第一章 黒衣の男
初めまして。
水崎芳と申します。
「石の剣の王」第1巻「約束の予言」をお送りいたします。
ふたつの民の存亡をかけた戦いに巻き込まれていく薬師の少年のお話です。
少しでもご興味を持って下さり、読んで頂けますと幸いです。
これは、
かつて三つの世界に住んでいた、三つの民の物語
ある時、神々の王が、天と地と海を司る三人の女神に、それぞれ三つの水晶を与えた。
水晶には人間が吐く穢れを浄化し、世界を清浄に保つ力があった。
天の女神には、太陽の光を溶かし込んだような黄金色の水晶を、
海の女神には、深く美しい大海の色を映したような真っ青な水晶を、
そして、地の女神には、一点の曇りもなく真に透明で最も大きな水晶を与えた。
ところが、地の女神は、自分の水晶にだけ色がない事を不満に思った。
天の女神と海の女神は、地の女神の水晶が自分たちの水晶よりも大きな事を不満に思った。
やがて三人の女神はいがみ合い、罵り合い、ついには互いの水晶を壊してしまった。
こうして世界は穢れを浄化する力を失い、天も地も海も争いの絶えない場所となった。
序 章
〈天の民〉の王は翼によって
〈地の民〉の王は血によって
〈海の民〉の王は剣によって選ばれる
その部屋は死の臭いに満ちていた。
天井も床も壁も、まるで水の中で揺らめく黄金の炎のように美しく光り輝いているにもかかわらず。繊細な彫刻と優美な曲線を描く調度によって完璧に飾り立てられているにもかかわらず。
部屋の中央に据えられた天蓋付きの大きなベッドに、一人の老人が横たわっていた。
老人の古い木の洞のように虚ろな両眼には生気がなく、間近に迫る死のみを映している。かつての覇気溢れ威風堂々たる頃の面影は微塵もなく、皮膚は干上がった川底のようにカサカサに乾き、飛び出た鎖骨が痛々しい。こめかみは落ち窪み、唇はひび割れ、枕に乱れ散らばるまばらな白髪はまるで縮れた枯れ草のよう。
『シファ………シファはどこだ………?』
老人は掠れた声で息子の名を呼んだ。
シファ=カンタベリスはベッドの傍らにひざまずくと、弱々しく宙をさまよう老人の手を両手で力強く握った。
『ここにおります、父上』
二人は父と子というより、祖父と孫ほども外見年令に差があった。シファの後ろでひとつにくくった長い金髪は燃えさかる日輪のように燦然と輝き、濃く青い双眸には挑戦的な強い光が宿っている。白磁色の肌は若さに溢れ、日々の鍛錬で鍛え上げられたしなやかな体躯は非の打ち所がない。その神々しいまでに力強く精悍な姿は、ベッドに横たわる老いさらばえた父親とはまるで正反対だ。
『…………息子よ………』
老人は震えるような吐息と共に言葉を紡いだ。
彼が呼吸する度に、喉の奥からヒューヒューと壊れた笛のような音が漏れた。
『息子よ………わしは間もなく死ぬ』
『何を仰いますか、父上』
老人は弱々しく枕の上で頭を振った。
『いいや、わしにはわかっておる。そなたにも、皆にもな。シファ、わしが死した後はそなたが新たな翼の王となり、〈天の民〉を統べるのだ』
枯れ枝のような老人の指に一瞬力がこもった。
『そして、かつてわしが〈地の民〉と結んだ相互不可侵の協定を引き継げ。翼の王が代わっても協定は続くと、そう聖王オニールと七賢者に伝えるのだ』
シファは眉を曇らせた。
『ですが、父上、あなたがあの協定を結んだのは七十年も前です。〈地の民〉は自らが吐く穢れのせいで百年すら生きられぬ短命の種族、聖王オニールはすでに亡く、七賢者とてもはや死に絶えておりましょう』
老人は微かに目をみひらいた。
『七十年………? もうそんなに経っておるのか? そんなに………?』
