第五章 男装の麗人(1)
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第五章 男装の麗人
ガラハイド国の南方には、通称『霧の森』と呼ばれるシグクントの森が広がっている。
この森の土と水には何故か地の水晶が多く含まれており、木々は巨大で天高く枝を広げ、気化した水晶が霧となって常に森全体を覆っていた。
シグクントの森を抜けると唐突に緑は失せ、岩だらけの乾いた丘陵地帯が続く。そこは人が住む事など到底不可能な、荒涼とした不毛の土地だった。一応、ガラハイド国領という事にはなっているが、領地とは名ばかりの放置された地域だ。万一、誤って迷い込んでしまったら、飢えと渇きで着実に命を落とす。
そして、この荒れ果てた丘陵地帯と、切り立った断崖絶壁に挟まれた深い渓谷の底を荒れ狂い流れる大河・パッセルサンガ川を越え、さらに凶暴な野牛が闊歩し獅子や豹や骨食い犬などの獰猛な肉食獣が支配する広大な乾いた草原地帯を抜けると、〈獣使い〉の一族の土地である〈石の鎖の庭〉の西端に出る。
たった今も〈天の民〉軍を相手に奮戦している彼らの側面を衝けるのだ。
つまり、この辺境の小国・ガラハイド国は、〈獣使い〉の一族を〈天の民〉軍の挟撃から守る最後の砦と言っても過言ではなかった。
*
「………だから、万が一にも我が国が負けて、〈天の民〉軍がガラハイド国の領地を通るのを許せば、〈地の民〉にとって非常にまずい事態になるんだ」
両腕いっぱいにヨモギの束を抱えたソーンは、同じように大きな束を持つカナン……小柄な彼が大きな束を抱えて歩く様はまるでヨモギの束が歩いているようだった……の隣りを歩きながら、この世間知らずの少年にとくとくと説明してやっていた。
「俺にだってわかるくらいだ、王都だって……聖王陛下だってわかっているはずさ。もし、〈天の民〉の〈石の鎖の庭〉への挟撃を許せば、取り返しのつかない事態になるとね。だから、レディ・マリエルが〈天の民〉がギズサ山脈を越えてやってくると予言なさった時、クレメンツ公はプレストウィック国へと同時に王都へも使者を送られた。『〈天の民〉を迎え撃つ為に援軍を請う』、とね」
「来たんですか? 援軍」
カナンの問いに、ソーンは苦々しく表情を歪めた。
「いいや。『先の大戦でも越えられなかったギズサ山脈を〈天の民〉が越えて来るなどあり得ない』『こちらは敵の本軍を相手にしているだけで手一杯だから、こっちに回す兵力はない』だとさ。実際に戦っているのは〈獣使い〉の一族で、水晶騎士団はただの一人も前線には出てないってのに。………全く、いけしゃあしゃあとよく言うよ」
カナンは驚いて聞き返した。
「それほんとですか?」
「ああ。水晶騎士団は王都から一歩も動いていない。あまりな返答に怒った宰相殿がお調べになってわかった事だ。きっと聖王ウィーアード陛下は、王都さえ……ご自分がおられる水晶王宮さえ無事ならそれでいいんだろ。遠く離れた辺境の国がいくつ滅びようと、そんな事は知ったこっちゃないのさ。開戦以来、クワンティス国やジェンデ国を始めとする北方の国々が次々と〈天の民〉に壊滅させられた時も、尻に重りを括りつけてるみたいにまるっきり動かなかったからな」
カナンは困惑に瞳を揺らした。
「でも………聖王陛下って、大地と〈地の民〉を治める王様なんでしょう? 〈天の民〉の翼の王や、〈海の民〉の九人の魔王たちと並んで、世界の三分の一ずつを治める〈地の民〉唯一の王だって、じいちゃんが………」
ソーンは乾いた笑みをこぼした。
「確かにそうだが、そんなのはもう今では単なる建前さ。天と地と海が始まった時に定められた秩序なんて、とっくの昔に崩れてしまっている。〈天の民〉の空中都市は、かつては何十もあったのに、都市同士で覇権を巡って争ったせいで今では〈黄金の鷺〉しか残っていない。〈海の民〉が住んでいた〈海の九王国〉に至っては、魔王同士の戦のしすぎで民もろとも大昔に滅んでしまった」
ソーンは「よっ」とヨモギの束を抱え直すと、どこか小馬鹿にしたような口調で続けた。
