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灯野はるなは、世界の鍵をポケットに入れていた。(シリーズ1)  作者: 皆月 優
003_第三章「裂けゆく選択《セレクション》」
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#035 「ふたたび4人で」

 その朝、想太は少しだけ早起きした。

 といっても特別な理由があったわけじゃない。

 目覚ましが鳴る前に目が覚めて、そのまま起き上がっただけ。

 けれど、胸の奥にはしばらく前に聞いた“あの言葉”が、まだ抜けきらないままだった。


  (……“観測の対象”って……なんだよ、それ)


 ぼんやりとした違和感のまま、制服に腕を通し、

 カーテンを開けると、久遠野市の朝は、いつも通りに静かで整っていた。

 空は薄く青く、風はちょうど良く。

 天気も温度も最適化されている──けれど、それがどこか“整いすぎている”ように見えた。


  (この街って、なんなんだろうな)


 少し前の出来事が脳裏をかすめる。

 弟だという少年が突然現れ、“兄には言わないで”と念を押しながら語った謎の一節。


  (……何か、思っているより、ずっと大きなものの中にいる気がしてならない)


 深呼吸をして、アシストスティックを手に取る。

 そして玄関を出た瞬間、足元に現れるホログラムのガイドライン。

 淡い光が、今日も無言で“安全な登校ルート”を提示してくる。


「おはようございます、成瀬想太さん。本日も、安全な登校をサポートします」

 聞き慣れたはずの機械音声。

 けれど今朝のそれは、少しだけ“重く”聞こえた。


  (……これも、誰かに“観測されている”のか?)


 そう考えた自分に、内心苦笑する。


  (考えすぎだって。……でも)


 足を前に出す。

 整った交差点、ホログラムの横断歩道、機械に従う人の群れ。


  (でも──もしかしてって、思っちゃうくらいには、僕も変わったのかもな)


 心のどこかで誰かの声を探すように、

 想太は、朝の光の中を歩き始めた。

 登校時間帯の灯ヶ峰学園は、整った秩序の中に、かすかなざわめきを抱えている。

 街と同じように、校舎もまた“最適化”された構造を持ち、無駄な導線はなく、情報パネルが次々と切り替わる。

 校門を通過する生徒たちに、AIの認証ホログラムが淡く反応する。

 声は発しない。代わりに、個々のアシストスティックに“歓迎”のメッセージが浮かび上がるだけ。


「おはよう、想太」

 いつものように、少しだけ気だるげな声が背後から聞こえた。


 振り向くと、隼人が片手を軽く上げて近づいてきた。

 制服のネクタイは微妙にゆがみ、髪も完璧には整っていない。

 けれど、その姿には不思議と“整っている”印象がある。


「早いな、今日」

「お前こそな」

「まあ、なんとなくな。空も晴れてるし」

「どうせ天気もAIの都合だろ」

 軽いやりとり。

 気を抜くと笑ってしまいそうになるほど、くだらなくて、それが心地いい。

 2人で昇降口に入ると、1-Cの教室フロアはすでに人の流れで賑わっていた。


「おはようございます、隼人くん」

「……あ、美弥さんも来てた」


 声をかけてきたのは、廊下に立つ数人の女子生徒たち。

 その視線の先に美弥の姿があった。

 今日は真っ白なリボンが制服に映えていて、表情はやや硬いものの、その立ち姿にはいつもの気品が漂っている。


「おはよう」

美弥は隼人にも、そして一瞬だけ想太にも目を向けて、静かに挨拶を返す。


「早いな、久遠。何かあった?」

「べつに。ただ、準備しておきたかっただけ」

 いつもと変わらぬ声音。

 でも、ほんの少しだけ──視線が教室の奥を気にしているようにも見えた。


  (……あの人のこと、かな)

 そう思ったのは想太だけだったかもしれない。


  (それにしても……“美弥ちゃん”じゃなくて“久遠”って呼んだの、珍しいな)


 ほんの一瞬の違和感。けれど、それがなぜか心に引っかかる。

 ふと、誰かの足音が廊下に響く。

 振り返ると、そこにいたのは、制服の袖を指で整えながら、静かに歩いてくる少女。

 顔を伏せがちにしながらも、周囲の空気をわずかに変えてしまうその存在。

 彼女が、教室の前に立つ。まるで、何かを確かめるように。


 教室の中は、朝のざわめきに満ちていた。

 誰かが笑い、誰かが机に突っ伏して眠り、

 窓際の席では女子たちがホログラム通話でランチの注文をしている。

 想太は自分の席にカバンを置くと、そっと周囲を見渡した。

 まだ席には空きが多く、周囲の音も、どこか“余白”を残していた。

 そこにふと、声が響いた。


「おはよう」

 振り返ると、制服の裾を軽く整えながら、美弥が彼の横に立っていた。


「お、おはようございます……」

 わずかに緊張してしまうのは、美弥の物腰のせいか、それとも昨日の記憶のせいか。


「想太くん、昨日……ありがとう。気づいてくれて」

「えっ、あ、うん。いや、たいしたことじゃ──」

 そこへ、さらにひとり。


「おーい、お前ら、また固まってんな〜」

 隼人が、教室の後方から歩いてきた。手をポケットに入れたまま、やや投げやりな調子。


「このままだと“1-Cの浮いた4人”って呼ばれるぞ」

「もう呼ばれてると思いますけど」

 美弥がさらりと返す。


「だよなー」

 隼人は笑いながら、空いていた机のひとつをぐいっと引いて、勝手に腰を下ろす.