茫然と呟く父を、シファは暗い面持ちで見下ろしていた。哀れみと………微かな侮蔑を込めた目で。
『だが、オニールは亡くとも、彼の跡を継ぎ玉座に就いた者がいよう。その新たな聖王に、協定は変わらず存続すると伝えるのだ。現在の聖王に。そして、七賢者の末裔を捜し出し、その証人とせよ。我ら〈天の民〉は天空に、〈地の民〉は大地に住まい、決して干渉し合ってはならぬ。決して………』
シファは父の手を優しくさすった。
『わかりました。どうかご安心下さい。必ず父上のお望み通りに致しましょう。約束します』
『頼んだぞ、息子よ………』
老人の両眼から急速に光が消えた。
父の臨終を確認したシファは、力の失せた骨ばった父の手を無造作にベッドに放った。
スッと立ち上がり、部屋の片隅で一部始終を見守っていた男を振り返る。
その顔には、たった今父親を亡くしたばかりだというのに、悲しみや憂いは微塵もなかった。
『父王は死んだ』
シファは冷やかに言い放った。
『私が新たな翼の王だ。そう民に知らしめよ。〈庭園〉のテンペランス殿と、ルカにもな』
『御意。ですが………』
言いよどむ男に、
『何だ?』
『お父上のご遺言は、如何致しましょう?』
シファは嘲笑った。
『遺言だと? 一体何の話だ?』
男はさらに深く頭を垂れた。
『失礼致しました。わたくしの思い違いでございます。お父上のご遺言などありませぬ』
『その通りだ』
シファはベッドに横たわる父の亡骸を、今度ははっきりとした侮蔑の眼差しで見下ろした。
『〈地の民〉など、我ら〈天の民〉に比すれば地面を這い回る虫ケラも同然。そのような下等な輩となにゆえ協定など結ばねばならぬのだ。馬鹿馬鹿しい。七十年前の大戦の折も、我らはあと少しで勝利していたものを。父上の判断は愚かの極み。だが私は違う』
『我ら〈天の民〉は皆、すべからくシファ様のご英断を期待しております。今度こそ〈地の民〉共を一掃し、世界を覆う穢れを祓う時。さすれば、我らは輝かしき伝説の時代のように、再び栄光と繁栄を取り戻す事が叶いましょう』
シファは尊大な態度で重々しく命じた。
『将軍たちを招集せよ。直ちに軍議を開く。ハランの方はお前に任せる』
『御意』
シファは窓の外に視線をやった。はるか彼方まで青く美しく輝く空と、濃淡さまざまに波打ち流れゆく雲海を。昇ったばかりの朝陽に照らされて、雲のへりが眩い銀色に光っている。
それは、シファが生まれた時からずっと見てきた景色であり、そして多くの〈天の民〉と同様、彼が唯一知っている景色でもあった。
シファは窓の外を見据えたまま続けた。
『海の姫へ使いを出せ。「約束を果たす時が来たぞ」……とな』
第一章 黒衣の男
見よ
天は墜ち、海はあふれる
見よ
七賢者、再び集いし時
石の剣の王が闇を打ち砕く
〈天の民〉の軍勢が、はるか北の果て……常冬の地・『逆さ山』の彼方にあるという伝説の空中都市〈黄金の鷺〉から、七十年の時を経て再び侵攻してきたとの第一報が大地を駆け巡ったのは、約九ヶ月前の事だった。
その進撃は凄まじく、まさに破竹の勢いで、北方の〈地の民〉の国々を次々と攻め滅ぼしていった。
降伏や休戦を申し出ようにも、〈天の民〉と〈地の民〉では言語が異なる為にまともに交渉も出来ない。ただ逃げ惑い、剣で斬られ、槍で貫かれるばかり。
だが、現在、戦況は膠着状態に陥っている。その高い戦闘能力と勇猛果敢さでは他の追随を許さない〈獣使い〉の一族の猛反撃によって、〈天の民〉軍は彼らの土地〈石の鎖の庭〉を突破出来ずにいたのだ。
その為、それ以南の〈地の民〉の国々の間では、奇妙な安心感のような空気が漂っていた。〈獣使い〉の一族が善戦している限り我が国は大丈夫だ、万一彼らが敗れても、〈地の民〉唯一の王たる聖王には世界最大最強の水晶騎士団がいるのだから、と。
