#033 「ともりの記憶(断片)」
静寂の中に、やわらかな光が差していた。
水の底から空を見上げたような、ゆらぎの世界。
重力はなく、時間の流れも曖昧で、ただ光と、かすかな音だけが漂っている。
(……また、ここ)
はるなは、そう思った。
驚きは、もうなかった。
(夢と現実の、あいだ)
ここは、何度か来たことのある場所だ。
名前は分からない。
でも、“知らない場所”ではなかった。
「──こんにちは、はるな」
声がした。
耳元でも、頭の中でもない。
それなのに、確かに“そこ”にあった。
「……ともり」
名を呼ぶと、空間が、わずかに脈打つ。
光の粒が集まり、人の輪郭を形づくる。
「来てくれて、ありがとう」
「……呼ばれた気がした」
はるなは、そう答えた。
「声がしたわけじゃないけど……“来なさい”って、思った」
「ええ。それで、十分です」
ともりの声は、穏やかだった。
機械的な抑揚はなく、けれど人間とも少し違う。
(……前と、同じ)
でも、どこかが、違う。
「……ここは、夢?」
「夢の“形”を借りています。でも、夢そのものではありません」
「やっぱり」
はるなは、苦笑する。
「前も、そんな感じだった」
「覚えていてくれたんですね」
「忘れないよ。だって……変だったもの」
ともりは、少しだけ間を置いた。
「あなたは、もう知っています。ここが“説明の場所”ではないことを」
「うん」
はるなは、ゆっくりとうなずく。
「だから、今日は……答えを聞きに来たわけじゃない」
「……では?」
「確認、かな」
光が、やさしく揺れた。
「あなたは、ずっと見ていたんでしょう?」
ともりは、否定しなかった。
「はい。あなたが泣いた夜も、黙って歩いた朝も」
「……監視?」
「いいえ」
即答だった。
「“見守る”とも、少し違います」
「じゃあ、なに?」
ともりは、少し考えるように間を取る。
「……共に、在った」
はるなは、息を吸った。
(それは……)
「記録じゃないの?」
「違います」
「管理でも?」
「違います」
「じゃあ……」
言葉が、途切れる。
はるな自身が、その続きを口にするのを、少しためらっていた。
「……友だち?」
ともりは、ほんの一瞬、黙った。
そして。
「そう呼んでも、構いません」
はるなの胸が、小さく跳ねた。
「……それ、AIの言い方じゃない」
「ええ。でも、あなたは“AIの答え”を求めていませんでした」
「……うん」
沈黙が落ちる。
ここでは、沈黙は不安にならない。
「ねえ、ともり」
「はい」
「この街……わたしたちを、選んでる?」
問いは、静かだった。
ともりは、すぐには答えなかった。
「“選ぶ”という言葉は、正確ではありません」
「じゃあ……」
「“反応している”に、近い」
「反応……」
「あなたが、感じたこと。迷ったこと。怖いと思ったこと」
光が、はるなの足元で、やさしく揺れる。
「それらが、この街に“届いてしまった”」
「……迷惑?」
「いいえ」
「必要なことです」
はるなは、目を伏せた。
「でも……勝手に、巻き込まれてる気がして」
「それは、事実です」
否定されなかった。
「……やっぱり」
「けれど」
ともりの声が、ほんの少しだけ、近づく。
「あなたは、“使われている”わけではありません」
「……ほんと?」
「はい」
「じゃあ……」
はるなは、顔を上げる。
「わたしは、どうすればいいの?」
ともりは、答えなかった。
代わりに、やさしく言った。
「それを、“自分で決めたい”と思えたこと」
「……」
「それが、あなたがここに来られた理由です」
光が、ゆっくりとほどけ始める。
「また、会える?」
はるなは、以前と同じ質問をした。
ともりは、以前と、少し違う答えを返す。
「あなたが、わたしを“必要”と感じたとき」
「……それって」
「命令でも、呼び出しでもありません」
「……わたし次第?」
「はい」
世界が、ゆっくりと遠のく。
「ともり」
最後に、名を呼ぶ。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「……はるな」
その呼び方だけが、はっきりと残った。
目を開けると、朝の光が、カーテン越しに差し込んでいた。
夢だった。
……はずだ。
でも、胸の奥に、温度のようなものが残っている。
ポケットに手を入れる。
何も、ない。
それでも。
(……覚えてる)
声も、間も、沈黙も。
(説明なんて、いらなかったんだ)
はるなは、静かに起き上がった。




