第六章 思惑の先にあるもの(2)
第六章 思惑の先にあるもの(2)をお届けします。
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執務室で軍備に関する書類を待っていた宰相グラディアは、それを持って来たのがジルダスの部下ではなく、クレメンツであった事に驚いて思わず執務机の椅子から立ち上がった。
「公が自らお持ち頂かなくとも………」
クレメンツは、書類を彼女に差し出しながら微笑んだ。
「ちょうど姉上に話があったので、ついでに持って参ったのです」
「お話? 何でしょう?」
そう問うたグラディアに、クレメンツは神妙な面持ちをした。
「一度、きちんとお話しておきたいと、そう思ったのです。姉上も大叔父上も、何やかやと理由をつけて避けておいでなので」
グラディアは薄く紅を引いた唇を引き結んだ。クレメンツが何の話をしようとしているのか悟ったからだ。
彼女は吐息混じりに言った。
「クレメンツ………今は〈天の民〉との戦に備えなければならないのですよ」
「わかっています。ですが………」
クレメンツは一瞬言いよどんだ。
「………もしかしたら、戦の後には、もう私には話す機会がないかもしれませんので」
「そんな不吉な事を言ってはなりません。領主たるあなたが弱気を見せては、兵の士気にかかわります。あなたは常に堂々と自信に満ちていなければ」
クレメンツは弱々しく笑んだ。
「わかっています、姉上」
「常に堂々と」「自信に満ちている」のはグラディアの方だ。まるであまねく地上を照らす太陽のように力強く、気高く、美しい。どんなに頑張って背伸びしても、自分はこの聡明で偉大なる姉には小指の爪の先ほども及ばない。グラディアを見る度に、クレメンツはそう思う。
クレメンツは窓の外に視線をやった。まるでダンスを踊っているかのように、眩い午後の陽光が領主館の屋根や壁に乱反射している。時折吹いてくる涼風が心地好い。こんな非常時でなければ、木陰に腰を下ろして読書を楽しんでいた事だろう。香りの良いお茶を飲みながら。
中庭を忙しく動き回っている騎士や兵士たちの様子を見下ろしながら、クレメンツは独り事のように言った。
「………皆、よくやってくれています。本当なら今すぐにでも逃げ出したいでしょうに」
「それは、彼らが公を信頼しているからです」
クレメンツはグラディアに視線を戻した。
「それは姉上や大叔父上がおられるからです。それにマリエル………彼女は我々の勝利を予言した。マリエルの予言は決して外れない。だから、皆、恐怖を押し殺し、戦支度をしているのです。彼女がいなければここまでは………」
グラディアは黙ったままだった。確かにクレメンツの言う通りだったからだ。どんなに不本意であろうとも、それは認めざるを得ない。クレメンツにとって、ガラハイド国の領民にとって、マリエルは心の支えとなっている。
クレメンツは、意を決したように真正面からグラディアの目を見据えた。
「姉上、前々から申しているように、私はマリエル=サンデバルトを公妃にしたいのです。賛成して頂けないでしょうか?」
グラディアの頬を困惑が掠めた。
「それは………」
「姉上が賛成して下されば、誰も否とは申さぬはず」
「わたくしの考えはすでにお伝えしたはずです」
「わかっています。ですが、それを承知で再考願いたいのです。どうか」
グラディアは、クレメンツの顔に一歩も引かぬという固い決意を見て取った。
あの気弱だった弟がよくここまで成長したものだと、本来ならば喜ぶべきなのだろうが………。
グラディアはクレメンツの両肩に手を置くと、噛んで含めるように言った。
「クレメンツ、あなたがどれほどマリエルを公妃にと望んでいるか、むろんわたくしも十分に承知しています。彼女は優れた予言者、我が国の民を洪水から救ってくれた恩人なのですから。容姿も教養も気品も『貴婦人』の称号にふさわしい」
「でしたら………!」
「………ですが」
ぱっと顔を輝かせるクレメンツの言葉を遮り、グラディアは続けた。
「ですが、いかに『貴婦人』の称号を持っていようと、マリエルは平民です。クレメンツ、領主にとっては婚姻もまた政治なのです。あなたの公妃となる者は、由緒正しい高貴な血筋の姫でなければなりません。でなければ、家臣領民はもとより、近隣諸国からも軽んじられてしまいます」
クレメンツは俯くと、食いしばった歯の間から絞り出すように言った。
「それは………私の母が卑しい身分の者であったから、公妃は高貴な血筋の者でなければならないという意味ですか?」
「いいえ!」
グラディアは思わず声を荒げていた。
「わたくしはそんなふうに思った事など一度もありません!」
クレメンツは唇に自嘲めいた笑みを刻んだ。
