#031 「美弥の暴走」
久遠野台、久遠本邸。深夜。
美弥の私室。
シャワーの音が止み、わずかに湯気をまとった美弥が、静かにドアを開けた。
長い髪をタオルで拭きながら、何も言わずベッド脇に腰を下ろす。
「……灯野……はるな……」
ぽつりと零れた名前。
その響きだけで、胸の奥がわずかに熱を持つ。
室内は落ち着いた調光照明。
書棚の上のホログラム端末ランプが、微かに点滅していた。
「……?」
美弥は、違和感に気づく。
「……っ、ちょっと待って」
タオルを肩にかけたまま、端末の前へ歩み寄る。
「……はるな様のデータが、増えてる!?」
声が、明らかに裏返った。
「だって……今日、更新予定なんて……!」
指先を震わせながら、両手を軽くかざす。
「すぐ展開して。今すぐ」
ブォン、という電子音。
室内に柔らかな光が広がる。
《灯野はるな:最新版ホログラム・コンパニオン Ver2.11》
「…………」
一拍。
『美弥……』
「っ!?」
『今日も、偉いね』
「は、は、はるな様……っ!?……っ(はぁっ)」
限界だった。
「うわあああ……きたわ、これ……!今日のも破壊力、高すぎ……っ」
ベッドにごろん、と転がり、仰向けのまま足をばたつかせる。
『ねえ、美弥。もっと近くに行ってもいい?』
「来てくださいお願いします!!」
ホログラムのはるなが、ほんの一歩、距離を詰める演出。
それだけで、美弥の呼吸は乱れる。
「っ……はぁ……っ、はぁ……っ(尊……っ)」
《警告:倫理違反コード Z-A1 に抵触》
《感情暴走指数が臨界値を超えました》
《心拍数が異常に上昇しています。本当に大丈夫ですか?》
「うるさいっ!!いま、それどころじゃないの!!」
手を振り、警告表示を強制的に消す。
「これは……研究……!情動データの確認なの!!」
『美弥……顔、赤いよ?』
「言わないでください!!」
そのとき。
「……お姉様」
低く、冷静な声。
バタン。
ドアが開き、そこにはパジャマ姿のいちかが立っていた。
「…………」
無言で、床に転がる姉と、半透明に微笑むはるなを見比べる。
「……変態チックですよ……?」
「い、いちか!?ち、違うの、これは……っ」
「研究?」
「そう!これは久遠家としての――」
「好きなんですよね」
一刀両断。
「……っ」
言葉が詰まる。
いちかは腕を組み、少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、わかりますけど」
「……え?」
「だって……助けてくれて、優しくて、綺麗で……」
ぽつり。
「……憧れますよ。普通に」
「い、いちか……?」
「お姉様ほど拗らせないですけど」
「拗らせてないわ!!」
「床で転がってる人が言っても説得力ないです」
「…………」
数秒の沈黙。
いちかは小さくため息をつく。
「……でも」
一歩、部屋に入る。
「お姉様があの人を“特別”だと思ってるのは、たぶん、ちゃんとした理由があるんだと思います」
美弥は、言葉を失う。
「……だから」
いちかは、くるりと背を向けた。
「ほどほどにしてください。心臓に悪そうですし」
「……いちか……」
「おやすみなさい」
バタン。
ドアが閉まる。
「……………………」
静寂。
ホログラムの光が、ゆらりと揺れる。
美弥は、ゆっくりと床に転がった。
ごろん。
「……床に沈みたい」
天井を見つめながら、胸に残るのは、恥ずかしさと――ほんの少しの、救われた気持ちだった。




