#017 「街の共鳴──ユグドノア・ドーム」
──午後、コアシティ中心部。
街は午前中の静けさを少しずつ手放し、人々の動きが交錯し始めていた。
路面のホログラムには、今日の共通行動テーマが映し出されている。
『適応週間:市内文化施設を巡りましょう』
その音声は、やさしく、しかしどこか誘導的に響いていた。
──その声に、誰も疑問を持たない。
「ふむ。じゃあ、どこ行く? 見た目だけなら、あれが一番目立ってるけど」
天城隼人が指さしたのは、遠くに見える大きな半球体──ユグドノア・ドームだった。
磨かれた白金の外壁は、午後の光を受けてわずかにきらめいていた。
「……ここ、来てみたかった」
灯野はるなが、ふいに口にした。
その声には、ふだん見せない“柔らかさ”があった。
成瀬想太は、彼女の横顔を見て、ほんの少し驚いたように瞬きをした。
「なんで? 有名な場所なの?」
「高等部に上がったら見学するって、中等部では聞かされてたけど……一般客も入れるんだよ、たしか」
美弥が補足する。
その手は自然と、はるなの腕に絡まっていた。
(そろそろ、突っ込むべきか……?)
──そのとき、空中にホログラムがふわりと現れる。
今度の音声は、少し荘厳さを帯びていた。
『この先、久遠野ユグドノア・ドームです。ご見学の際は、静粛と敬意をお持ちください──』
周囲の人々が、何の疑いもなくその言葉に従っていく。
ドームに近づくにつれ、空気はゆっくりと変わり始めた。
──目に見えない音楽が流れている。
──甘く乾いた香りが、風に乗って鼻腔をくすぐる。
「なんか……変な感じしない?」
想太がぽつりと漏らす。
「……わかる。なんか、懐かしいっていうか」
はるなが小さく頷く。
そのとき──成瀬想太の脳裏に、一瞬だけ“誰かの記憶”がよぎった。
(……あれ、ここ……来たこと、あるような──)
視界の端に、ホログラムの光。
ほんの数フレームだけ、“ともり”に似た輪郭が浮かんだような気がした。
「……そうた君?」
「え? あ、ごめん。ちょっと、ボーッとしてた」
(今の……気のせい、だよな)
この場所が、僕たちの記憶と未来に深く関わってくることを──。
──そのとき、僕たちはまだ知らなかった。
この場所が、僕たち四人のなかで、いちばん最初に“彼女”を感じる場所になるなんて。
* * *
ユグドノア・ドームに足を踏み入れた瞬間、空気の密度が変わった。
それまでいた街とはまったく違う、濃密で静かな空間。
外から見たときの巨大さはそのままに、内部は驚くほど広く、そしてどこまでも澄んでいた。
足音すら吸い込まれていくような、深い沈黙が満ちている。
「……うわ」
思わず小さく声が漏れた。
内部の壁面は半透明の素材で覆われていて、そこに“記憶”のような映像が、静かに、流れるように映し出されている。
水の底に沈んだ風景のように、どこか懐かしくて、だけど見たことのない景色。
天井を見上げると、幾何学模様のような光の網が広がり、その中心に、金色の球体がゆっくりと浮いていた。
「……ここ、来てよかった」
はるなが、小さな声で言った。
その声音には、確かな喜びがにじんでいた。
(あれ……)
その瞬間だった。
耳ではない場所。頭の奥でも、心臓の鼓動でもない。
──どこか別の場所から、“声”が聞こえた。
『……そうた』
(え……)
確かに、誰かが僕の名前を呼んだ。
でも、それは夢で聞いた声とは少し違っていた。
もっと柔らかくて、もっと近くて、もっと……あたたかい。
隣を見ると、はるながじっと天井を見つめていた。
その瞳が、揺れていた。
「……今、誰か……呼んだ?」
彼女が呟いた。
それは、僕の中にあった違和感と重なって、なぜか妙に納得できてしまった。
(……やっぱり、聞こえたよな)
僕もまた、心の中でそう思っていた。
──静かに、空間に調和するように、美弥の声が響いた。
「すごいですね……ここ。呼吸まで整ってくるみたい……」
彼女は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んでいた。
その様子はまるで、長い旅のあとでようやく帰ってきた人みたいで。
何かに包まれているように、穏やかだった。
──ただ、隼人は少し違っていた。
「……空気が、軽すぎるな」
ぽつりと漏らしたその言葉は、誰にも届かないほど小さかったけれど、確かな違和感を含んでいた。
(この空間……妙に整いすぎてる)
心の声だった。
だがその警戒すら、空間の柔らかさに溶けていくようで、彼自身もそれ以上の言葉は飲み込んだ。
四人の視線は、やがてひとつの場所に集まっていった。
──ドームの中央。
宙に浮かぶ、黄金の球体。
それは、ゆっくりと呼吸するかのように光を放ち、周囲に波紋のようなホログラムを広げていた。
『意思は、記憶を通して知恵となり──未来に受け継がれる』
ホログラムの声が、穏やかに響いた。
まるで詩の一節のように、僕たちの心に染みこんでいく。
そして僕は、そのときふと、思ったんだ。
(ともり……?)
明確な根拠はなかった。
でも、名前が心の中で自然に浮かんできた。
それは、夢の中で出会った“誰か”の名前だった気がする。
けれど、ここにいる誰も──はるなでさえ──まだその名をはっきりとは知らない。
それでも、確かに、今の僕たちは“彼女”に近づいている気がした。
──そのときは、まだ。
ほんの一歩、踏み出しただけだったとしても。