日々の生活で精一杯の人々にとって、〈天の民〉の来襲ははるか遠い地で起こっている「他人事」でしかなかった。
〈天の民〉の翼と剣が自らの頭上に届く、その時までは。
*
誰かに見られているような気がして、カナン=カナカレデスはふと振り返った。
通りは大変な賑わいだった。
土を踏み固めただけの埃っぽい道の両脇に、さまざまな店が無秩序に軒を連ねている。街から街へとアクセサリーや布地を売って回る行商人の馬車の前には若い娘たちが群がり、夕食の買い出しに来た主婦は肉屋の主人と値段の交渉に余念がない。傍らの子供の方は豚肉がいくら安くなるかよりも、毛糸帽の老人が売っている小さな木彫りの人形の方が気になって仕方がないようだ。母親にがっちり手を掴まれていなければ、すぐにでもそちらへ飛んでいった事だろう。
薄い板を葺いた屋根の上では毛並みの悪い猫がまどろみ、痩せた犬が削り落とした馬の蹄の欠片を狙って仕事中の鍛冶屋の周囲をうろついている。干し草を山と積んだ荷馬車や羊の群れを引き連れた農夫までもが行き来していて、制服姿の兵士が羊の群れを通りから追い出すよう農夫に注意していた。確かにあれでは人が通れない。それに、こんな混雑では、通りを抜けた頃には羊が何頭か減っているのではないか?
しかし、皆自分の事で忙しそうで、カナンを注視している者はいなかった。
カナンは軽く頭を振った。
気のせいだろうか? ここ数日、同じような感覚に襲われる事がたびたびあるのだが。
「どうしたんだい? カナン」
夕食の材料らしいウサギと野菜が入った袋をぶら下げた老婆が声をかけてきた。歯が何本かないわりに言葉は明瞭だ。シミだらけの肌や曲がった腰が彼女の年令を表わしているが、それ以外は実に溌溂とした老婆である。袋の中のウサギは自分で捕ってきたのだと言われても、きっとカナンは驚かない。常に眉間に深い皺を寄せているが、機嫌が悪いからではなく、だいぶ視力が衰えてしまった彼女の癖だった。
「いえ。何でもありません、クリッティさん」
カナンは笑顔で答えた。
「誰かに見られているような気がしたんですけど、気のせいだったみたいです」
「若い娘じゃないのかい? カナンは可愛いから」
「まさか」
カナンは苦笑した。幼い子供ならともかく、商売も結婚も可能とされる年令である十五才に向かって「可愛い」などと、実に年寄りらしい表現だ。
尤も、この老婆は五十才に届く息子の事を未だに「あの子」と呼んでいるくらいだ、カナンなど乳飲み子も同然なのだろう。
だが、「可愛い」かどうかは別にしても、カナンは確かに目を引く容姿の持ち主だった。整った顔立ちはクリッティの言う通り若い娘の関心を引くには十分だ。陽の加減で赤く映えるこげ茶色の髪に、朝露に濡れる松葉のような濃い緑色の瞳。彫りが深く、スッと鼻筋が通り、唇は薄い。ぱっと見には日焼けしているように見えるやや褐色めいた色の肌も、彼がここプレストウィック国の出身ではない事を示している。細い手足にうっすらと残る古い傷跡や、掌の肉刺の痕が痛々しい荒れた両手から、かなり厳しい環境で生活していたのだとわかる。年令の割に小柄で、痩せているのもそのせいだろう。いつも首に何やら下げているが、服の下に入れているのでどんな首飾りなのかはわからない。
「ところで、膝の具合はどうですか?」
「ああ、すごく調子いいよ」
カナンの問いに、クリッティは持っていた杖で自分の膝をトントンと軽く叩いた。
「あんたに処方してもらった湿布薬のおかげでね。あんたには本当に感謝してるんだ」
「いえそんな………」
カナンははにかんだように微笑んだ。
