第二章 降り注ぐ刃
第二章 降り注ぐ刃
ハネストウの薬屋を後にしたカナンとエイデンは、店の外に群がっていた野次馬に紛れるようにして足早にその場を離れた。民衆の前で恥をかかされた役人がこのまま彼らを見逃すはずもないからだ。
案の定、後方で役人のものと思しき喚き声が聞こえ、二人は薄暗く汚れた狭い路地に入って追手の目をやりすごした。
「少し先に馬を待たせてある。暗くなるのを待って領都を出る」
「う、馬ですか?」
通りに目を配りつつそう告げたエイデンに、カナンはうろたえて聞き返した。
「あの、実は僕……馬に乗った事がないんですけど………」
エイデンは驚いて振り返った。
「乗った事がない? 一度も? では、今までどうやって旅を?」
「その………歩いて………」
「徒歩でギズサ山脈を越えたというのか?」
問い返す口調は驚くというより呆れ返っていた。
「だが………それではかなりの日数がかかったろう?」
「ええまあ………。でも二十日とちょっとくらいでしたよ? 普段から薬草を採りに何日も山の中を歩き回ってたし、シエル村の周辺は沼や深い森ばかりで馬なんか使えないし………」
言い訳がましく説明をするカナンに、エイデンは溜め息をついた。「今どき馬に乗った事がない十五才がいようとは」とでもいうふうに。
エイデンの反応は尤もだった。〈地の民〉にとって馬は主要な移動手段だからだ。平民や農民など身分の低い者でも、読み書きは出来なくても馬に乗る事は出来るのが普通だ。貧しくて自身では馬を飼えない者は、必要な時だけ貸し馬屋で馬を借りる。一緒に馬具や馬車や荷車を借りる事もある。
客に困る事のない貸し馬屋は、鍛冶屋や肉屋と同じくらい手堅い商売だ。
「乗れないのならば仕方がない。私の後ろに乗るといい」
「すみません」
「謝る必要はない」
「あの、ところで………」
カナンは言いにくそうに続けた。
「別に疑うわけじゃないんですけど……さっきも助けてくれたし……でも、あなたは本当にじいちゃんの友達なんですか?」
カナンが祖父と二人で暮らしていたシエル村は、頂きを万年雪と氷河に覆われ、谷と麓は深い森と暗く冷たい沼がどこまでも続くギズサ山脈の奥地にひっそりと佇む小さな村だった。大昔には水晶の鉱山があり、鉱夫も大勢いたという話だが、鉱脈が尽きてしまった現在ではそんな面影など微塵もない。あまりに山奥すぎて、旅人はおろか行商人ですら滅多に立ち寄らない、忘れ去られたような村。
カナンの祖父ワクトー=ベルーは、村でたった一人の薬師だった。
薬師とは、薬草で病人や怪我人を癒す事を生業とする者の事である。薬屋を営んでいるハネストウも薬師だ。
シエル村のような僻地の寒村や農村では、正規の医師などいない事が多い。例えいたとしても、貧しい平民や農民にはとても診察料は支払えない。医師の診察料は、裕福な商人や貴族にしか支払えないほど高額なのだ。
その医師の代わりの役目を担っているのが薬師だった。庶民の生活に薬師は欠かせない存在だ。
そして、ワクトーは、人が暮らすには貧しく厳しすぎる環境ゆえに出て行く者はいてもやって来る者はないシエル村において、唯一外から来て住み着いた住人でもあった。
だが、それとて何十年も昔の話で、若い村人たちは彼が外の出身だという事自体、知らない者も多かった。
本来、シエル村も他の例に漏れずよそ者には冷たい閉鎖的な村だったが、ワクトーは薬草に関する知識の豊富さのおかげで村人たちから歓迎され、また頼りにされた。村の女と結婚し、娘をもうけ、その娘もまた村の若者と結婚してカナンが生まれた。
娘夫婦が雪崩に巻き込まれて死んだ後は、孫のカナンと二人で暮らしていた。
ワクトーが死ぬ六ヶ月前までは。
享年八十三才。
七十才を超える者など滅多にいない〈地の民〉としては、稀に見る大往生だった。
祖父の葬儀の後、カナンは生まれ育ったシエル村を出た。
「確かに、じいちゃんは昔の話はしない方だったけど、エイデンさんの名前は一度も聞いた事がありません。それに、じいちゃんはただの薬師で、あなたみたいな剣を扱う知り合いがいるとは思えなくて………」
エイデンは夜の色をした目を伏せた。
「…………ただの薬師、か………」
「え?」
訝しげに聞き返したカナンに、エイデンは無言のまま一通の手紙を差し出した。
ごわごわした目の粗い便箋にしたためられた手紙は何度も読み返されたらしく、縁は折れ無数に皺が寄っていた。
カナンは目をみはった。
見覚えのある筆跡だった。少し右に傾いた、癖のある独特の文字。
「親愛なる友よ。
突然、このような手紙を送って申し訳なく思っている。だが、私には他に頼れる者がいないのだ。
長患いのせいで私はもはや長くない。その事自体は苦ではない。私は十分過ぎるほど生きた。長すぎたくらいだ。
ただひとつだけ、私が死んだ後、一人残される孫の身が心配でならない。村長が例の水晶の首飾りを欲しがっているのだ。ずっと断ってきたが、私がいなくなれば孫から無理矢理取り上げようとするだろう。
だが、あなたも知っての通り、他人があれに触れると大変な事になる。村長の怒りを買ってしまうに違いない。だから、あなたに孫の面倒を頼みたいのだ。
孫の名はカナン。娘婿の姓カナカレデスを名乗っている。
今さら身勝手な頼みだが、どうか是非とも引き受けてくれないだろうか?
