#018 「三日目の午後──静かなる別れ」
──恒例の午前の勉強会も終わり。
図書館の大きな時計が、正午を少し回ったことを告げる。
ほんの少しの緊張と、名残惜しさと、そして淡い静けさが、机に残された温もりのように漂っていた。
「今日も、お疲れさま」
先に口を開いたのは、灯野はるなだった。
その声は、これまでよりもほんの少しだけ──優しかった。
「うん、三日連続で、午前中きっちり勉強なんて……人生初かも?」
成瀬想太が苦笑いを浮かべながら、椅子から腰を上げた。
だが、その表情には、どこか“満たされた疲労感”があった。
「でも、良かったよね。こうして四人で集まれて」
美弥が柔らかく微笑む。
彼女は相変わらずはるなの腕にそっと触れていて、はるなはさすがに「ちょっと」と目線で訴えかけていた。
「明日からは……どうなるんだろうな」
ぽつりと呟いたのは、天城隼人だった。
彼の視線は、図書館の奥にある窓の外──どこか遠くを見つめていた。
この三日間、図書館で過ごした静かな時間は、ふとしたきっかけで始まり、そして気づけば、心地よい日課になっていた。
だが、その日課も、今日で一段落だ。
午後からはそれぞれに用事がある。
そのことは、朝の時点で、簡単な打ち合わせとして共有されていた。
──だから、この場は、自然と解散の流れになった。
静かな、でもどこかあたたかい別れ。
そして、彼らはそれぞれの午後へと向かっていく。
成瀬想太は、ゆっくりと図書館の自動ドアをくぐった。
外に出ると、昼過ぎの陽射しが少しだけ眩しかった。
さっきまでの静かな空間が、まるで夢だったかのように思える。
──けれど、心の奥には、どこか言葉にできない“ざわつき”が残っていた。
(……なんだろう、この感じ)
歩き慣れたはずの帰り道。
ほんの少し遠回りして、公園を抜けるルートを選んだのも、もしかしたらその違和感を振り払いたかったからかもしれない。
──カツン。
靴音が静かに響いた瞬間、背後で何かが動いたような気がした。
「……え?」
振り返る。
だが、誰もいない。
(気のせい、か……)
けれど、その“気のせい”が妙にしつこく、離れてくれない。
信号待ちのときも、公園のベンチに腰掛けたときも──
まるで、誰かの視線が自分を追いかけてくるような感覚があった。
──空中のホログラム広告が、ふと切り替わる。
『この街の安全は、あなたとともに。環境AIユグドノアが、日々の安心をお届けします』
(安心ね……)
無意識のうちに、ポケットに手を入れていた。
そこには、あのとき夢の中で見た“鍵”が──
……いや、そんなものは入っていないはずなのに、なぜか手が何かを確かめるように動いた。
(まさか、な)
そうたはひとつ息をついて、歩き出した。
──彼の背後で、街のホログラムがほんの一瞬だけ“揺れた”。
けれど、それに気づいた者は、誰もいなかった。
──別れ際、美弥が手を振ったあとも、天城隼人は特に言葉を返さなかった。
彼は人混みの中に溶けこむように、一人で歩き出す。
午後の街は騒がしい。
人々の声、車の音、ホログラムが放つガイド音声──
だが、隼人の中には奇妙な静寂があった。
(……何を考えてんだか)
小さくため息を吐いて、スマートフォンを取り出す。
画面には、未読のメッセージがひとつ。
差出人は──“家”。
開封することなく、そのままホームボタンを押してスリープに戻す。
(……今は見なくていい)
わかっている。
放っておけない内容かもしれない。でも──今は見たくなかった。
──友人は友人。社会は社会。
その二つの間で、自分はどこに立っているのか。
街のホログラムは明るく、まるで希望に満ちた都市のように振る舞っていたが、
その奥にひそむ“影”に、隼人は薄々気づいていた。
(このままじゃ、いずれ──)
考えかけた思考を、隼人は自ら遮った。
すぐそばの街灯に寄りかかり、空を見上げる。
