#030 「久遠の鍵」
久遠野台、久遠本邸。
西翼の迎賓棟、その奥。
和と洋が静かに溶け合う広間には、重厚な木製の長机と高背の椅子が並んでいた。
天井は高く、壁面には久遠家の系譜と、市政に関わった記録が淡く照らされている。
空気は張りつめ、わずかな衣擦れの音すら目立つ。
美弥は背筋を伸ばしたまま、祖父の横顔を見つめていた。
「美弥」
低く、しかしよく通る声。
「お前も、もう高校生だ。久遠の名を継ぐ者として、受け継ぎ、理解し、そして秘匿すべきものがある」
一拍。
「これから話すことは、学校でも、友人にも、話してはならない」
美弥は、静かにうなずく。
「……わかりました。おじい様」
祖父は満足したように目を細め、室内に同席していた数名へ、短く視線を送った。
指先が動く。
それに呼応するように、重いカーテンが音もなく閉じられた。
照明が落とされ、空間の中央に、淡い光が浮かび上がる。
「これは……?」
問いかけは、ほとんど無意識だった。
「都市中枢AI、コア・ユニットの模式図だ」
ホログラムの中心に、赤い光点が脈打つ。
「久遠野市は、AI都市として設計された。行政、福祉、教育、環境、都市インフラ──すべてが最適化の名のもとに統括されている」
説明は淡々としている。
けれど、その言葉の端々に、“誇り”と“警戒”が同時に滲んでいた。
「その中心に触れる権限は、誰にでも与えられているわけではない」
光点が、わずかに明滅する。
「久遠家に託された“鍵”は、技術ではなく、判断に紐づくものだ」
「……判断、ですか」
「そうだ。AIが迷ったとき、最終的な保証として、人の意思を求める」
祖父は、美弥を見る。
「それが、“久遠の鍵”の役割だ」
一瞬、言葉が胸の奥で重く沈んだ。
「最近になって、この都市AIに、微細なノイズが見られる」
祖父の声が、わずかに低くなる。
「進化の過程で生じた誤差か、あるいは──それ以外の要因か」
美弥は、息を呑んだ。
説明される前から、自分の中にあった感覚と、その言葉が重なってしまったからだ。
「街のどこかで、中枢に“触れかけている存在”がいる可能性がある」
「……」
「お前が学校生活の中で、違和感を覚えることがあれば、必ず記録し、報告しなさい」
それは命令ではない。
だが、拒否できる響きでもなかった。
「友人に話す必要はない。──久遠に生まれた者の責任だ」
“責任”。
その言葉が、胸の内で、静かに反響する。
(……それでも)
美弥は、ゆっくりと頷いた。
(私は、あの人たちと過ごした時間も、確かに“本当”だと思っている)
それだけは、どんな役割にも奪わせない。
同日夜。
久遠本邸・東翼、私室。
美弥はドレッサーの前で、静かに髪を梳いていた。
窓の外には、久遠野の夜景。
都市ホログラムの光が、部屋の輪郭をやわらかく揺らす。
ブラシを置き、鏡の中の自分と視線が合う。
(……これが、私の役割)
分かっていた。
ずっと前から。
けれど──
「おじい様の言葉……」
声にした途端、喉の奥が詰まる。
嫌いなわけじゃない。
久遠の名も、その歴史も。
(でも……)
問いかけが、形にならないまま残る。
目を閉じる。
浮かぶのは、昼間、図書館前で交わした一瞬の視線。
「灯野……はるなさん」
名前を呼んだだけで、胸が小さく跳ねる。
(どうして……)
理由は分からない。
ただ、あの人を思い出すと、呼吸が浅くなる。
ベッドサイドのホロパッドに、そっと手を伸ばす。
画面に並ぶ、昼間のスナップ。
その中に、偶然写り込んだ後ろ姿。
(消せばいいのに)
指は、動かなかった。
「……違う」
小さく呟く。
「これは……違う」
そう否定するほど、輪郭は鮮やかになる。
知りたい。
話したい。
それだけのはずなのに。
美弥は胸に手を当て、しばらく動かなかった。
時計の音だけが、静かな部屋に、規則正しく刻まれていた。