出来ればもう一度あなたに会い、あの頃の思い出話をしたかった。
あなたの永遠の友
ワクトー=ベルー」
「………じいちゃん………」
こんな手紙、いつの間に出していたのだろう? 全然知らなかった。
自分が死んだ後の事まで、ちゃんと考えてくれていたんだ。
目尻に涙を滲ませるカナンを眺めながら、エイデンは淡々と説明した。
「手紙が私のもとへ届くのに時間がかかってしまったのだ。受け取ってすぐシエルへ向かったが、君はすでに村を出た後だった」
「それで、その後ずっと僕を探してくれていたんですか?」
「そうだ」
「でも………大変だったでしょう?」
シエル村から出る山道は一本しかないが、途中でいくつもの道に分かれている。ギズサ山脈の外へと出られる道ももちろんあるが、行き止まりだったり、崖崩れで塞がったまま放置されそれ以上先へは進めなかったり、水晶の鉱山の廃坑に出てしまう道もあった。熊や狼など、危険な獣に出くわしてしまう可能性も高い。
そして、カナンがどの道を通ったかなど、当然ながらエイデンが知るはずがない。
「確かに、最初は君とは違う道を辿ってしまい、見当外れの国々を探していたが………長い期間、人を探した経験は過去にもある。大した事ではない」
あっさりと言うエイデンに、カナンは感心を通り越して呆れてしまった。
この広大な大地で、どこへ向かったのかも全くわからぬたった一人の人間を……しかも名前だけで顔も知らない人間を探し回るなどと。
義理堅いというか何というか。
それだけ祖父とこの黒衣の男は親しかったという事なのだろうか?
だが、ではどうしてワクトーはエイデンの事をカナンに言わなかったのだろう? 手紙には確かに「親愛なる友」「あなたの永遠の友」と書いているのに。
エイデンに手紙を出した事自体、ワクトーはカナンには黙っていた。
そもそも、祖父にシエル村の外に「友」と呼べる人物がいたとは。カナンの記憶にある限り、祖父が村の外の事を話題にした事は一度もなかった。
まるで、一年の半分を雪と氷に閉ざされるあの小さな村の中だけが、祖父の世界の全てであるかのように。
あれこれ考え込むカナンの心の内を見透かしたように、エイデンは言った。
「突然、亡くなった祖父の古い友人だなどと言われても困惑するだろうが………。友の臨終を看取るのは私の義務だ。ワクトーは、私にとって恩義ある大切な友だった。それなのに、臨終にも葬儀にさえも間に合わなかったのが悔やまれてならない。だから、せめて彼の最期の頼みくらいは叶えなければと思ったのだ」
エイデンは表情を和らげた。
「君はワクトーによく似ている。面差しや声や喋り方、雰囲気も。まるで彼と話しているようだ。薬屋で君を始めて見た時は、本当に驚いた」
カナンははにかんだ笑みを浮かべた。
「ほんとですか? じいちゃんに似てるって言われたの、初めてです。母さんに似てるとは、よく言われたけど」
母親似と言われるのはあまり嬉しくはなかった。要するに女の子のような顔立ちだという事だから。容姿に加え小柄なせいもあって、先ほどのクリッティのように「可愛い」と言われた事も、実は一度や二度ではない。
五才の幼児ならともかく、十五才にもなってまだそう言われるのには抵抗があるし、悲しくなってしまう。
「薬草の事もワクトーに教わったのか?」
「はい。他にもいろいろ。手に職をつけておけば、食べていくのに困らないからって。結構厳しくって、ときどき嫌になって喧嘩もしたけど、でも………」
カナンは感慨深げに続けた。
「………じいちゃんは正しかった」
もし、祖父に薬草の知識を学んでいなかったら、何の身寄りもつてもない十五才の自分が自活するなど不可能だった。あの欲深くて高慢ちきな村長にたったひとつの祖父の形見である水晶の首飾りを奪われ、下手をすれば財産も何もかも取り上げられてしまったかもしれない。
シエル村を出る決心がついたのも、薬師としてやっていけるだけの自信があったからだ。
尤も、今はこうして役人に追われる羽目になっているが。
このプレストウィック国に流れ着き、ハネストウの薬屋で働くようになって二ヶ月余り………やっと落ち着けたと思ったのに。
死んだじいちゃんも、墓の下で安堵してくれているに違いないと思っていたのに。