「姉上はそうかもしれませんが、家臣たちは皆そう思っています。誰も私の母の話はしない。まるで最初から存在しないかのように。でも、私を見る時、彼らは私の中に卑しい侍女の血を見ている。他に公子がいなかったから仕方なく領主と仰いでいるのだと、彼らの態度や言葉の端々に滲んでいる。もし、マリエルが現われなかったら、私はずっとお飾りの領主のままでした。セヒア村を救った時、彼女は同時に私をも救ってくれたのです」
正貴族四十四家に名を連ねる、伝統あるガラハイド家の家名と紋章に恥じぬ立派な領主になる事など、最初から無理な話だった。自分にそれだけの器量が備わっているなど、思った事は一度もない。
仕方なく与えられた領主の座。
仕方なく仕える家臣領民。
そのようなものが居心地良いはずがない。
だが、それでも………万分の一でもいい、姉の期待に応えられるように。
酒に酔った先代領主がついはずみでつくってしまった義理の弟を、まるで実の弟のように可愛がってくれる姉の期待に少しでも応えられるように、と。
それだけを目標に………心の支えにしてきた。
「クレメンツ………」
グラディアは、そっと包み込むようにクレメンツの頬に触れた。
「あなたはガラハイド国の領主。わたくしの自慢の弟です。領民の声に耳を傾けてごらんなさい。皆、あなたへの忠誠を叫んでいます。領民は一人残らずあなたに付き従うでしょう。あなたが見込んだ予言者が民を救ったように、今またあなたの知識と知恵がこの国を救うのです。あなたの公妃に高貴な血筋の姫をと言うのは、決してあなたの母とは関係ありません」
「いや。関係はある」
思いもよらぬ方角から放たれた声に、二人は驚いて振り返った。
いつからいたのか、入口に影のように黒衣の男が立っていた。
グラディアは怒って言った。
「我が国の民でもないというに、知ったふうな事を申すな。公を侮辱するのか?」
「誰が見ても明白な事実を否定し続けるのは、彼に対する侮辱ではないのか?」
突き放すようなエイデンの言葉に、グラディアは鼻白んだ。
「……………はっきりものを言う男だこと。一体何の用です?」
「貴女が呼んでいると聞いた」
エイデンの言う通りだった。
思い出したグラディアは、気まずそうに咳払いをした。
「ええ。そうでした」
「用件は?」
グラディアは、執務室の中ほどにテーブルを挟んで置かれた長椅子の片方を示した。
「お座りなさい。込み入った話になります」
しかし、エイデンは座らなかった。グラディアの肩越しに、チェストの横に置かれた硝子壺を凝視していた。
明らかに驚愕の色を浮かべて。
初めて見る黒衣の男のはっきりとした感情の乱れに、クレメンツは困惑した。
「イグリット殿? 一体………」
エイデンは答えず、その代わりにひどくゆっくりとした動作で硝子壺に歩み寄ると、革手袋をはめた手を硝子壺に伸ばした。触れた瞬間粉々に砕けてしまうのではないか、あるいは霧のように消え失せてしまうのではないかと、怖れているかのような動作だった。
エイデンは掠れた声で問うた。
「…………これを………どうやって手に入れた………?」
「贈り物です。あなたがこのような工芸品に興味を持っているとは思いませんでした。人は見かけによりませんわね」
「工芸品?」
エイデンは怪訝そうに聞き返し、それから苦笑した。
「硝子壺の事を言っているのではない。中身の方だ。これが何か、貴女は知っているのか?」
「海水と申すのでしょう? 海の水。その名の通り、〈海の民〉にゆかりある物と聞きました」
クレメンツは内心で首をかしげた。何故、この黒衣の男がこれほどまでに驚いたのか、理由がわからなかったからだ。
エイデンは頷いた。
「海水とは海の水晶が溶けたものだ。〈海の民〉の世界〈海の九王国〉の天を満たしている。大地のはるか上に広がる空のように。………まさか、このような内陸の地で海水を見る事になろうとは………」
「海の水晶? 本当に?」
クレメンツは驚いて聞き返した。
「しかし………海の水晶は青いのでは?」
「穢れのせいでこのような色に濁ってしまったと言われている」
「穢れ? これは穢れなのですか? 姉上、そのような物を部屋に飾っておくのはやめた方が………」
青ざめるクレメンツに、エイデンは言った。
「心配ない。硝子は水晶のように穢れを浄化する力はないが、その代わり完全に封じ込める事が出来る。水晶と違って溶ける事もなく、半永久的に。硝子が宝玉よりも高価なのはその為だ。それに、〈地の民〉は穢れに対する耐性が強い。王都は大地と大海を隔てる門〈銀馬門〉を挟んで大海のすぐ側にあるが、住人たちは何の影響も受けていない。この硝子壺のように、海水を調度や装飾品として好んで飾る者も多い。ここまで大きな物は、滅多にないが」
最後の台詞には、感嘆というより呆れたような色が混じっていた。
クレメンツはほっと安堵した。
「それなら安心だ」
それから、彼は硝子壺の中のラッパのような形をした花を指差した。
「では、この花も〈海の九王国〉ゆかりの物だとか?」
「そうだ。大地では、大海を臨む沿岸部でしか見る事が出来ない〈海の九王国〉を象徴する花………白百合だ」
「白百合?」
赤いのに?