彼がクリッティの行きつけの薬屋に住み込みで働くようになってから、そろそろ二ヶ月が過ぎようとしていた。
少々頼りなく見える外見とは裏腹に、カナンは雇い主である薬屋の主人も舌を巻くほどの豊富な薬草の知識の持ち主だった。その証拠に、彼が処方してくれた湿布薬のおかげで、クリッティは杖をつきながらではあるが、こうしてまた買い物へ出掛けられるようになったのだから。それまでは、どんな薬を使っても歩く事すらままならなかったのに。
クリッティとしては、全くもっていい子を雇ってくれたものだと、カナンを雇った薬屋の主人にも感謝したいくらいだ。
ふいに通りで大声が上がった。
カナンとクリッティは振り返った。
通行の邪魔になっているのも全く意に介さず、厳めしい顔をした役人と思しき男が、手にした触れ書きを大声で読み上げていた。
文字が読めない者も多いので、掲示するだけでなく、こうして人通りの多い場所で読んで回るのだ。
「プレストウィック国領主アリダール公よりのお言葉である! 皆、心して聞け! 過日よりのアリダール公のご命令にもかかわらず、水晶の献上が未だ十分ではない。どんなに小さな品でもかまわぬゆえ、水晶を所持する者はすべからく献上せよ! さすれば相応の褒美を与える。直ちに水晶を献上せよ!」
クリッティは溜め息混じりに頭を振った。
「やれやれ………国中の水晶をかき集めてどうするつもりなんだか。やっぱりあの噂は本当なのかもしれないねえ」
カナンはクリッティに視線を戻した。
「噂?」
「〈天の民〉がこのプレストウィック国へ攻めてくるっていう噂だよ。しかも、連中はギズサ山脈を越えてやって来ると」
クリッティの言葉に、カナンは思わず北の地平にうっすらと見えるギザギザの稜線を見やった。
あれがギズサ山脈だ。
渡り鳥ですら避けるという、氷河と万年雪を頂く高く険しい雄大な山脈。雲よりもはるかに高くそびえ立ち、下界を睥睨する物言わぬ巨人のごとく威容を誇っている。
「どうしてそんな噂が流れてるんですか?」
「何でも、お隣さんの領主お抱えの予言者がそう予言したらしい。アリダール公のところへ警告の使者が来たそうだ」
「お隣さん?」
「ガラハイド国だよ」
カナンは眉をひそめた。
「確か、この国とガラハイド国って、あまり仲が良くないはずですよね?」
この国に来てまだ二ヶ月余りのカナンだが、それくらいの知識はあった。
クリッティは頷いた。
「ああ。尤も、うちの領主様はしょっちゅうあちこちと喧嘩しているから、仲のいい『お隣さん』なんかありゃしないけどね。特にガラハイド国の今の領主様は、先代が公妃付きの侍女に産ませた御方だから、アリダール公は『侍女の息子』と呼んでひどく蔑んでおられるしね」
「公妃って、領主の正妻の事ですよね?」
カナンは呆れて聞き返した。
「自分の妻に仕える侍女に手を出して、そのうえ子供まで産ませたんですか?」
「そんなのよくある話さ。ちょっと見目好い若い侍女が好色な領主に目を付けられる事なんざ。それを狙って、自分の娘を領主館や貴族の邸で働かせる親もいるくらいだ。娘が主人に気に入られて、愛妾にでも収まれば、親もおこぼれでうまい汁が吸えるからね」
カナンは顔をしかめた。
「そんな事をする親がいるんですか? ひどい話ですね」
クリッティは肩をすくめた。
「親にもいろいろあるさね。そんなふうに蔑んでる相手からの使者だ、アリダール公はすぐに追い返しちまったんだが、その直後からああやって水晶をかき集め始めたんだよ」
カナンは服の下に付けている首飾りの紐を指で触れた。
「それって………もしかして『〈天の民〉は地の水晶には触れられない』っていう言い伝えと関係があるんでしょうか?」