それが、こんなにもあっさりと壊れてしまうなんて。
現実は………「外」の世界は厳しい。
カナンは手紙に視線を戻した。
「この、『他人が首飾りに触れると大変な事になる』って、どういう意味ですか?」
エイデンはカナンの顔を凝視した。
「ワクトーからは何も聞いていないのか?」
カナンは頭を横に振った。
「ほとんど何も。ずっと昔、大切な友達から貰った物だって事だけ。………あ、もしかして、それがあなたですか?」
エイデンは不可解な笑みを閃かせた。
「いや、私ではない。私はアリアンテには触われない」
「アリアンテ?」
「その首飾りの名称だ。『雪の水晶』という意味だ」
エイデンは顎をしゃくって、カナンの服の下に隠れて見えない水晶の首飾りを示した。
「それは持ち主を守る。持ち主以外の者は触われない。つまり、今は君以外の者は。もし、他の者が触れれば、身に痛みが走るだろう。痛みの程度は人によって様々だが、ひどい者は触れた途端昏倒してしまう」
「そんな力が、この首飾りに………?」
そんな話、祖父から聞いた事もなかった。細工が素晴らしいだけの水晶の首飾りだとしか思っていなかった。
ワクトーはいつも肌身離さず……それこそ眠る時ですら……この首飾りを身に付けていた。服の下から取り出して、じっと懐かしげに………そして、どこか悲しげに眺めている事がよくあった。だんだんと病が重くなっていくにつれ、その回数は増えていった。よほど大切な人から貰った思い出深い首飾りなのだろうと、カナンは思ったものだ。
臨終の間際、ワクトーは初めて首からアリアンテを外し、カナンに手渡した。
「たった今からこれはお前の物だ、カナン。欲しがる者が現われても、決して譲ってはいけない。わしがやっていたように、常に服の下に隠して、誰の目にも触れさせてはいけない。これにわしの魂が宿っていると思って、どうか大事にしておくれ」
それが、祖父の遺言となった。
以来、カナンはその遺言を守ってきた。
そのつもりだった。
ハネストウに見られていたなんて、全然気づかなかった。
もし、見られていなかったら、ハネストウもあんな事はしなかったのだろうか?
陽気で、親切で、家族思いのいい人だと思っていたのに。
いい人に雇ってもらえたと、思っていたのに。
「あなたじゃないなら、じいちゃんはこれを誰から貰ったんですか?」
「それは………」
答えかけたエイデンは、突然、短剣を抜くと背後に向かって投げた。
壁に刺さった短剣をぎりぎりでかわし、唇を不敵な笑みの形に歪めて、物陰から現れた男は軽口めいた口調で言った。
「……っぶねえなあ。単なる通りすがりだったらどうするんだよ?」
長身のエイデンよりもさらに背の高い、非常に鍛え上げられた体躯の持ち主だった。日焼けした顔は人懐こい感じがするが、色素の薄い両眼にはどこかしら油断のならない鋭い光が潜んでいる。癖のあるくすんだ金髪を短く刈り、ごく普通の麻の衣装を着て、革のベルトに長剣を吊るしている。首には、剣を生業とする者がよく身に付ける小さな赤瑪瑙の護符を下げている。
流れ者の傭兵か、場末の酒場の用心棒といった風体だ。
彼の後ろにはさらに二人、体格ははるかに劣るが似たような恰好の男たちがいた。
エイデンは真正面から大男を見据えた。
「何故、我々を尾行る? 薬屋を出てからずっと」
「え?」
カナンは驚いて男たちを見た。
まさか気付かれているとは思っていなかったらしく、驚いていたのは彼らも同様だった。
エイデンの短剣をかわした大男が言った。
「さすがだな。薬屋での立ち回りもすごかった。感心したぜ。………おっと、名前も名乗らないのは失礼だな。俺はスヴェア=サザー。後ろの二人はノノ=アルコとアダル=ソーン。ちょいとあんたらに用があるんだが」
「お前たちもカナンの首飾りが目当てか?」
スヴェアは片手で頭の後ろを掻いた。
「うーん、どうだかなあ。実は俺にもよくわからんのだが。連れて来いとしか言われてないんでね」
「部隊長………それじゃ説明になっていませんよ」
アルコが呆れ顔で言う。
カナンは内心で首をかしげた。
部隊長?
「部隊長」とは、確か軍か何かの階級ではなかったろうか?
