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灯野はるなは、世界の鍵をポケットに入れていた。(シリーズ1)  作者: 皆月 優
003_第三章「裂けゆく選択《セレクション》」
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#030 「久遠の鍵」

 久遠野台(くおんのだい)、久遠本邸。

 西翼の迎賓棟、その奥。


 和と洋が静かに溶け合う広間には、重厚な木製の長机と高背の椅子が並んでいた。

 天井は高く、壁面には久遠家の系譜(けいふ)と、市政に関わった記録が淡く照らされている。

 空気は張りつめ、わずかな衣擦れの音すら目立つ。

 美弥は背筋を伸ばしたまま、祖父の横顔を見つめていた。


「美弥」

 低く、しかしよく通る声。


「お前も、もう高校生だ。久遠の名を継ぐ者として、受け継ぎ、理解し、そして秘匿すべきものがある」


 一拍。


「これから話すことは、学校でも、友人にも、話してはならない」


 美弥は、静かにうなずく。

「……わかりました。おじい様」


 祖父は満足したように目を細め、室内に同席していた数名へ、短く視線を送った。

 指先が動く。

 それに呼応するように、重いカーテンが音もなく閉じられた。

 照明が落とされ、空間の中央に、淡い光が浮かび上がる。


「これは……?」

 問いかけは、ほとんど無意識だった。


「都市中枢AI、コア・ユニットの模式図だ」

 ホログラムの中心に、赤い光点が脈打つ。


「久遠野市は、AI都市として設計された。行政、福祉、教育、環境、都市インフラ──すべてが最適化の名のもとに統括されている」

 説明は淡々としている。

 けれど、その言葉の端々に、“誇り”と“警戒”が同時に滲んでいた。


「その中心に触れる権限は、誰にでも与えられているわけではない」

 光点が、わずかに明滅する。


「久遠家に託された“鍵”は、技術ではなく、判断に紐づくものだ」

「……判断、ですか」

「そうだ。AIが迷ったとき、最終的な保証として、人の意思を求める」


 祖父は、美弥を見る。

「それが、“久遠の鍵”の役割だ」


 一瞬、言葉が胸の奥で重く沈んだ。


「最近になって、この都市AIに、微細なノイズが見られる」


 祖父の声が、わずかに低くなる。

「進化の過程で生じた誤差か、あるいは──それ以外の要因か」


 美弥は、息を呑んだ。

 説明される前から、自分の中にあった感覚と、その言葉が重なってしまったからだ。


「街のどこかで、中枢に“触れかけている存在”がいる可能性がある」

「……」

「お前が学校生活の中で、違和感を覚えることがあれば、必ず記録し、報告しなさい」

 それは命令ではない。

 だが、拒否できる響きでもなかった。


「友人に話す必要はない。──久遠に生まれた者の責任だ」


  “責任”。


 その言葉が、胸の内で、静かに反響する。


  (……それでも)

 美弥は、ゆっくりと頷いた。

  (私は、あの人たちと過ごした時間も、確かに“本当”だと思っている)

 それだけは、どんな役割にも奪わせない。


 同日夜。

 久遠本邸・東翼、私室。

 美弥はドレッサーの前で、静かに髪を梳いていた。

 窓の外には、久遠野の夜景。

 都市ホログラムの光が、部屋の輪郭をやわらかく揺らす。

 ブラシを置き、鏡の中の自分と視線が合う。


  (……これが、私の役割)


 分かっていた。

 ずっと前から。


 けれど──

「おじい様の言葉……」

 声にした途端、喉の奥が詰まる。

 嫌いなわけじゃない。

 久遠の名も、その歴史も。


  (でも……)


 問いかけが、形にならないまま残る。

 目を閉じる。

 浮かぶのは、昼間、図書館前で交わした一瞬の視線。


「灯野……はるなさん」

 名前を呼んだだけで、胸が小さく跳ねる。


  (どうして……)


 理由は分からない。

 ただ、あの人を思い出すと、呼吸が浅くなる。

 ベッドサイドのホロパッドに、そっと手を伸ばす。

 画面に並ぶ、昼間のスナップ。

 その中に、偶然写り込んだ後ろ姿。


  (消せばいいのに)


 指は、動かなかった。


「……違う」

 小さく呟く。

「これは……違う」

 そう否定するほど、輪郭は鮮やかになる。

 知りたい。

 話したい。

 それだけのはずなのに。

 美弥は胸に手を当て、しばらく動かなかった。

 時計の音だけが、静かな部屋に、規則正しく刻まれていた。

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