表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灯野はるなは、世界の鍵をポケットに入れていた。(シリーズ1)  作者: 皆月 優
003_第三章「裂けゆく選択《セレクション》」
35/76

#034 「いちかの涙」

 静かに、ドアが閉まる音がした。

 久遠家の、いつもの音。

 けれどその夜、いちかにはそれが、自分の背中で閉じられた扉の音に聞こえた。


  (……また、呼ばれなかった)


 ソファは大きすぎて、部屋は静かすぎる。

 久遠家では、静けさは「余白」ではない。

 選ばれなかった者に与えられる時間だ。

 足音が近づく。

 いちかは、顔を上げなかった。


「……待たせたわね」

 美弥の声。


「──別に」

 短く返す。

 けれど、声が少しだけ震えた。


「会議が延びて……」

「うん。知ってる」

「……?」

「いつも、そうだから」


 美弥は何も言わず、少しだけ距離を取って立った。

 沈黙。

 時計の秒針だけが、正確に進む。


「……ねえ、お姉様」

 いちかは、ようやく顔を上げる。


「“灯野はるな”って人……そんなに、特別?」


 美弥のまばたきが、一拍だけ遅れた。

「……どうして、そう思うの?」

「だって」


 いちかは、唇を噛む。

「お姉様が、あの人の名前を出すときだけ、声の温度が変わるから」


「……」

「怒ってるわけじゃないよ。責めたいわけでもない」


 でも、と。

「……怖いの」

 美弥が、息を詰める。

「お姉様が、わたしの知らないところへ行っちゃいそうで」

「いちか……」

「久遠家のことじゃない」


 すぐに否定する。


「“鍵”とか、“責任”とか、そういうのは、もう慣れた」

 慣れた、という言葉が、かえって痛かった。


「でも……」


 いちかは、ぎゅっと拳を握る。

「お姉様が誰かを“欲しい”って思ってる顔、初めて見た」

「……!」

「それが、わたしじゃないって分かったとき」


 声が、少しだけ掠れる。

「……胸の奥が、変な音した」


 美弥は、何も言えなかった。

「ねえ」


 いちかは、視線を落としたまま続ける。

「わたし、あの人のこと……嫌いじゃない」

「……」

「むしろ、すごいって思う」

 小さく、笑う。


「優しいし、強いし、……ちゃんと、自分で立ってる」

 それは、憧れの言葉だった。


「だから、余計に……」

 いちかの声が、揺れる。

「お姉様が、あの人の方を見るたびに」

「わたし、ここにいなくなるみたいで」


 沈黙が落ちる。

 美弥は、ゆっくりと口を開いた。


「……いちか」

「わたし、久遠家では“妹”でしかない」


 いちかの言葉が、重なる。

「意見も、役割も、“まだ早い”って言われて」


「……」

「でもね」

 顔を上げる。

 涙は、まだ落ちていない。

「お姉様の隣にいるときだけは、“妹”じゃなくなれる気がしてた」


 それが、いちばん怖い言葉だった。

「……だから」


 いちかは、息を吸う。

「奪われたくない、なんて思う自分が、すごく嫌」

「……いちか」

「でも、思っちゃうんだよ」


 ようやく、涙が一粒、落ちた。

「お姉様を、取らないで、って」


 美弥は、ゆっくりと一歩近づいた。

「……わたしは」


 声が、少しだけ震える。

「誰かを選んだつもりは、ない」

「……でも」

「ただ……」


 言葉を探す。

「自分が、自分でいられる場所が、あの人のそばにあった」


 それは、否定でも言い訳でもなかった。

「……ずるい」


 いちかが、呟く。

「それ、わたしも欲しかった」

 美弥は、何も言えなかった。

 代わりに、そっと、手を伸ばす。

 今度は、いちかは避けなかった。

 一瞬だけ、額が、美弥の肩に触れる。


「……今日は、これ以上は無理」

 小さな声。


「でも……話せてよかった」


 離れる。

「……また、ちゃんと話そう」


 背を向けて、歩き出す。

 ドアの前で、一度だけ立ち止まり、振り返らずに言う。


「……あの人のこと」


  少し、間。


「好きだって気持ちと、怖いって気持ち」

「……両方、ほんとなんだと思う」


 そして、ドアが閉まる。

 静けさが、戻る。

 美弥は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