エイデンは無表情に言い放った。
「得体の知れぬ者に付き合うつもりはない」
「あんたがそれを言うのかよ? 自分だって十分怪しい格好しているくせに」
「軽口に付き合うつもりもない。………行こう、カナン」
唐突にスヴェアの口調が変わった。
「…………行かせないと言ったら、どうする?」
エイデンはゆっくりと振り返り、スヴェアの手に握られた長剣を一瞥した。
睨み合う両者の頭上に、また「太陽の涙」が音もなく降り始める。
エイデンは静かだが凄みのある声で言った。
「立ちはだかる障害は排除する」
スヴェアは舌舐めずりする猛獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
「大した自信だ。お手並み拝見といこうじゃないか。剣を抜けよ。それとも腰のそれはお飾りか?」
エイデンは冷やかに言い放った。
「必要ない」
スヴェアは頬を引き攣らせた。
「………ずいぶんとナメられたもんだぜ」
剣を構えたスヴェアに、慌てたのはアルコとソーンだった。
「部隊長……!? いきなりそれはまずいんじゃ……っ」
「何ムキになってるんですか!」
「うるせえ! お前らは手出しするなよ!」
言い捨てざま、スヴェアは烈風のごとく黒衣の男に襲いかかった。
エイデンは軽々とよけた。
狭い路地にもかかわらず、流れ下る水のようにその動きはよどみない。エイデンの身体はおろか腰まで届く長い黒髪の先端にすら刃を触れる事が出来ず、スヴェアは苛立って歯がみした。
「この…っ! ちょろちょろと……っ!」
スルッと背後に回り込んだエイデンに、振り向きざま剣を真横に払う。
鋭い金属音が響き、エイデンはいつの間にやら壁から引き抜いていた短剣でスヴェアの鋭い一撃を受け止めていた。
激しく軋む鋼の十字を挟んで両者は睨み合った。スヴェアはギリギリと歯を食いしばり、エイデンは表情ひとつ変えぬまま。
生まれて初めて間近に見る剣戟に、カナンは言葉をなくし呆然と突っ立っている。
見かねたアルコが叫んだ。
「部隊長! もうやめて下さい! 彼と戦えなどという命令は受けてないでしょう!」
「うるせえ! 引っ込んでろ!」
アルコは、すっかり頭に血が昇ってしまっているスヴェアから黒衣の男に視線を移した。
「あなたも剣を収めて下さい!」
エイデンはスヴェアを見据えたまま言った。
「それはこの男に言え」
「我々は『約束の予言』を知っています!」
アルコがそう言った瞬間、エイデンの表情が劇的に変わったのを、カナンは見た。
片手で短剣を支えたまま、エイデンはアルコを見やった。
「………本当か?」
「本当です。そうあなたに伝えるよう言われました。あなたと争うつもりは毛頭ない。部隊長もいい加減にして下さい。物音をプレストウィック国の役人に聞きつけられたらどうするんですか!」
「………くそったれが」
スヴェアは舌打ちすると、渋々といった体で剣を引っ込めた。忌々しげにアルコを睨みつける。
「よくも邪魔しやがったな。いいところだったのに」
「一体、どこが『いいところ』だったというんですか」
アルコは苦い溜息をついた。
「ちゃんと仕事して下さい。全く、ちょっと強い相手となるとすぐこれなんだから」
「小言ばかりほざくな。小姑かお前は」
エイデンは短剣を鞘に戻した。
「では、その『約束の予言』を聞こう」
ついさっきまで……かなり本気で……死闘を繰り広げていた事など嘘のような、淡々とした口調だった。息も全く乱れていない。
そのあまりのマイペースぶりに、カナンは呆れてしまった。
きっと、この黒衣の男は、酔っ払いが派手に殴り合いをしている傍らでも一人悠然と酒杯を傾けているに違いない。
まだ不機嫌な口調のままスヴェアが言った。
「あんたに件の予言を聞かせるのは俺たちじゃない」
「では誰だ?」
「ガラハイド国の予言者レディ・マリエル=サンデバルト様だ」
カナンは目をみひらいた。
「ガラハイド? それじゃあ、あなたたちはガラハイド国の人なんですか?」
「ああ。今は私服だからそうは見えないかもしれないが、これでも俺たちはれっきとした正規の騎士なんだぜ?」
にやっと笑ってスヴェアが言う。
例え騎士の制服を着ていてもそうは見えなさそうな笑みだった。
エイデンは疑わしげに眉をひそめた。
「その予言者の名は聞いた事がある。だが、では彼女は『約束の予言』を聞かせる為だけに、わざわざ敵対国まで私を捜しに行かせたというのか? 領主の騎士を使って?」
スヴェアは頭を横に振った。
「ちょっと違う。期待に添えなくて悪いが、あんたはおまけだ。本命はそっちの坊主の方。彼はガラハイド国の命運を握る重要な『鍵』なんだと」
「僕が!?」
いきなり話を向けられたカナンは、驚いて思わず声を上げた。
「まさか! 僕はただの薬師です! そんな一国の命運なんて……っ」
「レディ・マリエルの予言は絶対に外れないんだよ」
反論するカナンに、大真面目な顔でスヴェアが言う。頭からその予言者を信じて疑わない様子だった。
他の二人もそうだ。
「でも……っ! それ、本当に僕の事なんですか? 人違いしてるんじゃあ………」
スヴェアは「往生際の悪い坊主だ」と言わんばかりに顔をしかめた。
「間違いない。背格好も人相も、全てレディ・マリエルの予言通りだ。それこそ気味が悪いくらいにな。すぐにわかった」
ソーンが後を継いで続けた。
「レディ・マリエルはこうも言われました。しかし少年だけではだめだ、と。少年のもとを……」
カナンを見やり、
「つまり君だが……『暗闇』が訪れる。その者は闇でありながら光でもある。『暗闇』が現れるまで、決して少年に声をかけてはならない、と。だから、我々はその『暗闇』が現れるまで君を監視していたんだ」
カナンは息を飲んだ。
ここ数日感じていた視線は、彼らだったのか。
『暗闇』とやらの出現を待つのはいいが、その前に〈天の民〉がやって来たらどうするのだと心配するスヴェアに、レディ・マリエルは強い調子で告げた。
「必ず待つのです。いいですね? スヴェア=サザー。順番を間違えてはいけません。かの者のもとに『暗闇』が現れた後でなければ、わたくしの予言は意味を失います。せっかく見えた光明も消えてしまう」
スヴェアは肩をすくめた。
「………で、現れたのがあんたというわけだ。まあ、見るからに『暗闇』っぽいしな」
上から下まで黒づくめのエイデンを眺め回しながら言う。
アルコが言った。
「『約束の予言』と言えば、あなたは必ず我々に同行する事を承知するとも、レディ・マリエルは仰いました。その予言の内容については、我々は一切知りません。ガラハイド国で、レディ・マリエルご本人がお伝え下さいます」
「つまり、『約束の予言』が欲しければ、ガラハイドへ行くしかないと?」
「そうなります」
エイデンは皮肉めいた笑みを刻んだ。
「………なるほど。いつの時代も、予言者とは抜け目のない連中だな」
「それは、我々と同行する事を承知したと受け取っていいのか?」
低く呟くエイデンに、スヴェアが確認するように聞き返す。
それには答えず、エイデンはカナンに視線を向けた。
「君はどうする? 予言されたからと言って、君がそれに従って行動しなければならないという道理はない。選択肢は常に君の手の中にある」
「そんな事言われても………」
カナンは困惑して、エイデンからスヴェアたちに視線を移した。
ガラハイド国の命運を握る『鍵』?