「海水と同じだ。穢れのせいでこのような色に染まっている。かつて〈海の九王国〉では、白百合は穢れの有無や濃淡を見極める手段として使われていた。赤く染まれば染まるほど、穢れが濃いという事になる。王都では、今でもそのような用途に用いられている」
クレメンツとグラディアは、思わず毒々しい真紅に染まった花を見やった。
穢れが漏れる心配はないと理路整然と説明されても、やはりあまり気分の良いものではない。
贈り主のアニガンには悪いが、やはり早々にしまい込んでしまおう。
グラディアはそう思った。
クレメンツが言った。
「それにしてもよくご存知だな。王都へ行った事がおありなのか?」
「様々な所へ行った」
「それは羨ましい。私は本で得た知識しかなくて………」
グラディアが咳払いをした。
「二人とも話が弾んでいるようですが、本題に入ってもよろしいですか?」
エイデンとクレメンツは、我に返ったように彼女を振り返った。
「すみません、姉上。つい………」
グラディアは呼び鈴を鳴らして侍女を呼ぶと、三人分のお茶を持って来るよう命じた。
やっと長椅子に腰を降ろしたエイデンに、
「騎士団長から、この後の軍議にも出席してもらえると聞きました。感謝します」
エイデンは素っ気なく言った。
「『約束の予言』と引き換えに協力するのが条件だからだ。それだけだ」
「例えそうでも、あなたの持つ知識が我が国にとって貴重である事は間違いない。騎士団長も同意見です」
お茶を持った侍女が入って来た。
清涼な香りと湯気の立ち昇るカップがテーブルに並べられている間、三人は無言だった。
侍女は、まるで暗黒が人の形に化身したかのようなエイデンに怯えにも似た視線を投げた後、恭しく頭を下げて出て行った。
入口の扉が完全に閉じたのを見計らって、クレメンツが口を開いた。
「イグリット殿は、何故あの予言を『約束の予言』と呼ぶのだ? 内容からして、例えば『終焉の予言』などと呼ぶ方が合っているように思うのだが」
エイデンは、言うべきか否か迷うようにしばしクレメンツの顔を見つめた後、ひとつひとつ慎重に言葉を選びつつ答えた。
「あの予言は、私の望みを叶える術を指し示したものだ。いつか私に『約束の予言』をもたらす者が現れ、そして全てが動き出すと、そう言われた。だから、私は『約束の予言』を語る者が現れるのを待っていた」
グラディアは、口元に運んだカップの湯気越しに鋭い光を湛えた目でエイデンを見た。
「あなたの望みとは何です? 天は堕ち、海はあふれると告げた、その『約束の予言』とやらが指し示すような世界の終わりですか?」
「!!」
クレメンツははっと息を飲み、静かに目線をぶつけ合うグラディアとエイデンを交互に見た。
グラディアは、目の前に座る黒衣の男の一挙手一投足をも見逃さぬよう、彼を真正面から見据えている。
「その点について、わたくしはあなたの真意が知りたい。マリエルが何と予言しようと、世界の終焉を目論む者の言になど耳を傾ける事は出来ぬ」
エイデンは、テーブルに置いたままのカップの中の液体に映る自分の姿に視線を落とした。
「私の望みは世界の終焉などではない。極めて個人的な事で、世界は関係ない。宰相殿がそうとしか思えぬのは、仕方ないが」
グラディアは唇を引き結んだ。
「にわかには信じがたい」
エイデンはちらと笑んだだけだった。それ以上、彼女にも誰にも説明する必要などないとでもいうふうに。
彼の態度をグラディアは不快に思った。
彼女の表情に気付かぬはずはないだろうに、エイデンは冷やかに続けた。
「私の真意など今は関係ない。重要なのはただひとつ、間もなくこの国は攻撃を受けるという事だ。再び〈天の民〉が攻めて来た以上、大地にはもはや真に安全な場所はなくなった。仮に今すぐガラハイドを離れても、いつか必ず〈天の民〉の翼と剣が頭上に届くだろう。どこへ逃れても同じだ。彼らの進撃は止まらない。先の大戦の時のように、彼らを北の果ての空中都市〈黄金の鷺〉へ退けぬ限り、大地は〈地の民〉の血と屍で埋め尽くされる」
