#036 「ゆらぐ世界の序章」
久遠野の空は、その日、いつもより少しだけ低く感じられた。
雲が垂れ込めているわけではない。
天気は、むしろ穏やかだった。
それなのに。
街全体が、わずかに呼吸を合わせそこねているような――
そんな感覚が、確かにあった。
駅前の交差点。
信号が変わる一瞬、色の切り替わりが、ほんの僅か遅れた。
誰も気に留めない程度のズレ。
時計を見なければ、意識にすら上らない差異。
けれど。
はるなは、足を止めた。
(……いまの)
理由は分からない。
ただ、「いつも通りじゃなかった」それだけは、はっきりしていた。
「……変じゃない?」
低く、抑えた声。
振り向くと、美弥がこちらを見ていた。
視線は、空でも街路でもなく、“今この瞬間”そのものを確かめるようだった。
「……うん」
はるなは短く答えた。
それ以上、言葉は続かなかった。
続けようとすれば、何かが壊れてしまう気がした。
四人は、そのまま歩き出す。
想太は、歩きながら無意識に信号機を振り返った。
説明のつかない誤差が、頭の中で引っかかって離れない。
隼人は、周囲を一度見回したあと、何も言わず、ポケットに手を入れた。
「……おかしいな」
独り言のような呟き。
「でも……まあ、いいか」
そう言って、画面を伏せる。
誰も、「何がどうおかしいのか」を口にしない。
それでも、四人全員が、同じ“違和感の縁”に立っていることだけは、確かだった。
街路樹の葉が、風もないのに揺れた。
一枚だけ、遅れて落ちる。
遠くで、工事現場の金属音が響いたが、余韻が、いつもより長く残った。
(……気のせい、だよね)
はるなは、心の中でそう繰り返す。
最近、考えすぎている自覚はあった。
夢のような場所。
声。
説明されないまま残った感覚。
全部、現実とは切り離すべきものだ。
そう思っている。……思っている、はずなのに。
(でも)
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
誰かが、「今は、ここまで」と区切りを入れたような感覚。
美弥は、歩きながら、無意識に背筋を伸ばしていた。
久遠家の敷地を離れても、その癖は抜けない。
(……揺れている)
街が、ではない。
自分たちの“立っている場所”が。
隼人は、ふと足を止めかけ、何か言いかけて――
結局、何も言わずに歩調を合わせた。
言葉にするには、まだ輪郭が足りない。
空は、相変わらず穏やかだ。
街は、いつも通りに機能している。
それでも。
この日を境に、何かが静かに、“次の段階”へ移ろい始めている。
そのことだけが、言葉にならないまま、四人のあいだに共有されていた。