「『〈天の民〉の王は翼によって、〈地の民〉の王は血によって、〈海の民〉の王は剣によって選ばれる』……だっけ? 〈地の民〉については詩文の通りだから異論はないが、他のふたつの民については俺は疑問だ。〈天の民〉の初代翼の王は白銀色に輝く大鷲に『王たる者の証』を授けられ王になったとか、〈海の民〉の魔王は海の水晶で出来た魔剣が王の座に相応しい者を祝福して決まるとか、そんな絵空事みたいな話、俺にはとても信じられないね。だってそうだろ? 珍しい色の鳥から王の証とやらをもらったからって、なんで民はすんなりそいつを自分たちの王だと認めたんだ? 魔剣に祝福されるってどういう意味だよ? 全くわけがわからない。〈天の民〉も〈海の民〉も、住んでいる場所が違うってだけで俺たち〈地の民〉と同じ普通の人間だろ?」
「〈天の民〉の翼の王の事は知らないですけど………〈海の民〉の魔王は、魔剣の祝福のおかげでものすごく長生きになるって、じいちゃんが言ってましたけど。〈天の民〉よりもずっと。千年とか、二千年とか、すごく長い間王の座に就いて、国を治めるって。病にもならないし、怪我をしてもあっという間に治ってしまう。魔王を斃せるのは他の魔王か、彼らが持つ魔剣だけだって。ほとんど無敵ですよね」
そんなに長く生き永らえるのが良い事なのかどうかはわからんが、と、ワクトーは言っていたが。
だが、そう言っていたワクトー自身も、短命な〈地の民〉にしては稀に見る長寿だった。
何とも皮肉な話だ。
ソーンは、腕のヨモギの束に失笑を落とした。
「そんな事あり得るのかねぇ。人の言葉を喋る獅子がいるとかいう〈獣使い〉の一族の伝承と同じくらい胡散臭い話だと、俺は思うがね。だけど、〈地の民〉だけは、初代〈双子王〉から連綿と続く聖王シーグリエン家の血筋によって代々統治されている。それは単なる言い伝えなどではなく、確固たる事実だ。しかし、その聖王陛下にも、もう昔のような絶対的な力はない。各国の領主の方がよっぽど権力を持っている」
「でも、領主様って、遠い昔に初代聖王陛下から領地を賜った四十四人の騎士の子孫なんでしょう? 主君より臣下の方が権力を持ってるなんて、変じゃないですか?」
「先祖が受けた恩義なんか、代が変われば忘れてしまうものさ。それに、聖王陛下も所詮は人だからな、初代聖王であらせられた〈双子王〉ディアティス・ディアドラ両陛下や、〈氷雪王〉サローエン陛下、〈麗明王〉グナワルダ陛下や〈勝利王〉オニール陛下のような賢王ばかりじゃない。良い陛下もいれば、あまり良くない陛下もいる。代を重ねるごとに聖王家の力は衰えていった。今、聖王陛下の権威を支えているのは、尻の下の玉座と身に流れる血統だけだ。それで何とか体裁を取り繕ってはいるが、領主たちは聖王陛下の意向などおかまいなしにいがみ合ってばかりで、常にどこかで戦や小競り合いが起きている。そして、聖王陛下にはそれを止める力も意志もない。ただ輝ける王宮でふんぞり返っているだけで」
ソーンの声音には、抑えがたい憤りが滲んでいた。
「だが、今も全ての〈地の民〉の国々は、聖王陛下との約定に従って領民から集めた税の一部を聖王陛下に献上している。それはこういう時に助けてもらう為だ。それなのに、取るものだけ取っておいて助力を請われた時は知らんぷりだなんて、ひど過ぎると思わないか? このままじゃ、もし〈天の民〉の軍勢が王都まで押し寄せても、各国は援軍なんぞ出さないだろうよ。〈勝利王〉オニール陛下は、それはそれは立派な賢王であらせられたそうだが、孫のウィーアード陛下はお気に入りの愛妾にうつつを抜かすばかりの救いようのないボンクラだ」
「ソーンさん、そういう事をそんな大きな声で言うのは………」
慌てて周囲を見回すカナンに、ソーンは鼻で笑った。
「構うものか。みんなそう思っているんだから。ガラハイド国は聖王陛下に見捨てられた、とね!」
「そんな………」
援軍拒否の返答を受け取った時のこの国の人々の怒りと絶望を思うと、カナンの心は痛んだ。死ねと言われたようなものではないか。
民を護る唯一の王のはずなのに、聖王ウィーアードはどうしてそんな無慈悲な真似が出来るのだろう?
