#025 「微かなズレ」
正午を少し過ぎた頃。久遠野市・文化区域中央。
吹き抜けの空間に、風のような音が流れていた。
柔らかく波打つホログラムの光が、ビルの間を滑るように走る。
透明なベールのような映像が、そこにないはずの空間を“意味のある景色”へと変えていく。
はるなは、ふと立ち止まっていた。
正確には、少し遅れて皆のあとを歩いていて、気づいたときには、足が止まっていた。
視線は、空を見上げてはいない。
空の“手前”。
その奥の“どこか”を、じっと見つめている。
(……やっぱり、違う)
言葉にならない違和感。
この街は、完璧すぎる。
けれど心のどこかが、静かに騒いでいた。
想太が、少しだけ振り返る。
「どうしたの?」
はるなは、目を細めたまま答えた。
「……なんでもない。でも……この街って、やっぱり“共にある”って感じじゃないのかも」
「え?」
「小さい頃ね。空に向かって喋ってたことがあるの。誰かが、返事をくれる気がして」
想太は、思わず黙った。
彼にも、似たような記憶がある。
夢の中で、あたたかな声が、理由もなく自分を呼んでいた気がした。
「それって……ほんとうに“共にある”ってことなのかな」
はるなの声は、静かだった。
「この街、すごく一方的に感じるの。優しさも、安心も……全部“与えられてる”だけっていうか……」
風が、ほんの少しだけ吹いた気がした。
「……ああ……うん」
想太は、空を仰ぎながら頷く。
「なんか……わかる気がする」
低く、けれど曖昧さを残した声だった。
そのとき。
「お二人さん、仲いいねぇ〜?」
茶化すような声が、背後から飛んできた。
隼人だった。
いつもの調子で肩をすくめ、ふたりのあいだへ、自然に割って入る。
はるなは、ふっと視線を逸らす。想太は、何かを言いかけて、やめた。
隼人は、その空気が少しだけ重いことに気づいていた。理由は分からない。
ただ、このまま続けると、嫌な方向に行きそうな気がした。
(……この話、今じゃないな)
彼の胸には、弟・要の言葉が引っかかっている。
「兄貴、あの街……なんか、変だと思わない?」
「気づいた人、ちょっと調子狂うっていうかさ」
(変な言い方しやがって)
そう思いながらも、はるなの表情を見て、軽く笑えなくなった。
だから隼人は、軽口で流す。
その様子を、少し離れた場所から見ていた者がいた。
美弥である。
彼女は、言葉を挟まない。ただ、その場に立っていた。
涼しげな眼差しで、はるなの横顔を、静かに見つめている。
(……気づき始めた、のかしら)
そう思った瞬間、自分でも理由の分からないざわめきが、胸の奥に残った。
(偶然じゃない気は、するけれど……)
そこから先を考えるのは、なぜか怖かった。
確信にしてしまえば、何かを選ばなければならなくなる気がしたから。
視線をそらすと、建物の屋上が見えた。
その縁に、何かが“在る”ような気がする。
姿は見えない。
ただ、視線のようなものを、感じた――気がしただけだ。
はるなも、想太も、無意識のうちに、その方向を見上げていた。
まるで、何かを思い出しそうになっているかのように。
(……考えすぎ、よね)
美弥はそう結論づけ、ひとつ息を吸って、表情を整えた。
「さて……そろそろ行きましょうか」
その声に応えるように、街にホログラム音声が流れる。
「安全な移動をありがとうございます。次の案内を開始します」
いつものように丁寧で、無機質で、完璧なタイミングで現れたホログラムライン。
しかし――
「……?」
はるなが、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。
ラインの輪郭が、わずかに歪む。
光の端に、ノイズのようなひび割れが走る。
誰も、気づかない。
音声は、そのまま案内を続けた。
「安全ルートを表示しました。お足元にご注意ください」
四人の歩調は、ゆっくりと揃い、ホログラムの示す方向へ進みはじめる。
街は、変わらず美しかった。
完璧に整えられた景観。
音のない風。
輝く情報のベール。
けれど、その中に――
ほんのわずかな“ズレ”が、確かに混じっていた。
はるなは、もう一度、空……ではない、“どこか”を見上げる。
瞳の奥に浮かぶのは、疑問、懐かしさ、そして名前のない感情。
(ここは、私が“共にある”と感じた場所じゃない)
いまのこの街には、返事がない。
想太もまた、夢の中の“温かい声”と、現実の街の静けさのあいだに、言葉にできない違和感を抱えていた。
「そういえば、さっきの話……」
想太が言いかけた、そのとき。
「はい、そこまでっ!」
隼人が、少し大げさに手を挙げる。
「今日は真面目すぎ。休憩、休憩。次は俺の話な?」
笑いながらも、その視線には、わずかな迷いが混じっていた。
美弥は、それに気づいたが、何も言わなかった。
「じゃあ、次はどこに行くの?」
はるなの問いは、少しだけ柔らかい。
誰も、すぐには答えなかった。
沈黙の中で、ホログラムの光が、もう一度だけ揺れる。
ほんの一瞬。
ほんの、気のせいかもしれない程度に。
「……再送信します」
異音のような、誰のものでもない声。
街は、今日も変わらず美しい。
けれど――
何かが、確かに、ほんの少しだけ、ズレ始めていた。