 そのときだった。


「……ここ、座ってもいい?」

 誰もが振り向く前に、想太だけは、その声に気づいていた。

 灯野はるな。

 教室の入り口に立ち、少しだけ伏し目がちに、けれどまっすぐに声をかけてきた。


「もちろん、どうぞ」

 美弥がすっと立ち上がり、自分の隣の席を指し示す。


  (……気づけば、またこの4人が集まってる)


 想太は、そんなことを考えていた。

 “昨日の続き”のようでもあり、“何か新しい始まり”のようでもある。

 そして──また、ほんの少しだけ、空気が変わった。


 昼休み。


 1-Cの教室内は、いつも通りのにぎやかさに包まれていた。

 ホログラムメニューを操作し、AIカフェから注文したランチが自席まで運ばれてくる音、椅子を引く音、誰かの笑い声、すべてが日常の風景として流れている。

 けれど、その片隅にある“4人のテーブル”だけは、少しだけ異質な静けさを湛えていた。

 想太は、保温された弁当箱のふたを開け、ため息のような呼気を一度漏らしてから箸を取る。


「手作り?」

「うん……まあ、一応」

「へえ、几帳面そうに見えないけど」

「褒めてるの、それ?」

 そんな小さなやりとりが、テーブルの中央で揺れる。

 隼人はカフェから届いたバケットサンドを片手に、斜に構えたようにイスへもたれていた。


「お前ら、なんでそんな静かなんだよ」

「べつに、普通だけど?」

「なんとなく……昨日の余韻、みたいな?」

 美弥がそう言って笑ったとき、はるなが少しだけ目を伏せた。


  (……夢の中で“ともり”に会った気がする)


 はるなは言葉には出さなかった。

 でも、その記憶は確かに今も心の奥で静かに光っている。


  ──あなたの“想い”が、この境界を揺らしたのです。


 ふと、そんな声が記憶の奥から蘇る気がした。


「……食べ終わったら、どこか行く?」

「午後は自由時間、だったっけ」

「うん。街にでも、ちょっと出てみたいな」

「久遠家のお嬢様が街歩きってのも、なかなかのギャップだな」

「隼人くん、皮肉のつもりならセンスが足りないわ」

 言葉のラリーは、少しずつ軽くなる。

 でも──そこに漂う“空気の違和感”は、まだ微かに残っていた。


  (こうして笑いながらも……なんだろう、この“少しの距離感”)


 想太はそう思いながら、箸を止めた。

 けれど、その“違和感”すらも、今はなぜか大事に思えてしまう。


 午後三時半。放課後。


 昇降口の前で、4人は自然に揃っていた。

 待ち合わせをしたわけでも、何か特別な約束があったわけでもない。

 ただ、誰かが立ち止まり、もう一人が歩み寄り、いつのまにか“輪”になっていた。


「さて、どこ行こうか」

 隼人が軽く両手を上げるようにして言う。


「せっかくだから、市街地のほうへ行ってみたいわ」

 美弥が静かに提案した。

 声は穏やかで、けれど以前よりも少し柔らかい。


「いいよね、たまには歩いてみたいかも」

 はるなが小さく頷いた。


「じゃ、行きますか。街の中心へ──“共鳴の交差点”だっけ」

 想太が口にすると、美弥が少しだけ笑った。


「その呼び名、観光客向けのコピーじゃなかったかしら」

「観光客……つまり、俺らのことだな」

 隼人が言って、笑いながらポケットに手を突っ込む。


 4人は歩き出す。

 学園の坂を下り、整備された街路へと出る。

 舗装された歩道の両側には、グリーンベルトと並ぶ情報投影ホログラム。

  一見自然に見える木々の間に、淡い光のアニメーションが重ねられている。


「この前の夜、少しだけ夢を見たんだ」

 誰ともなく、はるながつぶやく。

 声は小さくて、聞こえたのかどうかすらわからなかった。


「どんな夢?」

 隼人が聞く。


「……よく覚えてない。でも、誰かの声がして……たぶん、知ってる誰かだった」

「それ、いい夢だった?」

 今度は想太が聞いた。


「……うん、たぶん。こわくはなかった。むしろ、懐かしかった」

 その言葉に、誰もすぐに返事をしなかった。

 けれどその“間”が、なぜか心地よかった。

 街の喧騒は遠く、空にはうっすらと雲がかかっていた。

 陽射しは少しだけ柔らかく、どこかでホログラム広告が優しい音楽を流している。


 その瞬間。


 遠く、街の空間情報板のひとつが、一瞬だけ“明滅”した。

 誰も気づかないほどの、ほんのわずかな“ノイズ”。

 それは風にまぎれ、すぐに消えていった。

 けれど、それでも。


  (……なにかが、少しずつ、ズレ始めてる)


 想太は、そう思った。

 そう確信したわけじゃない。

 でも、昨日とは違う街の“気配”が、彼の胸の奥で、静かに脈打っていた。

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