#034 「いちかの涙」
──静かに、ドアが閉まる音がした。
それは何度も聞き慣れた、久遠家の扉の音。
けれどその音が、いちかにはまるで「拒絶」に聞こえた。
(……また、わたしじゃないんだ)
そう思った瞬間、自分の胸の奥がきゅっと締めつけられるような気がした。
大きすぎるソファ。
長すぎる廊下。
家族の足音は遠くて、いつも、いちかには届かない。
──あのときも、そうだった。
ほんの数ヶ月前。
久遠家の会合の場で、いちかは何も発言できなかった。
言葉を選びすぎて、タイミングを逃して、
ようやく声を出そうとしたときには、議題はもう次に進んでいた。
「ご休憩をどうぞ、お嬢様」と言われて退出させられた部屋の扉越しに、彼女は聞いた。
姉の、凛とした声。
父の、穏やかな応答。
執事の控えめな進言。
──どこにも、“いちか”はいなかった。
部屋の静けさが、いちかの内側にまで染み込んでくる。
けれどそのとき──
カチャリ。
扉の音。
戻ってきたのは、姉──美弥だった。
「……戻ったわよ。待たせたわね」
「──別に」
「さっきの会議、少しだけ延びて──」
「……ねえ、お姉様」
「なに?」
「“灯野はるな”って……そんなに特別な人?」
美弥は、少しだけ間を置いた。
返事に困ったのではない。ただ、いちかの声に、何かを感じ取ったのかもしれない。
「……そうね。特別、かもしれないわ」
いちかは俯いたまま、唇を噛んだ。
しばらくの沈黙。時計の音だけが部屋に響く。
「……わたしじゃ、ダメなんだ」
その声は、かすれていた。
でも、確かに届いた。
「……え?」
「わたし、ちゃんと見てるよ?お姉様が、あの人の話をするときの顔。
あの人と一緒にいた日の帰りに、少しだけ機嫌が良くなること。……全部、気づいてるの」
「いちか、それは──」
「ねえ、お姉様。わたし、何のためにいるの?“久遠家の妹”って肩書きだけで、
何もできなくて、何も任せてもらえなくて……役にも立てない、子どもで──」
美弥が口を開こうとするが、それより先に、
いちかの声がもう一段、震えた感情を帯びて続く。
「わたしね……本当は、ただ“好き”でいたいだけなの。
でも、違うの。わたし、“好きになってほしい”って、……ずっと、ずっと、思ってたの。
お姉様にも、家族にも。そして──お姉様が“欲しがるあの人”にすら」
目の前の美弥が、何も言えずに立ち尽くしているのを見て、
いちかはようやく、溜めていた涙をひとつだけこぼす。
「わたしじゃ、ダメなんだよね……はるなさんみたいに強くもなくて、綺麗でもなくて……
でも、どうしても……あの人のこと、憧れてしまうの」
いちかが涙をこぼし、それでも立っている。
その姿に、美弥は初めて、目を逸らせずに向き合った。
少しだけ、息を吐いて──
ほんの一瞬、ためらい、けれど、それでも言葉を紡ぐ。
「……わたしだって、ずっとわからなかったのよ」
「……なにが?」
「誰かを“大切にしたい”って気持ちが、どうしてこんなに痛いのか。
自分の気持ちに、理由なんてつけられないのよ。ただ……」
美弥は少しだけ俯き、言葉を絞り出す。
「……ただ、あの人を見ていると、自分の中の“わたし”が、少しずつ剥がれていくような感覚になるの」
いちかは黙って聞いている。
その横顔に、いつかの自分を重ねるように、美弥はつぶやいた。
「わたしも、誰かに“好きになってほしい”って思ってた。でもそれは、すごく、子どもっぽくて……
だから、“誰にも見せないようにしよう”って思ってたのに」
「……わたしも、そう思ってた。“子どもっぽい”って、ずっと、我慢してた」
沈黙。
お互いの言葉が、空気の中でゆっくり溶けていく。
やがて、美弥がほんの少しだけ歩み寄り、そっと、いちかの頭に手を置こうとするが──
いちかは、その手をふっとかわして、背を向けた。
「……今日は、もう、いいの」
そのまま足音もなく部屋を出ていこうとするいちかの背に、
美弥が静かに、けれどはっきりとした声で言う。
「……ありがとう。話してくれて」
振り返らないまま、いちかは一言だけ返す。
「……ずるいよ、お姉様」
そして、ドアが静かに閉まる。