「…………ところで」
と、ソーンは気分を変えるように言った。
「さっきから気になっているんだが………そのトリカブト、一体どうするつもりなんだ?」
カナンは、ヨモギに混じっていたトリカブトの株を丁寧に布で包み、ベルトにぶら下げていた。
葉茎の部分だけを摘めばよかったのに、ヨモギと間違えてこれを採ってきた者は根こそぎ引っこ抜いてしまったらしい。
この毒草は、根だけでなく葉や茎ばかりか花や蜜にも毒があり、肌に触れただけで体に毒が入り込んでしまう事もある。幸い、これを採ってきた者は……ヨモギの匂いが手に付くのが嫌で……手袋をしていたので事なきを得たが、無知のなせる業とはいえ恐ろしい事をしたものだ。
「どうって………もちろん薬にするんです」
まるで宝物を見つけた子供のように、カナンは満面の笑顔で答えた。
「こんな見事な株は滅多にありませんよ。すごい掘り出し物です」
ソーンは顔をしかめた。
「だってそれ毒草だろう? 見かけによらず物騒だなあ、君は」
「大丈夫。確かに毒草だけど、正しく使えば心臓の薬や鎮痛薬になるんですよ。石灰をまぶして乾燥させるんです。………ここって石灰あります?」
「さあ、どうだろう。あとで聞いておくよ。頼むから、俺が怪我をしてもそれは使わないでくれよ」
「だから大丈夫ですってば。量さえ間違えなければ」
「怖い事をさらっと言うなって」
二人は領主館の中庭に入った。
白い砂を敷き詰めた広い中庭は、四方を回廊とピラカンサの生垣でぐるりと囲まれていた。葉と棘の間のところどころに白い小さな花が綿毛のように群れ咲いている。秋になれば、赤やオレンジ色の小さな実をたくさん付ける事だろう。中央には樹木の下に佇む乙女と猟犬の彫像が立つ噴水が据えられ、その周囲を戦支度にいそしむ兵士や騎士がせわしなく動いている。砥石で剣を磨く者。痛んだ矢羽根を取り替える者。弓弦の張り具合を確かめる者。自分の身長よりも長い槍の束を抱えて運ぶ者。
全員、一様に無言で、人数に比して不気味なほど静かだった。
カナンは中庭を見回しながら言った。
「何か………みなさん静かですね」
皆が寡黙である理由は、もちろんソーンにはわかっていた。彼も同じ立場と心境だったから。
「領都はもっと静かだよ」
と、ソーンはわざと微妙に論点をずらした返事をした。
「戦えない者は皆、すでにシグクントの森へ避難しているからね。あそこは霧のおかげで上空から発見される心配はない。安全な避難場所だ。いくつも川が流れているから飲み水の心配もないし、食料や薬や毛布も森のあちこちに備蓄してある。レディ・マリエルが〈天の民〉の来襲を予言なさった時から、着々と準備を進めてきたんだ。ヨモギだってすごい量だったろう?」
「ええ。驚きました」
普段は干ばつや洪水などに備えて食糧などを備蓄する為の倉庫の中は、天井近くまでうず高く積まれたヨモギ(とそれに混じっている他の野草)のせいで足の踏み場もない状態だった。その中で、半ば埋もれるような恰好で人々は黙々と選別作業をしていた。
まさに圧巻だった。
あれでもほとんど仕分けし終わっているのだという。一日二日で集められる量ではない。クレメンツはかなり前から周到に準備をしてきたのだ。
レディ・マリエルが予言した時から。
聖王の援軍はないとわかった時から。
「ほんとにすごい領主様ですね、クレメンツ公って」
「だろ?」
まるで自分が褒められたかのように、ソーンは破顔した。
