#009 「隼人の朝」
天城隼人は、朝の光に照らされた寮の静けさの中でゆっくりと目を開けた。
目覚ましより先に起きるのは、もう習慣だ。
深く息を吸い、身体を伸ばす。
筋肉がほぐれる心地よさが、ようやく一日の始まりを実感させた。
鏡の前で軽く寝癖を整え、洗面所へ向かう。
寮の設備はどれも静かで、反応が滑らかだ。
ここは、何もかもが整っている。
着替えながら窓の外に視線を向ける。
久遠野市の朝は、今日も変わらず“整いすぎて”いた。
ホログラム広告が控えめに起動し、通勤する人々が一定のリズムで歩く。
空調塔が生み出す人工風が街路樹を揺らし、歩道には淡いナビラインが人の流れを自然に誘導している。
(……全部が計算されてるみたいだな。整いすぎてて……どこか、人の“雑さ”が消えてる気さえする)
便利だ。だが、どこか息苦しさがある。
(ノーザンダストの……あの空気とは、やっぱり別世界だ)
喧噪も怒声も笑い声も混ざった、あの雑多さが好きだった。
スマホが震き、画面を見ると弟・要からの通知があった。
『兄ちゃん、そっちはどう?』
(……あいつ、学校は? まあいいか)
単語ひとつで済ませる雑なところは相変わらずだ。
だけど──兄としては、それがむしろ愛おしい。
(あいつは……俺とは違って、まだまっすぐだからな)
守りたいと思わせる、まっすぐな弟だ。
さて、とひと息ついて寮を出る。
今日は授業もなく、新生活適応週間の1日目。
好きに歩いていい日だ。
街は静かだが、完璧に制御された“静かさ”だ。
歩きながらアプリを開こうとした指を途中で止める。
(……まあ、適当に歩くか)
人工風が流れ、ホログラムが光を連れて街の角を照らす。
そのとき── スマホがもう一度震えた。
画面には、さっきと同じく 要の名前 が表示されていた。
(……また? 授業中のはずだろ)
通知を開く。
『兄ちゃん、今日どこ歩いてる?あんまウロウロすんなよ。気をつけて。』
(は……? なんで俺の居場所なんて……)
胸に小さな違和感が灯った瞬間、さらに短いメッセージが重なる。
『あ、見なくていいから。たぶんどこかで”会うと思う。じゃ。』
(会う?……何言ってんだ、アイツ)
意味はまったく分からない。
だが、妙に胸騒ぎだけは残った。
スマホを閉じた直後、視界の端に古いレンガ造りの建物が映った。
周囲の未来的な街並みの中で、そこだけ“時の速度”が違うように佇んでいる。
久遠野市中央図書記録館《灯のアーカイブ》。
(……なんか、惹かれるな)
目的があったわけじゃない。
ただ、足が自然とそちらへ向いた。
今日はただの散歩のつもりだった。
なのに──
──今日は“ただの散歩”では、終わらない。
隼人はまだ、その意味を知らない。