この僕が?
まさか!
剣を握った事も馬に乗った事もない自分に、一体何が出来るというのだ? いきなり現われて、剣で切り合いまで演じて、そんな無茶苦茶な話を大真面目に言われても………
それに、真顔で「どうする?」などと聞いてくるエイデンも、どうかしている。
でも………
カナンはそっと唇を噛んだ。
でも、もう|プレストウィック国には………ハネストウの薬屋にはいられない事だけは確かだった。あの役人が自分に逆らったカナンを………そして水晶の首飾りを諦めるとは、到底思えない。血に飢えた猟犬のように、どこまでもしつこく追って来るだろう。
カナン一人だけでは、たちまち捕まってしまうに違いない。
そして、領主の命に逆らった自分がどんな目に遭わされるか………あの時は威張りくさった役人や身勝手なハネストウに憤慨して毅然と拒んだが、自分がした事の重大さにカナンは今さらながら身震いした。
しかし、だからと言って、スヴェアたちについて行っても良いものだろうか?
もっと厄介な事になりはしないか?
何だってこんな事態になってしまったのか。
ほんの少し前まで、自分は普通の薬屋で働く普通の薬師だったのに。
返答を待つ彼らに無言で責め立てられているような気がして、カナンは今すぐここから逃げ出したい気分になった。
その時。
「………?」
ふと、カナンは眉をひそめた。
何だ? これ………
カナンの表情の変化に気づいたエイデンが尋ねた。
「どうした、カナン?」
カナンは、まとわりつく何かを振り払うように何度も頭を振った。
「歌が………歌が聞こえるんです。一体どこから………」
「歌?」
訝しげな顔をする皆の様子に、カナンはその歌声が自分にしか聞こえていないのだと初めて気づいた。
どうして? 幻聴だとでもいうのか? こんなにもはっきりと聞こえているのに?
男とも女ともつかぬ、風に揺らめく大きな絹布のように高く低く響く妙なる歌声。
次第次第に大きくなる。
近づいてくる。
そして………
「……!!」
突然、街全体を揺るがすような凄まじい衝撃が彼らを襲った。
よろめいたカナンをエイデンが咄嗟に支える。
何事かと視線を巡らせたスヴェアは、信じられない光景を見て思わず呻き声を発した。
「………嘘だろ」
街を見下ろして建つ領主館に、金色に輝く槍の穂先のような形の巨大な岩が突き刺さっていた。
もうもうと立ち昇る土煙。旗がはためいていた尖塔があったはずの部分が完全に潰れ、消失してしまっている。
ソーンが上を指差して叫んだ。
「また来ます!」
はるか上空から、まるで雹のように巨石が街めがけて落下してきた。それもひとつやふたつではない。大地震もかくやというほどの地響きと共に、家々がまるで紙細工のようにいともたやすく押し潰されていく。ちょうど夕食の支度時だったからだろう、瞬く間にあちこちから火の手と煙が上がった。砕かれた建物の破片と火の粉が四方八方に飛び散り、降り注ぎ、悲鳴と怒号が巻き起こる。立て続けに襲う衝撃にまともに立っていられない。
スヴェアは舌打ちした。
「くそっ! 何なんだ、これは!」
フ……ッと辺りが暗くなった。
急に厚い雲が垂れこめたのかと思ったが、違った。
夕陽に染まる薄雲を引き裂きながら、領都の真上に、巨大な「山」が出現したのだ。
それは、まさに中空に浮かぶ「山」としか表現のしようのない代物だった。
まるで目に見えない巨大な手が、山を丸ごと鷲摑みにして持ち上げているかのように。
だが、表面には一本の草木もひと握りの土くれもなく、透明感のある何らかの鉱物で出来ていた。窓や回廊のようなものがあり……信じられない事に……人工物である事がわかる。全体が水の中から太陽を仰ぎ見たようにゆらゆらと黄金色に輝いており、その様は幻想的で、美しいとさえ表現出来る。
そして、氷柱のような棘が無数に並ぶ下底部からは、絶え間なく水が滴り落ちていた。
晴れの日の雨……「太陽の涙」のように。
家々を破壊し、領主館を押し潰した巨石はあの「山」から落ちて来たのだ。
「………何なんだ、あれは………」
「〈天の民〉の空中砦だ。砦全体が天の水晶で出来ている。………まさか、本当にギズサ山脈を越えて来るとはな」
掠れた声で呟いたソーンに、エイデンが答える。
最後の台詞は独り言に近かった。
「『空中』………砦?」
カナンは震える声で呟いた。
そもそも砦が動くなど、彼の想像をはるかに超えていた。
ましてや、空を自在に飛ぶ砦など!