「クレメンツ公は領民に人気があるんだ。大臣や上の身分の方々は、公は若いし頼りないし、何より母君の身分が低すぎると陰口を叩いているがね。姉君のグラディア様の母君……つまり先代の公妃が遠戚ながら聖王家の血筋に連なる御方だったから、よけいに。グラディア様はクレメンツ公の味方だが、姉だから贔屓目で見ているのだろうと言われてしまう。だが、クレメンツ公が領民に絶大な人気があるものだから、大臣たちも表立っては何も言えやしないのさ。クレメンツ公が領民の信頼を得るきっかけを作ったのが、レディ・マリエルだ」
「洪水を予言したんですよね」
ソーンは頷いた。
「あれは本当に見事だった。君は、ひどい旱の最中にもうすぐ洪水が起こると言われて信じるかい? それも、予言者といっても当時は全く無名の、しかも初対面の人間に。他に、彼女のように洪水の予言をした予言者は一人もいなかったのに。だが、クレメンツ公はお信じになった。家臣たちを始め、いつもは味方するグラディア様でさえ反対したというのに、彼らの反対を押し切ってセヒア村の村人たちを避難させた。村人たちも渋々避難したそうだ。畑仕事が忙しい時期だったからね」
しかし、本当に洪水は起こった。
百年に一度あるかないかというほどの大洪水だった。
「その年の作物は全滅したが、一緒に避難させていた家畜は無傷で残った。おかげで、村人たちは無事に冬を越す事が出来た。さらに、クレメンツ公はセヒア村のその年の税と労役まで免除なさったんだ。村人たちは、クレメンツ公とレディ・マリエルをまるで神様みたいに崇めているよ」
ソーンはちょっと肩をすくめて見せた。
「ノノ=アルコもセヒア村の出身でね。おかげで彼の両親と三人の弟妹は今でも息災だ。彼がレディ・マリエルを信じて疑わないのはそのせいさ。それまで露骨にクレメンツ公を見下していた大臣たちも、公をないがしろには出来なくなった」
しかし、それでも、未だに言葉の端々や目つきや態度にクレメンツに対する侮蔑が垣間見える。もし、マリエルが若くも美しくもない醜い老婆であったなら、クレメンツは彼女の言葉に耳を傾けたりしなかったろう、彼女の美貌に惑わされただけだと中傷する者すらいた。
聡いクレメンツがそれを知らないはずがない。
毒針のような心ない誹謗中傷を浴びながら、それでも懸命に良き領主たらんとするクレメンツの姿に、ソーンは畏敬の念を抱かずにはいられない。少しでも彼の助けになりたいと思うのだ。彼のような良き主君に仕える事こそが、まさに騎士の本懐ではないか?
「アルコさんと言えば………」
と、カナンはふと思い出したように尋ねた。
「あれからずっと会えてないんですけど、彼の怪我の具合は大丈夫なんですか?」
「ああ。命に別状はないよ。ただ、今回の戦にはとても参戦できる状態じゃない。本人はそれをとても悔しがってね、大丈夫だから自分も戦うと言い張って大変だったよ。最後はレディ・マリエルが何とか宥めて下さったけれどもね。あの方のお言葉なら、アルコも素直に従うから」
「そうですか」
カナンはほっと安堵の息を漏らした。
薬師という職業柄、ひと目見ればだいたい傷の程度は即断出来る。あの出血量からしてアルコの怪我は相当ひどかったはずだ。今回アルコが剣を持たずに済むというのは、カナンにとっては朗報だった。
本人にとっては不本意だろうが。
「スヴェアさんも、レディ・マリエルを無条件に信じていますよね」
でなければ、初対面の十五才の少年に向かって「お前は国の命運を握る鍵だ」などと、正気を疑うような台詞を大真面目に言うはずがない。
ソーンは苦笑した。
「サザー部隊長がレディ・マリエルに心酔しているのは、彼女が美人だからさ」
「そんな………わかりやす過ぎませんか?」