白く濁った雲が、どこかぎこちなく流れていた。
(……変わるなら、誰かじゃなく、自分からか)
スマートフォンをもう一度開くと、今度はゆっくりと通知をタップする。
画面には、短いメッセージがひとつ。
『今夜、例の件、話せるか?』
家族からの連絡だった。
そして、それは“あの場所”に関係するものだった。
隼人は、しばらく画面を見つめたのち、
静かに──「了解」とだけ打ち込み、送信した。
──午後一時過ぎ。コアシティ中央通り。
「はるな〜、ほんとに今日は楽しかったわねっ」
別れ際、美弥は相変わらずはるなに腕を絡ませ、最後まで笑顔を絶やさなかった。
はるなは少し困ったように、それでもどこか満更でもなさそうな表情でうなずいている。
「また連絡するからね、絶対よっ!」
そう言って、くるりと背を向けると──
「お嬢様」
傍らに控えていた黒スーツの人物が、一歩前に出てきた。
「……わかってるわ」
美弥の声が、さっきまでの朗らかさとは一転して、凛としたものに変わっていた。
その表情に、迷いはない。
目線もまっすぐ、口調も端的で、少しも“少女らしさ”を感じさせない。
──久遠家の人間としての、美弥。
「午後の予定は?」
「旧市街の教育評議室。担当官と十五時に面会が入っております」
「じゃあ──間に合うわね。行きましょう」
彼女は軽くスカートの裾を押さえて、歩き出す。
すれ違う人々の視線が自然と彼女に向けられる。
それは、美弥自身が纏っている気品が理由なのか、それとも──その背後にある“力”が理由なのか。
──だけど、本人は何も気にしていないように、ただ静かに歩く。
(……はるな)
胸の奥で、さきほどの彼女の横顔がふと蘇る。
「あの人は──“普通”なのに、なんであんなに惹かれるのかしら」
その答えは、まだわからない。
けれど、自分の中で何かが動き出しているのは確かだった。
(……だから、もう少しだけ)
「──知ってみたいのよ。あの人のことを」
スーツ姿の人物は何も言わなかった。
ただ静かに、美弥の後ろに続いて歩いていく。
そしてふたりは、午後の陽射しの中、旧市街の方角へと消えていった。
──午後二時過ぎ。久遠野中央図書館・前広場。
「じゃあ、また明日……かな」
想太の言葉に、はるなは小さくうなずいた。
そのまま、美弥と隼人が去っていくのを、しばらく黙って見送っていた。
「……ふぅ」
はるなは、鞄の持ち手を軽く握り直すと、ひとりで街の中を歩き出した。
向かった先は、図書館から少し離れた、小さな人工公園──
高層ビルの合間にぽっかりと設けられた、都市型緑地のひとつ。
ベンチの脇に咲く低木の花々。
人工のせせらぎ。
微かな虫の声が、周囲の喧騒をやさしく遮っている。
はるなはベンチに腰を下ろし、手を膝に乗せたまま、空を見上げた。
「……今日は、いろいろあったな」
思わず口から漏れた独り言に、自分で苦笑する。
(美弥……強い人だな。ああいうの、ちょっと疲れる)
もちろん嫌いじゃない。
むしろ羨ましさも感じている。
だけど──“常に他人と関わる”という行為に、慣れていない自分には、少しだけ荷が重かった。
「人の気持ちって、どうしてこんなに……重なるんだろう」
胸の奥に、答えのない問いだけが残る。
ふと──風が吹き抜ける。
目を閉じると、耳元で何かがささやかれたような気がした。
『──はるな』
目を開ける。
「……え?」
まわりには誰もいない。
ただ、風がまたひとつ葉を揺らしていっただけだった。
(気のせい……じゃ、ないよね)
はるなは立ち上がり、空を見上げたまま、小さく呟いた。
「……また、夢を見そうな気がする」
胸の奥に、遠く柔らかな気配が宿る。
それは、確かに彼女の“記憶”と結びついていた。
──夜になったら、あの声はまた、私を呼ぶだろうか。
そう思いながら、はるなはゆっくりと帰路についた。
──彼女が、夢の中で“名前”を思い出す、その夜へ。