スヴェアたちの方を見やると、彼らの顔も青ざめている。
プレストウィック国の兵士たちが下から矢を射かけているのが見えたが、その様は滑稽なまでに虚しかった。
あれが……これが〈天の民〉。
天空を覆い尽くし、〈地の民〉を屠る者。
黄金色に光り輝く死の使い。
あんなものに一体どうやれば勝てるというのだ? 蟻が獅子に立ち向かうようなものではないか!
空中砦は半壊した領主館の直上で停止した。
すると、今度は空中砦の一角から鳥の大群が編隊を組んで一斉に飛び立った。
ただの鳥ではなかった。とてつもなく大きい。おそらく馬ですら軽々と持ち上げてしまうだろう。吹き荒ぶ嵐のような鋭い羽音が鼓膜を叩き、甲高い猛禽の鳴き声が響き渡る。
そして、その背には、鎧をまとい、手に槍を携えた騎兵が跨っていた。鞍には他にも数本の槍が装備されている。
エイデンが叫んだ。
「よけろ!!」
叫びざまカナンを突き飛ばす。
訳もわからぬまま、スヴェアたちも反射的に建物の影に飛び込んだ。
一瞬遅れて、たった今彼らが立っていた場所に数本の槍が突き刺さる。
無数の槍がまるで豪雨のように、地震かと驚いて家から飛び出してきた人々に情け容赦なく降り注いだ。
街は一瞬にして地獄と化した。
体を貫かれ地面に倒れ伏す若者。転んだ老人を踏みつけて逃げる男。母親とはぐれて泣き叫ぶ子供。血を流しながら這いつくばって助けを求める女。燃え上がる家から火だるまになった男が絶叫しながら飛び出し、狂ったように地面を転げ回る。
カナンは声すら出せなかった。
鼻をつく血と煙のにおい。耳をつんざく悲鳴と轟音。何という………怖ろしい光景だ。とてもこの世のものとは思えない。
エイデンが忌々しげに呟いた。
「〈天の民〉の槍騎兵だ。連中はああやって冠鷲を駆る。………まずいな。このままでは退路を断たれる」
カナンは眉をひそめた。
この人は、何故こんなにも〈天の民〉に詳しいのだろう?
一斉に剣を抜いたスヴェアらガラハイド国の騎士とは対照的に、この期に及んでもまだエイデンは腰の剣に指すら触れていない。
気づいたスヴェアが忌々しげに怒鳴った。
「おい! お前もさっさと剣を抜け! それとも、まさか本当にそれは飾り物か!?」
エイデンから上空へと視線を移したスヴェアは、はっと気づいて鋭く叫んだ。
「坊主!」
スヴェアの声に振り返ったカナンは、自分に向かって一直線に飛来する冠鷲の姿を見た。胸には甲冑をつけ、飾り羽根がある頭部には頭絡(馬の頭部につける馬具)のような金具と手綱がついている。背にまたがる槍騎兵は、兜の下の目元以外、生身の部分は全く見えない。
どこか作り物めいた槍騎兵の青い両眼が、真っすぐカナンの姿を捉えた。
時間がひどくゆっくりと感じられた。
カナンは動けなかった。
殺される………!!
そう思った瞬間。
突然、カナンの胸元から眩いばかりの白い光が燦然と溢れ出た。
『何だと!?』
強烈な輝きをまともに顔に浴びた槍騎兵が驚愕の声を上げる。冠鷲の羽ばたきが大きく乱れた。
「な………」
カナンは胸元から祖父の形見の首飾りを取り出した。
光っている?
まるで小さな太陽を持っているかのようだった。だが熱くはなく、むしろひんやりと冷たく感じる。
こんな事、今まで一度も………
『貴様……っ!!』
投げつけられた激しい声に、カナンははっと顔を上げた。
『何故、貴様がアリアンテを持っている!?』
「………え?」
今、確かに「アリアンテ」って………
〈天の民〉がどうしてじいちゃんの形見の事を?