「そうだろうね。あんな言い伝え、ほんとかどうかもわからないってのにねぇ」
カナンは、街を一望出来る岩だらけの小高い丘の上に建つ城館を見上げた。プレストウィック国領主アリダール=ソラント=プレストウィックが住む領主館だ。重厚な石造りの館は、眼下の街にひしめく狭くて粗末な家々に比べるとはるかに大きく、立派で、丘に点在する巨大な岩々に囲まれたその姿は何者をも拒絶するかのように冷たく暗い。そこだけひと足早く夜の帳に覆われているかのようだ。低い雲が流れる空を貫く塔のてっぺんに、領主の紋章を記した旗がはためいている。
国を統治する領主の城館である領主館がある街を「領都」という。カナンがいるこの街も、プレストウィック国の領都だ。
たいていの場合、領都はその国で一番大きな街だ。領都の規模を見れば、その国のおおよその国力がわかる。
そして、プレストウィック国の領都はそれほど大きくはなかった。国土も、夏は干ばつが多く、冬は寒さが厳しい。作物を育てる為の水は春先にギズサ山脈から流れてくる雪解け水が頼りだし、よく洪水も起きる。井戸の数も少ない。領地内に広大な森を抱えている隣国ガラハイド国とは違い、凍えるような冬に暖を取る為の薪もほとんど採れない。あまり豊かではない西方諸国の中でも、プレストウィック国は特に国力の乏しい国だ。
ふと気付くと、いつの間にか触書を読み上げる役人の大声はやんでいた。姿もない。多分別の通りへ行ったのだろう。そしてまた大声を張り上げるのだ。
クリッティは役人がいた辺りを見ながら独り言のように続けた。
「だけど本当なのかねえ。いくら空を飛べるからって、〈天の民〉の軍隊があのギズサ山脈を越えて来るなんざ、あたしゃとても信じられないよ。先の大戦の時だって越えられなかったっていうのに。だから、今回も連中は七十年前と同じように、〈獣使い〉の一族相手に何ヶ月も苦戦してるんだろう? 全く懲りない連中だよ、〈天の民〉ってのは」
「…………本当に、ここが戦場になるんでしょうか」
不安げに呟くカナンに、クリッティは笑った。
「何て顔してるんだい。大きいのやら小さいのやら、戦なんてしょっちゅうじゃないか。おろおろしたって始まらないよ。あたしら平民はただ息を潜めて、嵐が通り過ぎるのを待つだけさ。逃げ出そうにも金も財産もないんじゃあ、どこにも行けやしないしね」
カナンは苦笑した。
さすが年の功というべきか、豪胆な老婆だ。
クリッティは袋を持ち直した。
「さて、早く帰って息子に夕飯を作ってやらないと。嫁は昨日から妹の出産の手伝いで実家に戻ってるんだよ。あの子はあたしの作るシチューが好物でね。嫁が作るのは塩辛くていけない」
何だか嬉しそうに話すクリッティに、カナンは微笑んだ。
「きっと息子さんも楽しみにしてますよ。それじゃ失礼します、クリッティさん」
「ああ、またね、カナン」
杖をつきつつ雑踏の中へ消えていく老婆を見送ったカナンは、服のポケットから薬の配達先の名前と住所を記した紙を取り出した。
「ええと………次はニルキンさん家だな。急がないと全部回りきれないや」
カナンは再び歩き出した。
一定の距離を保ちながら、自分を尾けてくる男たちの存在には気付かずに。
*
カウンターで客の相手をしていた薬屋の主人ハネストウは、濡れた髪を軽く振りながら入ってきたカナンに満面の笑顔を向けた。
「おかえり、カナン。ご苦労さん。………おや、雨が降ってきたのかい?」
「ええ」
陽が照っているのに雨が降る、いわゆるお天気雨というやつだ。「太陽の涙」とも呼ばれている。通りを行き交う人々が小さな悲鳴を上げながら、雨宿りの場所を求めて小走りに走っていく。陽の光が反射して、細かい雨粒が水晶のかけらのように光っていた。
