#012 「美弥と隼人の交差」
久遠野市中央図書記録館──《灯のアーカイブ》。
未来都市の中心にあるのに、ここだけ時間の速度が違っていた。
古い煉瓦の壁は温度を含み、街を満たす人工的な光とは別の、“人の記憶”のような静けさがあった。
午前。
久遠野行政局とAI倫理評議会での応対を終えた美弥は、胸の奥にたまった重さを抜くように、ゆっくりとした歩調でこの場所へ来ていた。
後ろを歩く“お付きの人”は、いつものように数歩だけ距離を置いて美弥を見守っている。
(……やっと、ひと息つける)
美弥は静かに息を吐いた。
敬語の迷路、形式的な好意、“久遠家の娘”として扱われるあの空気──
慣れているはずなのに、今日は少しだけ疲れていた。
だからこそ、この建物の前に立った瞬間、胸がふっと軽くなるのを感じた。
(……ここ、好きだな)
そんなことを思ったときだった。
石畳を踏む足音が近づいてくる。
柔らかい風がひとつ、流れた。
美弥がそちらへ視線を向ける。
天城隼人が歩いてきた。
同じクラスの少年。
入学してから数回、自然に言葉を交わしたことがある。
背が高くて、落ち着いていて、クラスでは“モデルみたい”と言われているが、本人にはその自覚がまったくない。
教室での印象とまったく変わらない、“気負いのない空気”を纏っていた。
(……やっぱり目立つな)
(でも、話しやすい人なんだよね……)
隼人も美弥に気づき、わずかに顎を引いて挨拶を返す。
「……久遠さん?」
美弥も軽く会釈する。
「おはよう、天城くん」
それだけの、短い挨拶。
クラスメイトとして自然な距離感。
同行するほど深い仲ではない。
でも、すれ違いで終わるには少し“縁を感じる”相手。
隼人は歩みを止めることなく、けれど美弥の横まで来た瞬間、ほんのわずかだけ速度を緩めた。
(この子……午前中の仕事帰り、かな)
あたりを軽く見渡した隼人は、《灯のアーカイブ》の建物を見上げながらぼそりと呟く。
「……なんか、不思議と来ちまったんだよな。ここ」
「え……?」
美弥も視線を向ける。
その中央で──光の粒のような存在が揺れていた。
少女。“灯野はるな”。
その隣に立つ“成瀬想太”。
会話は聞こえない。
けれど──二人のあいだだけ、世界の温度が違っていた。
美弥は息を吸い忘れる。
(……え……)
体の奥で灯りがついたように、胸がじんと熱を帯びる。
綺麗。
……いや、それだけじゃない。
光っている、という表現が近かった。
静かで、透明で、風景の中でひとりだけ別のリズムを生きているような存在。
(教室で見たときは、こんなに……光ってはいなかった)
心が、どくん、と跳ねた。
理由はひとつもわからなかった。
でも目が離れない。
吸い寄せられるように、視界の中心に彼女がいる。
隼人は横目で美弥を見た。
(……あ、これか)
さっきよりも美弥の呼吸が浅くなっている。
言葉にしなくても分かる。
美弥は今、明らかに動揺していた。
ただ──隼人は核心に触れない。
半歩だけ気づく。それが彼の優しさだった。
「……大丈夫か?」
「っ……う、うん……」
美弥の返事は震えていた。
自分でも理由が分からないから、余計に落ち着かない。
(なんで……なんでこんなに……)
はるなが一歩動くたびに、空気が柔らかく揺れる。
美弥はそのすべてを見逃したくなかった。
(……綺麗……違う……この感じ、なに……?)
隼人は美弥の乱れた呼吸に気づきながらも、空気を壊さぬよう静かに口を開いた。
「仕事帰り? なんか疲れてるように見えたけど」
「……あ。うん。人と話すの、少しだけ体力いるから」
「分かる。俺もああいう場所ちょっと苦手だわ」
美弥は少しだけ隼人を見る。
「天城くんでも?」
「見た目だけだって。中身はわりと普通だからな」
自然体の言葉が、美弥の緊張をほんの少しだけほどいた。
やがて、はるなと想太が《灯のアーカイブ》の扉から出てきた瞬間──
午前の風が、ふわりと四人の間を通り抜けた。
人工風ではない。
どこか“誰かの気配”を含んだような、透明で優しい揺らぎ。
誰もその意味を知らない。
でも、その風はたしかに告げていた。
──ここで、四人の未来が重なりはじめた。
美弥は胸に手を添えた。
初めての感覚。
名前のないざわめき。
(……なに……どうして……)
このとき、美弥はまだ知らなかった。
この一瞬に灯った“熱”が、後に彼女の人生の軸になることを。