「頭を下げろ、坊主!」
叫びざま、スヴェアが冠鷲目がけて小さな紙の包みを投げつけた。
包みは巨大な嘴に当たって破れ、中から緑色の粉が飛び散る。
冠鷲が甲高い悲鳴を上げた。
『こ、こら! 落ち着け!!』
乗り手の制止も聞かず、冠鷲は無茶苦茶な飛び方をしながらあっという間に逃げていった。
カナンはスヴェアを振り返った。
「今のは………?」
「乾燥させたヨモギの粉。冠鷲はヨモギの匂いが嫌いなんだと。………しっかし本当によく効くなあ」
もう黒い点になってしまった猛禽の姿を見上げ、スヴェアはにやっと笑った。
カナンは感心して言った。
「そんな事、よく知ってましたね」
「知ってるのは俺じゃなくてうちの領主様。若いのに博識でね、本当に効くのか試してこいと渡されたんだ。効果のほどは十分にわかった。ついでに言っちまうと、ヨモギはあれ一個しかない」
スヴェアは長剣を握り直した。
「そんな事より、次が来たぜ。………危ないから下がってろ、坊主」
彼の言葉を合図にしたように、アルコとソーンもそれぞれ身構える。
カナンは、まだかろうじて壊れていない家の軒下に急いで身を隠した。
二羽の冠鷲がスヴェアたち目がけて急降下してきた。
鎌のように鋭い鉤爪が迫る。
何とかかわして反撃を試みるが、彼らの剣は空を切るばかり。冠鷲の動きが速すぎるのだ。その巨体からは想像も出来ぬほど素早く軽やかに身を翻し、弓から放たれた矢のように襲ってくる。
その間隙をつき槍も飛んで来る。
「うあ…っ!」
鷲の鉤爪に肩を引っ掛けられたアルコがどうっと地面に倒れた。傷口を押さえた指の間から信じられないような量の血が溢れ出す。
考えるより先にカナンは飛び出していた。倒れたアルコの元へ駆け寄り、彼の体を建物の影へと引きずる。
気づいたエイデンが手伝ってくれた。
数秒遅れて、アルコが倒れていた地面に槍が突き刺さる。
エイデンは険しい口調でカナンに言った。
「何をしている! 隠れていろと言われたろう!」
「でも放ってなんかおけません!」
そう言い返しながら、カナンは出血の為すでに意識が朦朧としてきているアルコの傷口に両手を押し当てた。
だが、どんなに強く押さえても、カナンの指の間からとめどなく真っ赤な血が流れ落ちてくる。かなり深い傷だ。一刻も早く止血しなければ、血を失いすぎて死んでしまう。カナンがいつも身に付けている小さな薬草袋にはキイロカワラマツバの止血薬が入っているが、そんな量ではとても間に合いそうになかった。周囲を見回しても、止血の役に立つようなものも見当たらない。
少しの間考えた後、カナンは自分の片袖を破り取り、アルコの傷にしっかりと巻きつけた。
それでもまだ出血は止まらない。見る見るうちに巻きつけた袖が赤く染まっていく。
それを見たエイデンが、アルコの腰から剣を吊るす革ベルトを外して、巻きつけたカナンの袖の上からさらにきつく強く締め上げた。
アルコが呻き声を上げる。
エイデンは慈悲のかけらもない声音で言った。
「我慢しろ」
ようやく出血が止まった。
カナンはほっと息をついた。アルコの服の上半身は血に染まり、顔色は青ざめるのを通り越して紙のように真っ白だったが、取り敢えずはこれで大丈夫だろう。
エイデンは立ち上がった。
「もう無茶はするな。ここにいなさい」
先ほどとは打って変わって優しい声音でそう言い置くと、エイデンはカナンの側を離れた。
苦戦中のスヴェアたちの方へ向かう。
その姿はまるで漆黒の疾風のようだった。
強引に冠鷲との間に割り込まれたスヴェアが、驚いて身を引く。彼にしてみれば、突然目の前が真っ暗になったように感じた事だろう。
人間の体など一瞬で引き裂けそうな、冠鷲の先端の曲がった巨大な嘴と剣よりも鋭い鉤爪が、突如現れた黒衣の新たな敵に襲いかかる。
エイデンは、そこで初めてすらりと腰の長剣を抜き払った。
そして、頬を掠める鋭い鉤爪には全く頓着せず、まるで柔らかい粘土を切るように冠鷲の体を……胸を覆う鎧ごと……真っぷたつに切り裂いたのだ。
凄まじい悲鳴と夥しい血の雨が降り注ぎ、両断された冠鷲の体はもんどりうって地面に転がった。
エイデンの手に握られた長剣の異様さに、カナンは息を飲んだ。
その刃は、持ち主と同じく漆黒だったのだ。
一片の光も存在しない真の暗闇のごとく。
一片の命も存在しない深淵のごとく。
それだけではない。黒い霧のような何かが刀身にまとわりつき、地面に向けられた切っ先から絶え間なく滴り落ちている。
触れずとも、見つめるだけで魂までも凍りつきそうだ。
何という………禍々しい剣。
『よくも……!!』
下敷きになる寸前で冠鷲の背から飛び降りた槍騎兵が、その勢いのまま腰の長剣を抜いてエイデンに切りかかった。
先ほどスヴェアと対峙した時と同じように軽々と避けたエイデンは、返す手で槍騎兵の腹に黒い剣を叩き込んだ。
血は出なかった。
槍騎兵の体は、エイデンの長剣が触れたところから……肉体はおろか鎧やその下の衣装までも……ボロボロと崩れ、悲鳴を上げる間もなく塵となって消えてしまったのだ。
まるで悪夢を見ているようだった。
カナンも、そしてスヴェアたちも、頭上に覆い被さる空中砦や上空から襲い来る鉤爪と槍の存在すら忘れ、その場に凍りついてしまった。
今、何が起きたのか。
エイデンはあの槍騎兵に何をしたのだ?
