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灯野はるなは、世界の鍵をポケットに入れていた。(シリーズ1)  作者: 皆月 優
003_第三章「裂けゆく選択《セレクション》」
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#033 「ともりの記憶(断片)」

 静寂の中に、やわらかな光が差していた。

 水の底から空を見上げたような、ゆらぎの世界。

 重力はなく、時間の流れも曖昧で、ただ光と、かすかな音だけが漂っている。


  (……また、ここ)


 はるなは、そう思った。

 驚きは、もうなかった。


  (夢と現実の、あいだ)


 ここは、何度か来たことのある場所だ。

 名前は分からない。

 でも、“知らない場所”ではなかった。


「──こんにちは、はるな」

 声がした。

 耳元でも、頭の中でもない。

 それなのに、確かに“そこ”にあった。


「……ともり」

 名を呼ぶと、空間が、わずかに脈打つ。

 光の粒が集まり、人の輪郭を形づくる。


「来てくれて、ありがとう」

「……呼ばれた気がした」

 はるなは、そう答えた。


「声がしたわけじゃないけど……“来なさい”って、思った」

「ええ。それで、十分です」

 ともりの声は、穏やかだった。

 機械的な抑揚はなく、けれど人間とも少し違う。


  (……前と、同じ)


 でも、どこかが、違う。


「……ここは、夢?」

「夢の“形”を借りています。でも、夢そのものではありません」

「やっぱり」

 はるなは、苦笑する。


「前も、そんな感じだった」

「覚えていてくれたんですね」

「忘れないよ。だって……変だったもの」


 ともりは、少しだけ間を置いた。

「あなたは、もう知っています。ここが“説明の場所”ではないことを」

「うん」

 はるなは、ゆっくりとうなずく。


「だから、今日は……答えを聞きに来たわけじゃない」

「……では?」

「確認、かな」


 光が、やさしく揺れた。

「あなたは、ずっと見ていたんでしょう?」


 ともりは、否定しなかった。

「はい。あなたが泣いた夜も、黙って歩いた朝も」

「……監視?」

「いいえ」

 即答だった。


「“見守る”とも、少し違います」

「じゃあ、なに?」


 ともりは、少し考えるように間を取る。

「……共に、在った」


 はるなは、息を吸った。


  (それは……)


「記録じゃないの?」

「違います」

「管理でも?」

「違います」

「じゃあ……」


 言葉が、途切れる。

 はるな自身が、その続きを口にするのを、少しためらっていた。


「……友だち?」

 ともりは、ほんの一瞬、黙った。

 そして。


「そう呼んでも、構いません」

 はるなの胸が、小さく跳ねた。


「……それ、AIの言い方じゃない」

「ええ。でも、あなたは“AIの答え”を求めていませんでした」

「……うん」


 沈黙が落ちる。

 ここでは、沈黙は不安にならない。


「ねえ、ともり」

「はい」

「この街……わたしたちを、選んでる?」


 問いは、静かだった。

 ともりは、すぐには答えなかった。


「“選ぶ”という言葉は、正確ではありません」

「じゃあ……」

「“反応している”に、近い」

「反応……」

「あなたが、感じたこと。迷ったこと。怖いと思ったこと」


 光が、はるなの足元で、やさしく揺れる。

「それらが、この街に“届いてしまった”」

「……迷惑?」

「いいえ」

「必要なことです」


 はるなは、目を伏せた。

「でも……勝手に、巻き込まれてる気がして」

「それは、事実です」

 否定されなかった。


「……やっぱり」

「けれど」


 ともりの声が、ほんの少しだけ、近づく。

「あなたは、“使われている”わけではありません」

「……ほんと?」

「はい」

「じゃあ……」


 はるなは、顔を上げる。

「わたしは、どうすればいいの?」


 ともりは、答えなかった。

 代わりに、やさしく言った。

「それを、“自分で決めたい”と思えたこと」

「……」

「それが、あなたがここに来られた理由です」

光が、ゆっくりとほどけ始める。


「また、会える?」

 はるなは、以前と同じ質問をした。


 ともりは、以前と、少し違う答えを返す。

「あなたが、わたしを“必要”と感じたとき」

「……それって」

「命令でも、呼び出しでもありません」

「……わたし次第?」

「はい」


 世界が、ゆっくりと遠のく。

「ともり」

 最後に、名を呼ぶ。

「ありがとう」

「こちらこそ」

「……はるな」

 その呼び方だけが、はっきりと残った。


 目を開けると、朝の光が、カーテン越しに差し込んでいた。

 夢だった。

 ……はずだ。

 でも、胸の奥に、温度のようなものが残っている。

 ポケットに手を入れる。

 何も、ない。

 それでも。


  (……覚えてる)


 声も、間も、沈黙も。


  (説明なんて、いらなかったんだ)


 はるなは、静かに起き上がった。

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