「本人がそう言ったんだ。ひと目惚れだそうだよ。『見た瞬間にわかった。俺はあの方の為に存在するのだと。それ以外、何ひとつ意味はない』ってね。あんな歯が浮くような台詞、よくもまあ恥ずかしげもなく言い放てるものだよ。聞いたこっちの方が赤面してしまった」
カナンは苦笑した。
出会ってまだほんの数日だが、いかにもあの大男らしい。
「スヴェアさんともずっと会ってないんですけど、やっぱりあの人も戦の準備で忙しいんですか?」
「ああ。正規の兵士じゃない連中……農民や商人たちに剣や弩を教えているよ。自分も戦いたいという者が多くてね。領都の住人だけじゃなく、国中のあちらこちらから志願兵が続々と集まって来ているんだ。特に、セヒア村からは、老人と子供以外の全ての男たちが薪割り斧や牧草を刈る鉈まで持参してやって来た。クレメンツ公とレディ・マリエルに恩返しがしたいと言ってね。正規の騎士や兵士だけじゃ全然兵の数が足りないから、とても助かってはいる」
長弓とは違い、弩は少し訓練すればすぐにそれなりには扱えるようになれるという利点がある。むろん、飛距離も短時間で発射出来る矢の数も長弓とは比べ物にはならないが、それでもあるに越した事はない。
剣に関しては………ソーンが訓練の様子を見る限り、ないよりはましといった程度だった。
彼らの勇気と忠誠心には感嘆を禁じえないが、軍に属する者として戦の現実を知るソーンには、彼らの悲惨な最期が容易に想像出来てしまう。
ましてや、相手はあの空中砦と槍騎兵部隊なのだ。果たして何人が生きて故郷の土を踏めるのだろうか?
「サザー部隊長は剣もかなりの腕だが、実は弓も得意なんだよ。彼の長弓はあまりに弦が強すぎて、他の者には引けないんだ。三年前まで毎年王都で行なわれていた聖王陛下主催の武術大会で優勝した事もある。『俺は剣の方が性に合う』とか言って、弓はほとんど扱ってないくせに、腕は全く落ちないんだ」
「ほんとですか? すごいなぁ」
カナンは素直に感心した。
「スヴェアさんて、何でも上手にこなすんですね」
「本人は器用貧乏とか言っているけどね。素人連中相手に教官をやらされて、面倒臭がっていたよ」
ソーンはカナンに向かってピッと人差し指を立てた。
「言っておくが、レディ・マリエルのどこに惚れたかなんて事、間違っても部隊長に尋ねるなよ。延々とノロケを聞かされるハメになるからな」
「一体誰のノロケかな? 麗しの宰相殿のノロケなら、私も喜んで参加するよ」
妙に軽い口調の声が割って入ってきた。
ソーンははっと姿勢を正した。
「これは………アニガン卿。まだ領主館にご滞在とは、存じ上げませんでした」
声の主は、容姿も衣装も派手な若い貴族だった。おそらくクレメンツと同い年くらいだろう。尾花栗毛の駿馬のように栗色と金色が混じり合った明るい色の髪を房がついた飾り紐でひとつにくくり、繊細なレース織りの襟を大きな黄玉のピンで留めた絹のシャツの上に、虹色の貝ボタンが煌びやかな杏色の上着を着ている。腰の長剣は実用的とは程遠い派手な彫刻と宝玉で飾り立てられ、爪先の尖った洒落た靴はぴかぴかだ。緑色の瞳は明るく愉快げで、鼻筋の通った端正な顔はいかにも育ちの良い青年貴族といった印象である。
アニガンは芝居がかった大仰な仕種で悲しげに頭を振った。
「おやおや。皆で私をここから追い出そうとするのだね。会う者ほぼ全員にそう言われる。悲しいねえ」
ソーンは口ごもった。
「いえ、そのようなつもりは………ただ、間もなくここは戦場になりますゆえ、ご避難頂いた方がよろしいかと………」
「気遣いはありがたいが、それで逃げ出しては貴族の名折れだよ。それに、こう見えても私は頑丈でね、剣で切られたくらいではそうそう死んだりしない」
いやそれは………どうだろうか?