とても人間の成せる業とは思えなかった。
「死神」
という言葉が、彼らの脳裏にほぼ同時に浮かんだ。
もう一羽の冠鷲が、羽ばたきが巻き起こす猛烈な砂煙と共にエイデンに迫ってきた。
『貴様っ! 一体何をした!?』
『………よせ』
兜の下の青い双眸に激しい憎悪を煮えたぎらせる槍騎兵に、エイデンは奇妙に静かに告げた。
『この剣に触れれば、例え致命傷でなくとも〈天の民〉は死ぬ』
スヴェアは困惑して眉をひそめた。エイデンが何と言ったのかわからなかったからだ。
彼が日頃使っている〈地の民〉の言語とは明らかに異なる言語だった。
槍騎兵はエイデンを睨みつけた。
『我らの言葉を話す!? 貴様、何者だ!? シーマーか!?』
『違う』
エイデンの声がス…ッと低くなった。
『………だが、その呼称は好きではない』
槍騎兵はギリリと歯を食いしばると、踵で鞍下の冠鷲に前進を命じた。
だが、冠鷲は動かなかった。それどころか頭を振り上げて後退ろうとする。
カナンは、首の羽毛を逆立てる猛禽の両眼に明らかな恐怖の色を見て取った。
『どうした!? この……っ』
槍騎兵は舌打ちすると、役立たずと化した冠鷲から飛び降りてエイデンに切りかかった。
鉄剣同士がぶつかった時とは異なる、清涼とさえ表現出来る硬質な音が響き渡る。
相手の剣を真正面で受け止めたまま、エイデンは言った。
『七十年前、〈地の民〉と〈天の民〉は相互不可侵の協定を結んだはず。お前たちの王はもう忘れたのか?』
『グロフト王は崩御された。今は彼の息子シファ様が新たな翼の王だ』
『王が変わっても協定は残るはず』
『あの協定は誤りだった。シファ陛下が先王の過ちを正して下さるのだ。〈地の民〉共がまき散らす穢れは、いつか必ず〈黄金の鷺〉を脅かす。かつて、愚かな〈海の民〉が自らの世界を滅ぼしたように。我ら栄光ある〈天の民〉がそれを食い止めるのだ。今度こそ穢れを一掃し、世界を浄化する!』
エイデンは表情を歪めた。
「…………愚かな」
ガ…ッ!と鈍い音が響き渡った。
槍騎兵の剣を粉々に砕いた闇色の刃は、過たず彼の胸を貫いた。
反射的に、槍騎兵は自分を刺し貫いた刀身を握った。その手が見る見るうちに崩れていく。
槍騎兵は憎悪に満ちた目でエイデンを睨みつけた。
『…………穢れた剣を操る者よ………ハランの歌を聴くがいい………!!』
そして、そのまま塵と化して霧散した。
ハラン
ドクン! とカナンの胸元でアリアンテが反応した。
急激にアリアンテの温度が下がる。
まるで氷塊を胸に押し当てられたようだった。心臓が凍りついてしまうのではないかと思うほどの冷たさに、カナンは耐え切れず膝を折った。
「カナン!?」
エイデンの声もよく聞こえない。
彼の呼びかけに答えようとしたが叶わず、カナンはそのまま失神した。
「どうした!? 大丈夫なのか!?」
突然の事にスヴェアが狼狽して尋ねる。
エイデンは剣を鞘に戻すと、気絶した少年の体を抱き起こした。
「私にもわからん」
「さっき〈天の民〉と何を話してたんだ? お前、連中の言葉がわかるのか?」
「その話は後だ。今は一刻も早くここを離れなければ」
エイデンは低く長く口笛を吹いた。
すると、渦巻く火煙と逃げ惑う群衆をかき分けて見事な漆黒の牡馬が現れた。栗毛馬がもう一頭、手綱を黒馬の鞍に結ばれて一緒について来る。栗毛馬はエイデンがカナンの為に用意した馬だ。
スヴェアは苦笑いを漏らした。
「馬まで真っ黒とは、恐れ入ったぜ」
スヴェアの皮肉は完全に無視し、エイデンは鞍から外した栗毛馬の手綱を彼に渡した。
「こちらはお前たちで使え」
「そりゃどうも。だが、こっちは三人なんだが」
しかも一人は怪我人だ。
だが、エイデンは、
「そこまで面倒は見きれん」
と、切り捨てるように言い放つと、ぐったりしたカナンの体を黒馬の背に押し上げ、自らも鞍に跨った。
「あとは自分たちで何とかしろ」
「………お優しいことで」
「では、ガラハイドで会おう」
そう言い残し、エイデンは黒馬の腹を蹴った。
鋭い嘶きと砂埃を残してあっという間に遠ざかる黒い騎馬を見送りながら、スヴェアは呆れて呟いた。
「……………迎えに来た人間を置き去りにして先に行くか、普通?」