#021 「はじまりの気配」
午前七時すぎ。
隼人は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
寝癖のついた前髪を片手で押さえ、ベッドから足を下ろす。
スマートウィンドウの向こうには、雲ひとつない青空。
今日もこの街は、整いすぎたくらいの朝を迎えていた。
「……要、起きてるかな」
独り言のようにつぶやき、スマホを手に取る。
通話履歴から“要”の名前をタップした。
二度目の呼び出し音が鳴る前に、明るい声が返ってくる。
『おはよう、兄貴!』
「お前、早いな……また朝ランしてたのか?」
『うん! 六時に起きて一周走って、今ちょうどシャワー上がったとこ!』
「真面目すぎんだろ、お前は」
通話越しに、ふたりの笑い声が重なる。
隼人にとって要は、数少ない“本音で話せる”相手だった。
『でさ、兄貴。昨日の街歩き、どうだった?コアシティって、すごいって聞いたけど』
一瞬、言葉が詰まる。
整いすぎた街、人の目、言葉にならない違和感。
「……まあ、普通に楽しめたよ」
『えー、なんだよそれ。つまんない答え!』
「例の件は、今度会ったときにな」
『……お、なんか含んでる?もしかして“惚れた”とか?』
「……は?」
『冗談、冗談っ。あはは!』
くだらない。
けれど、それが心地いい。
それでも隼人の胸の奥には、まだ言葉にならない感情が、静かに燻っていた。
「とにかく、気をつけてな」
『兄貴もね。また夜、空いてたら話そ!』
通話が切れ、部屋に静けさが戻る。
制服に袖を通しながら、隼人は小さく息を吐いた。
今日もまた、“普通の朝”が始まる。
そう思いながら、寮の部屋を出ていく。
いっぽう、想太の朝。
「……うわ、まだ夢見てた……」
布団の中から、くぐもった声が漏れる。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、まぶたの裏をあたためていた。
「っていうか……昨日、何があったっけ?」
ぼんやりと天井を見上げながら、記憶を手繰り寄せる。
図書館、街、再会――そして、灯野はるな。
「“また明日”って、言われたんだよな」
枕に顔をうずめたまま、ぽつりとつぶやく。
(あれは……やっぱり、ちょっと特別だったかも)
起き上がり、トースターにパンを放り込む。
バターの香りが、静かな部屋にふわりと広がった。
「……会えるかな、今日も」
思わず漏れた独り言に、自分で照れる。
「いやいや……落ち着け成瀬。まだ月曜だぞ」
制服に腕を通しながら、わざとらしく頭を振った。
久遠家の朝。
朝食の時間は、決まって七時三十分。
ダイニングテーブルには、季節の小鉢と湯気の立つ味噌椀が、静かに並んでいる。
「……おはよう、姉さま」
制服姿のいちかが、椅子に腰を下ろした。
「おはよう、いちか。今日もきちんと髪を整えているわね」
「うん。だって、姉さまに見られてるから」
「ふふ……それは光栄ね」
箸を置いた美弥は、ふと遠くを見るように視線を滑らせる。
思い出されるのは、昨日、街で一緒に歩いた少女――
灯野はるなの、静かな横顔。
「……ふふっ」
「……お、お姉さま?」
「な、何でもないわ。早く食べなさい。お味噌汁が冷めるわよ」
湯呑みの影に隠れた口元には、抑えきれない微笑が浮かんでいた。
そして、はるなの朝。
風の音が聞こえていた。
けれど、それは本当の風ではなかった気がする。
誰かが、自分の名前を呼んでいた。
優しく、懐かしく。
(……呼ばれた、ような気がする)
ぱちり、と目を開ける。
白い天井、静かな部屋。
時計の秒針が、規則正しく響いていた。
「……また、同じ夢」
ベッドから降り、冷たい床にスリッパを履く。
夢の中の声と、昨日の想太の声が、どこかで重なっている気がした。
「変なの……」
顔を洗えば、すべてが日常に戻る。
そう思おうとする。
けれど胸の奥のどこかで、
また“誰か”を探している自分がいた。
灯ヶ峰学園への道のりは、想太にとっては十五分。
けれど今日は、その十五分が、やけに長く感じられた。
制服のポケットに手を突っ込み、いつもの通学路を歩く。
すでに通りはにぎやかで、笑い声があちこちから聞こえてくる。
(別に、何かを期待してるわけじゃ……)
そんな言い訳が、頭の中をぐるぐる回る。
それでも足は、昨日と同じ校門あたりで、自然とスピードを緩めていた。
昇降口の前に、ひときわ目立つ男子がひとり。
天城隼人。
「よ。早いじゃん、想太」
「いや、普通だろ。ってか、お前の方が早くないか?」
「まあな。ちょっと寄り道してた」
ニヤっと笑って肩をすくめた、その直後。
ふたりの視線が、同じ方向へと引き寄せられる。
昇降口から姿を現したのは、美弥とはるなだった。
制服姿のふたりが並んで歩いてくるだけで、周囲の空気が、わずかに変わる。
「おはよう、成瀬くん。天城くんも」
「……おはよう」
はるなも、小さくうなずいた。
「昨日はありがとうございました。またご一緒できますか?」
美弥の声音は自然で、けれど“久遠家の娘”としての距離感を、きちんと保っている。
「もちろん! な、想太?」
「う、うん」
その瞬間、背後から小さなどよめきが起こった。
「えっ、あの四人、一緒に来た……?」
「美弥様と灯野さんって、接点あったんだ……」
「なんか、新しいグループできてない……?」
ささやき声が飛び交う。
けれど不思議と、嫌な感じはしなかった。
「じゃ、また図書館で」
美弥が微笑み、はるなが少しだけ目を伏せる。
その仕草を見て、想太の胸の奥に、ふわりと温かいものが灯った。
(また……“昨日の続き”が始まる)
そんな予感を胸に、
四人はそれぞれの教室へと歩き出した。




