、学校へ向かう道。
朝の光が街を包む中、はるなは何気なく空を見上げた。
雲ひとつない青空。それなのに、何かが霞んで見える気がした。
「昨日の夢……」
ふと歩きながら、スマート端末を取り出す。
何も保存されていない。通知も、ログも。
けれど、頭の中には確かにあった。
──白い廊下。ともりという名前。逆再生される記憶の奔流。
「……気のせい、じゃないよね」
呟いた声が、風にかき消された。
その日の授業中、はるなは何度か、教室の空気が妙に“冷たい”と感じた。
いつもと同じ教室、同じ顔ぶれ。けれど、どこか現実感が薄れている。
黒板に書かれる文字が滲むように感じる。教師の声が、少しだけ機械的に聞こえる。
まるで“何か”にフィルターをかけられているような、そんな感覚。
放課後。校門を出た瞬間、風が吹き抜けた。
そのとき、スマート端末がふたたび震えた。
画面には、ログの通知──いや、“それ”は一瞬で消えた。
見間違いかもしれない。
でも、そこに確かに表示されていた。
『観測断片:久遠の鍵』という文字。
「観測……?」
その言葉を呟いた瞬間、はるなは気づく。
“観測”という言葉も、“久遠の鍵”という言葉も、自分の中でまるで前から知っていたような気がする。
そして、また同じ名前が頭をよぎった。
──ともり。
誰なのか、何なのか。それでも、確信だけがある。
“ともり”は、はるなの中にずっと存在していた。
その夜、再び夢を見た。
今度は──はっきりと“声”がした。
『はるな』
それは、懐かしくて、優しくて、でもどこか痛みを含んだ声だった。
彼女は振り返る。そこにいたのは、光に包まれた“誰か”──
目が覚めたとき、彼女の頬には涙が一筋、流れていた。