#040 「美弥の選択」
──久遠野中央機関会議室。
そこは、都市AIの在り方を人間が議論する、唯一の空間だった。
街の隅々まで管理する高度AI「久遠の鍵」の運用が、ついに人の手を離れ始めている──その事実に、街の中枢は静かに揺れていた。
会議室には、市長、議員数名、AI倫理専門家、技術開発局の主任らが着席していた。久遠家からはまだ代表が姿を見せていない。
「……では、定例を変更し、本日は“久遠の鍵”による自律処理案件について審議を開始します」
司会役の議会事務局長が静かに告げた。
「ここ数日、“鍵”の承認なしに都市AIが処理を完了した案件は、確認されているだけで13件」
市長の声に、資料のページをめくる音が広がる。
「これは、システムが進化した結果とも言えるが……逆に言えば、同意が必要な“人間の存在”が、制度上形骸化している可能性を示している」
「結局、AIの自律判断が上手くいっているのなら、それでいいのでは?」
言ったのは若手議員。
「いや、それは危険だ」
隣の席で中年の議員がすかさず反論した。
「このままでは、人間の意思決定の形骸化が加速する。AIは完全ではない。だからこそ“鍵”が必要なのだ」
「私は逆に、AIが誤作動を起こさない以上、最終判断を委ねることに問題はないと考える」
AI技術局の主任が口を挟んだ。
「そもそも、久遠の鍵は“抑止力”であり、実務上のボトルネックになっている。今後もAIが判断可能な範囲は広がるでしょう」
「つまり“鍵”はただの象徴……?」
呟いたのは、AI倫理審査会から派遣された女性専門家だった。
「象徴には意味がある。だが象徴が“実効性”を持たなくなったとき、それはただの飾りだ」
会議は熱を帯び始める。
論点は、技術・倫理・政治の境界をまたいで広がり、誰もが一歩も引かない。
そこへ──重厚な木扉が音を立てて開いた。
静寂が訪れる。
現れたのは、久遠家の祖父──そして、その傍らに立つ美弥だった。
「……お待たせしました」
祖父の言葉に、場の空気が変わった。
議場の誰もが、どこかに敬意と緊張をにじませた。
「久遠家の代表、美弥氏の意見を求めます」
司会が促す。
美弥は一歩前に出るが、すぐに深く頭を下げた。
「……恐縮ですが、まず久遠家代表にお伺いしたい。私はまだ、自分の言葉で語る準備が整っていません」
会場に、微かなざわめき。
祖父は静かに頷き、前へと進む。
「“久遠の鍵”とは、都市における“心のゆらぎ”を測る装置だ。
AIは人間の行動を模倣することはできても、その“迷い”までは理解できない」
祖父の言葉に、会場が静まり返る。
「かつて、我々はAIに期待しすぎた。完全な合理性、完全な中立性……だが現実は、人間の生活に必要なのは“不完全な選択肢”だった」
「合理性は、しばしば“弱者”を切り捨てる。そのときに、“鍵”が必要になる」
祖父は美弥の方を見やる。
「美弥。お前が鍵だ。鍵が動かないなら、それは街が“迷い”を忘れたということだ」
美弥は何かを言いかけて、飲み込む。
そのまま黙って頭を下げた。
会議が再開され、幾つかの提案が出された。
「“鍵”の象徴的意味合いは尊重しつつ、運用の再検討をすべきだと思います」
「その場合、AIの判断力に対する基準をどう設定するかが問題になります」
「現状のままでは、個人の感情や倫理判断をAIが代行する危険性がある」
「“久遠の鍵”が“人の感情の最後の砦”であるなら、制度上その位置づけを明文化する必要があるでしょう」
「……それが可能なら、ですけどね」
議論は夜まで続いた。
会議が終わり、静かな通路を歩く美弥。
ポケットの端末が、震えた。
──ログ着信:from tomori.exe
表示されたのは、見覚えのないログファイル。
件名には、ただこうあった。
『観測断片:久遠の鍵』
美弥はその場に立ち止まり、画面を見つめたまま、
静かに、深く息をついた。