どう見ても武芸の方はあまり得意そうには見えない着飾った青年貴族に、カナンとソーンはほぼ同時にそう思った。
アニガンはカナンに視線を移した。
「君がカナン=カナカレデスかい?」
初対面のはずの相手からいきなりフルネームで呼ばれ、カナンは驚いた。
「は、はい。そうですけど………どうして僕の名前を?」
「領主館の中を歩いていると、いろいろ噂が耳に入ってくるのだよ。レディ・マリエルが予言した者が見つかった、とかね。しかし、本当に若いな。年はいくつ?」
カナンはやや俯き加減に答えた。
「…………十五才です」
多分悪気はないのだろうが、アニガンは屈託のない笑顔で言った。
「十五才? もっと年下かと思っていたよ。可愛い顔をしているね、君。さぞや女の子にもてる事だろう。………ああ失礼、挨拶がまだだったね。私はアーサー=フラー=アニガン卿。どうぞよろしく、カナン=カナカレデス」
まるで貴族を相手にしているかのように、アニガンは優雅な仕種で右手を胸に当てて挨拶した。
カナンは慌てて頭を下げた。
「こちらこそ。お目にかかれて光栄です、アニガン卿」
「そんな堅苦しい。アーサーでいいよ。敬語も不要だ」
誰かさんと同じような事を言う。
「いえ、そういうわけには………」
「かの有名な七賢者の末裔に会えるなんて、こちらこそ光栄だ。ところで、何故『ベルー』と名乗らないのかい? 偉大なお祖父様の姓なのに」
「! それは………」
カナンははっと怯んだ。
「その………生まれた時からずっと『カナカレデス』だったので………」
アニガンは小首をかしげた。
「ふうん。そういうものかねぇ」
山奥の寒村でひっそりと暮らすただの薬師だった祖父の名は、彼がかつて七賢者と呼ばれ、英雄と讃えられていたという事実を知った今、カナンにとって意味が変わってしまっていた。
深く、重いものへと。
祖父が成した功績について何ひとつ知らなかったのに、そんな自分が偉大な英雄だった祖父の名を……『ベルー』を名乗っても良いのだろうか?
果たして、そんな資格が自分にあるのだろうか?
分不相応なのでは?
カナンはそう思ってしまうのだ。
今まで通り、「カナカレデス」のままの方がいい、と。
「申し訳ございませんが、アニガン卿」
二人の間に割って入るかのように、ソーンが言った。
「我々はまだ作業が残っておりますので………」
「ああ、そうか。そうだね。誰も彼もが忙しそうだ。それでは失礼するよ」
アニガンはあっさり頷くと、現れた時と同様飄々とした足取りで去っていった。
心なしかほっとしたような顔をして、カナンは尋ねた。
「あの方もガラハイド国の人なんですか?」
それにしては緊張感のかけらもないような気がするが。
ソーンは頭を横に振った。
「いいや。トリーシャ国の貴族だ。正確には准貴族だが」
「准貴族?」
ソーンは、怪訝そうな顔で聞き返してきたカナンの顔を凝視した。
七賢者を知らなかった事といい、本当に知識が偏った少年だ。スヴェアの言ではないが、本当に〈地の民〉なのかと疑いたくなってしまう。
いかにこの世の果てのような山奥の寒村で暮らしていたとはいえ、何故ワクトーはこんな当たり前の事を孫にきちんと教えてやらなかったのだろう?