グラディアは低く呻いた。
「…………まるで他人事のように申すのですね」
絶望に満ちた未来図を、まるで些細な事であるかのように。
「他人事ではない。少なくとも今は。協力すると言った以上、私は全力を尽くす。だが、私一人が加わったところで、戦術的にはあまり意味はない。それだけは念頭に置いていて欲しい」
「ずいぶんと謙遜すること。その黒い剣の威力については、報告を受けています」
エイデンは自嘲めいた視線を自分の剣に投げた。
「これはたまたま〈天の民〉にとって毒になるというだけで、剣はしょせん剣に過ぎない。………話というのは以上か?」
「もうひとつ。あなたは、なにゆえそれほどまでに〈天の民〉に詳しいのです? まるで〈天の民〉自身であるかのように」
グラディアの言葉が意外だったのか、エイデンは薄く苦笑した。
「宰相殿は、私が〈天の民〉ではないかと疑っているのか? エルレイ=ズヌイのように、自らの民とは反対の立場を選んだと?」
「違うのですか?」
「違う」
答えは簡潔で、明瞭だった。
だが、まだ疑わしげな表情を崩さぬグラディアに、エイデンは続けた。
「私は〈天の民〉ではない。〈天の民〉には、私のような黒髪・黒瞳の者はいない。例外なく金髪で、瞳の色も青か緑だ。博識のクレメンツ公ならば、知っているかもしれぬが」
エイデンに視線を向けられ、クレメンツは頷いた。
「確かに、どの文献にもそのように記されている。天の水晶と同じ黄金色の髪を持ち、天の女神の姿を模したように見目麗しい容姿の持ち主だと」
美しい都に住まう、美しい民。
七十年前の大戦まで、〈地の民〉にとって彼ら〈天の民〉は、むしろ憧憬にも似た神々しい伝説の存在だった。
あの長く苦しい戦いで、ただ天空に浮かぶ都に住んでいるというだけで自分たちと同じ人間なのだと、〈地の民〉は知った。
多くの血と命を代償に。
「私が〈天の民〉に詳しいのは、ずっと〈獣使い〉の一族と共にいたからだ。前に言ったろう? クレメンツ公。私が〈天の民〉の言葉を喋れるのは、同じ言葉を使う彼らに友人がいるからだと。ワクトーからの手紙を受け取り、シエルへ赴くまで、私は〈石の鎖の庭〉にいた。〈獣使い〉の一族と共に〈天の民〉と戦っていた。詳しいのはその為だ。実際にこの目で見、何度も剣を交えた」
クレメンツは息を飲んだ。
〈天の民〉との実戦経験者。
今のガラハイド国にとって、これ以上の「助け手」がいるだろうか?
彼の存在を予言したマリエルの能力は、今回も間違いなかった。
何故、エイデン自身が『鍵』ではないのかは、未だに不可解だったが。
グラディアが言った。
「そういう事であれば、我が国としては大変助かります」
「納得してもらえればそれで結構だ。他に話がないのなら失礼する」
結局、出されたお茶には全く口をつけず、エイデンは立ち上がった。
「………そう言えば」
部屋を出ようとしたエイデンの背に向かって、ふと思いついたようにクレメンツが言った。
「貴殿に『約束の予言』を待てと告げたのは誰なのです? やはり予言者?」
エイデンは足を止めると、一切の光も存在しないような闇色の目で彼を見やった。
「…………あなたは直接には知らぬ人物だ、クレメンツ公」
そう言い残し、エイデンは黒い霧のように出て行った。
彼が部屋からいなくなった途端、室内に初夏のぬくもりが戻ったような気がして、クレメンツとグラディアは図らずもほぼ同時にほっと肩の力を抜いていた。
最後まで読んで下さいまして、ありがとうございました。
クレメンツとグラディアは、作者にとって理想の姉弟です。
二人とも幸せになって欲しいものです。
次章も引き続きお読み頂けますと嬉しいです。
ご感想などお待ちしております。
ではまた。