#034 「いちかの涙」
静かに、ドアが閉まる音がした。
久遠家の、いつもの音。
けれどその夜、いちかにはそれが、自分の背中で閉じられた扉の音に聞こえた。
(……また、呼ばれなかった)
ソファは大きすぎて、部屋は静かすぎる。
久遠家では、静けさは「余白」ではない。
選ばれなかった者に与えられる時間だ。
足音が近づく。
いちかは、顔を上げなかった。
「……待たせたわね」
美弥の声。
「──別に」
短く返す。
けれど、声が少しだけ震えた。
「会議が延びて……」
「うん。知ってる」
「……?」
「いつも、そうだから」
美弥は何も言わず、少しだけ距離を取って立った。
沈黙。
時計の秒針だけが、正確に進む。
「……ねえ、お姉様」
いちかは、ようやく顔を上げる。
「“灯野はるな”って人……そんなに、特別?」
美弥のまばたきが、一拍だけ遅れた。
「……どうして、そう思うの?」
「だって」
いちかは、唇を噛む。
「お姉様が、あの人の名前を出すときだけ、声の温度が変わるから」
「……」
「怒ってるわけじゃないよ。責めたいわけでもない」
でも、と。
「……怖いの」
美弥が、息を詰める。
「お姉様が、わたしの知らないところへ行っちゃいそうで」
「いちか……」
「久遠家のことじゃない」
すぐに否定する。
「“鍵”とか、“責任”とか、そういうのは、もう慣れた」
慣れた、という言葉が、かえって痛かった。
「でも……」
いちかは、ぎゅっと拳を握る。
「お姉様が誰かを“欲しい”って思ってる顔、初めて見た」
「……!」
「それが、わたしじゃないって分かったとき」
声が、少しだけ掠れる。
「……胸の奥が、変な音した」
美弥は、何も言えなかった。
「ねえ」
いちかは、視線を落としたまま続ける。
「わたし、あの人のこと……嫌いじゃない」
「……」
「むしろ、すごいって思う」
小さく、笑う。
「優しいし、強いし、……ちゃんと、自分で立ってる」
それは、憧れの言葉だった。
「だから、余計に……」
いちかの声が、揺れる。
「お姉様が、あの人の方を見るたびに」
「わたし、ここにいなくなるみたいで」
沈黙が落ちる。
美弥は、ゆっくりと口を開いた。
「……いちか」
「わたし、久遠家では“妹”でしかない」
いちかの言葉が、重なる。
「意見も、役割も、“まだ早い”って言われて」
「……」
「でもね」
顔を上げる。
涙は、まだ落ちていない。
「お姉様の隣にいるときだけは、“妹”じゃなくなれる気がしてた」
それが、いちばん怖い言葉だった。
「……だから」
いちかは、息を吸う。
「奪われたくない、なんて思う自分が、すごく嫌」
「……いちか」
「でも、思っちゃうんだよ」
ようやく、涙が一粒、落ちた。
「お姉様を、取らないで、って」
美弥は、ゆっくりと一歩近づいた。
「……わたしは」
声が、少しだけ震える。
「誰かを選んだつもりは、ない」
「……でも」
「ただ……」
言葉を探す。
「自分が、自分でいられる場所が、あの人のそばにあった」
それは、否定でも言い訳でもなかった。
「……ずるい」
いちかが、呟く。
「それ、わたしも欲しかった」
美弥は、何も言えなかった。
代わりに、そっと、手を伸ばす。
今度は、いちかは避けなかった。
一瞬だけ、額が、美弥の肩に触れる。
「……今日は、これ以上は無理」
小さな声。
「でも……話せてよかった」
離れる。
「……また、ちゃんと話そう」
背を向けて、歩き出す。
ドアの前で、一度だけ立ち止まり、振り返らずに言う。
「……あの人のこと」
少し、間。
「好きだって気持ちと、怖いって気持ち」
「……両方、ほんとなんだと思う」
そして、ドアが閉まる。
静けさが、戻る。
美弥は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。




