#027 「美弥の胸中」
夕方。久遠家・美弥の私室。
「お姉様ぁぁぁっ!!」
玄関の開く音と同時に、ドタドタと走る足音。
次の瞬間、勢いよくドアが開いた。
「なっ……いちか?」
「ねえ見て見て見て!これ! これこれ! マジで神対応だったのっ!!」
息を切らしながら、いちかはスマホの画面を突きつける。
「ちょ、ちょっと落ち着きなさい」
画面に映っていたのは、街角で振り返る制服姿の少女。
ややブレた写真だった。
「……誰?」
「今日さ、ちょっとだけ街歩いててね、ホログラムの横断歩道が一瞬消えかけて!」
「……それで?」
「“うわっ”ってなった瞬間、この人がスッて来てくれて、手を取って“こっち”って……!」
いちかは、思い出すだけで身をよじる。
「やばくない!?もう女神! 女神様!!」
「……大げさね」
美弥は視線を逸らしつつ、自分のタブレットを起動した。
「もしかして……これのこと?」
画面に映し出されたのは、SNSで静かに拡散されていた一枚の写真。
誰かの手を引く、少女の後ろ姿。
「……うわああ!!それそれそれそれ!!」
いちかが、画面に顔を近づける。
「お姉様、それ保存してたの!?ズルいー!!」
「……偶然、目に入っただけよ」
「偶然で保存する!?」
「……しない?」
「しないよ普通!!」
いちかは、画面をじっと見つめたまま、小さく息を吸った。
「……やっぱり」
視線を上げずに、続ける。
「お姉様の部屋の……写真の人、だよね」
空気が、一瞬で固まった。
美弥は、タブレットをそっと伏せる。
「……」
「ねえ……」
いちかが、恐る恐る声を落とす。
「お姉様、この人の名前……知ってるの?」
「……」
一拍、間を置いてから。
「……はるな。隣のクラスの人よ」
「……はるな……」
その名前を、いちかはゆっくり口に出した。
「はるな、さん……」
胸の奥が、きゅっと鳴る。
「……いちか」
「ん?」
「目、きらきらしてる」
「え?」
「完全に、憧れの目」
「ぶっ!?」
いちかは一気に赤くなる。
「ち、ちがっ!そんなんじゃないしっ!!」
「さっきから、声も一オクターブ高いわよ」
「なってない!!……たぶん!!」
「ふふ」
美弥は、思わず小さく笑った。
その笑みは、ほんの一瞬だけだったけれど。
「もうやだー!!部屋戻る!!」
いちかは顔を覆い、勢いよくドアを開ける。
「ちょ、走らないで――」
返事はなく、足音だけが遠ざかっていった。
静まり返った部屋。
タブレットの画面だけが、淡く光っている。
「……はるな」
名前を、小さくなぞる。
ふと、棚の奥に目が留まる。
小さな写真立てが、わずかに傾いていた。
美弥は立ち上がり、そっとそれを直す。
「……触れられた、か」
誰にも聞こえない声。
(私の……はるな、なのに)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
これは嫉妬?
それとも焦り?
それとも――
もっと、別の何か。
考えようとした瞬間、美弥は首を振った。
(……だめね)
それを言葉にしたら、きっと自分は、“あの子”と同じ場所に立ってしまう。
美弥はカーテンを引く。
沈む夕日が、静かに部屋の奥へ消えていった。
一方、いちかの部屋。
「うわああああ!!もーーーうっ!!」
枕を抱えて、ベッドの上をごろごろ転がる。
「好きとかじゃないしっ!ないけどっ!でもかっこよかったしっ!!」
ごろん。
もう一回、ごろん。
「お姉様の部屋に写真あるしっ!意味わかんないしっ!!」
壁に足を突っ張って、また転がる。
「……でも……」
天井を見つめて、小さく息を吐く。
(あの人……)
助けてくれた手。
落ち着いた声。
まっすぐな目。
(……きれいだった)
恋なのか、憧れなのか。
まだ名前のない感情を、いちかは胸の中で、ぐるぐると転がし続けていた。