内心そう思いつつ、ソーンは再び歩き出しながら説明した。
「貴族には二種類あるんだ。正貴族と准貴族。正貴族は、さっき君も言ったように、初代聖王陛下に仕えた四十四人の騎士の子孫で、領地……つまり国を統治する所謂『領主』と呼ばれる方々の事だ。敬称は『公』。クレメンツ公や、プレストウィック国のアリダール公がこれにあたる。正妻は『公妃』。子供は、男なら『公子』、女なら『公女』と呼ばれる。それに対して、領地を持たない貴族が准貴族だ。彼らは主に正貴族に……領主に仕えている。大臣として政治に携わったり、騎士として領主を護ったり。中には、商人のように商売で財を成した変わり種もいる。こちらの敬称は『卿』。七賢者のホーデンクノス卿や、さっきのアニガン卿も准貴族だ。正妻は『卿夫人』と呼ばれるが、子供には特に決まった呼称はない。ただ、男は当主じゃなくても『卿』を付けるのが慣例だ。アニガン卿も、今はまだ彼の父親がアニガン家の当主だしね。あと、正貴族は敬称を名に付けるが、准貴族は姓の方に付けるから気を付けて。クレメンツ公をガラハイド公とは呼ばないし、アニガン卿もアーサー卿とは呼ばない」
カナンは顔をしかめた。
「何だかややこしいですね」
「大丈夫。すぐに慣れるさ。それに、普段はひっくるめて単に『貴族』と言っているしね。名前をふたつ持っているのは貴族の証しだが、正貴族か准貴族かどちらかわからない時は『閣下』と呼べばいい。それなら無礼にはならない」
「相手が女の人の場合も?」
ソーンは盛大に吹き出した。
「そんなわけないだろ。その時は『|レディ』だ。貴族女性に向かって『閣下』なんて言ったら、護衛の騎士にぶん殴られるぞ。『レディ』という呼称は他とはちょっと違っていて、貴族女性全般に対する敬称であると同時に、女性だけに与えられる貴族に準ずる身分の称号でもあるんだ。レディ・マリエルみたいにね。彼女は平民の出だが、クレメンツ公に『貴婦人』の称号を与えられ、貴族に準ずる身分となった」
「わかりました」
カナンは大真面目に頷いた。
今聞いた事を全部覚えられるだろうかと思いながら。
「よその国の貴族のアニガン卿が、どうしてガラハイド国に? トリーシャ国ってガラハイド国に近いんですか?」
「いいや。かなり遠方だ。馬を使っても何ヶ月もかかる」
カナンは首をかしげた。
一度も乗った事のない馬を例にされても全くピンと来なかったが、取り敢えずものすごく遠い事だけはわかった。
「そんな遠い国の方が、どうして?」
「彼は宰相殿に求婚なさっているんだ」
「求婚?」
「正確には、求婚者のうちの一人。確か十六人目だったかな」
「十六人!?」
カナンは目を丸くした。
「宰相殿って、クレメンツ公のお姉さんのグラディア様の事ですよね? どうしてそんなにたくさん求婚する人がいるんですか? レディ・マリエルみたいにすごく綺麗な方だとか?」
ソーンは苦笑した。
「確かに綺麗だよ。それに頭脳明晰で有能な御方だ。なんたって一国の宰相を務めておられるくらいだからね。さっきも言った通り、母君は聖王家に繋がる御方だったから、血筋も申し分ない。そのせいもあって、求婚者が後を絶たないんだ。だけど、肝心の宰相殿ご自身が断り続けるものだから、いつの間にかそんな人数になってしまったのさ」
「断り続けるって………どうして?」
「領主である弟君より先に結婚するのは憚られると仰ってね。だが、クレメンツ公はクレメンツ公で、姉上を差し置いて自分が先に公妃を娶るのは気が咎めると仰る」
「…………その論法でいくと、二人とも永遠に結婚できないんじゃあ………」
「全くだ。とにかく、ほとんどの求婚者が諦めて帰ってしまったなか、アニガン卿だけは未だに粘っているんだ。歯が浮くような美辞麗句を書き連ねた情熱的な詩や熱烈な恋文を何十通も送ったり、部屋に入りきれないほどの豪華な贈り物をしたり。あの熱心さには敬服するよ」
領地を持たぬ准貴族ながら、アニガン家は裕福だった。トリーシャ国のベステール湖でしか採れない珍しい貝を使った装身具で莫大な財を成したのだ。アニガンの衣装に付いていた虹色の貝ボタンがそうだ。あれひとつでソーンの給料の一ヶ月分する。
カナンは、アニガンが立ち去った方角に視線をやった。
「アニガン卿って、ちっとも威張ってなくて感じのいい方ですね」
「ああ。俺みたいな平民出の騎士にも気さくに声をかけて下さるし。でも、何故かあの方と話すと………疲れるよ」
しみじみと言うソーンに、カナンは笑った。
最後まで読んで下さいまして、ありがとうございました。
作者一番のお気に入りキャラ、アニガン卿がやっと登場です。
彼のような飄々とした捉えどころのないキャラを書くのはとても楽しいです。
少々、サブタイ詐欺となっておりますが、次回(2)でちゃんと男装の麗人が登場しますので、どうかご容赦を(笑)。
ではまた。