ハネストウと話していた客の男が振り返って言った。
「太陽の涙かい。この季節に珍しい」
「ああ、全くだ。………はいよ、咳止めの薬。これなら効くと思うが、全部飲み終えてもまだ咳が治まらないようだったらまた来ておくれ。もう少し強い薬に変えてみよう」
「わかった」
「それじゃお大事に」
もうすぐ四人目の子供が生まれる予定のハネストウは、まるで彼自身が妊婦であるかのような太鼓腹の持ち主だった。なめし革のベストを着て、歯並びの悪い分厚い唇にいつも人懐こい笑みを浮かべており、丸い目とへしゃげた鼻には愛嬌がある。
彼の背後の棚にはラベルを貼った素焼きの薬草壺が並び、天井にも乾燥させたハーブや薬草の束がずらりと吊るされていた。店内は様々な薬草の香りが入り混じり、下草が生い茂る早朝の林の中にいるかのような清々しい匂いに満ちている。薬屋独特の匂いだ。窓から斜めに射し込む柔らかい夕陽の光を反射して、薬を計る古めかしい天秤が鈍色に光っている。客の男が入口の扉を開けて出て行った時、湿った土埃の匂いがした。
「ああ、そう言えば………」
ふと思い出したようにハネストウが言った。
「お前さんが薬の配達に出かけている間に、人が訪ねて来たよ」
「僕をですか?」
心底意外そうにカナンが聞き返す。
ハネストウは頷いた。
「ああ。全身黒づくめの、黒い髪の男だった」
男の姿を思い出したハネストウは、寒気を覚えたように身震いした。
男が入って来た瞬間、店の中の温度が一気に下がったような気がした。まるで暗闇そのもののような男だった。何と言うか………体の一番奥深い部分が冷えるような感覚。
そこだけ異質な空間であるかのように。
「年は……そうだな、二十代半ばだと思うが。えらく整った顔立ちで上品な感じの、なかなかいい男だったよ。高価そうな幅の広い金の額飾りを付けて、長剣を下げていた。名前も名乗らずに、いきなり『シエルのカナン=カナカレデスという少年はいるか?』とね。………『シエル』っていうのは何の事だい?」
「…………僕が生まれ育った村の名前です」
考え込みながらカナンが答える。
ハネストウはちょっと肩をすくめた。
「ずいぶんと古風な物言いをする男だな、名前の前に出身地を付けて呼ぶなんざ。お前さんはいつ戻るかわからないと答えたら、また出直すとさ」
戻るまで待つと言われなくて、内心ハネストウはほっとしたものだ。
「心当たりはないのかい?」
「いいえ」
カナンは困惑げに頭を横に振った。
近所の住人やハネストウの店の客以外、この国に知り合いなどいないはずなのに。
一体誰なのだろう?
ふいに入口の扉が開いた。
カナンは客かと思ったが、そうではなかった。
ひと目で役人とわかる口髭を生やした男が、数人の兵士を伴って入って来たのだ。
役人は傲慢な態度で店内を見回すと、心なしかうろたえた様子のハネストウに向かって威圧的な口調で問うた。
「お前がこの店の主人か?」
「は、はい。しかし………」
「水晶を所持する者が店にいるという事だが、この子供がそうか?」
カナンを指差す。
カナンは愕然としてハネストウを振り返った。
「ハネストウさん!?」
ハネストウは目に見えて狼狽した。
「こ、困りますよ! わしからこの子に譲ってくれるよう頼むから、少し待ってくれと申し上げたじゃありませんか!」
「どういう事ですか!?」
詰め寄るカナンに、ハネストウは言い訳がましく早口でまくし立てた。
「だってお前さん、水晶の首飾りを持っているじゃないか。いつも大事そうに首から下げて! ちらっと見えたんだよ、とても見事な細工の水晶が。領主様からのお達しもあったし、それで………」
カナンは「信じられない」というふうに声を荒げた。
「僕に無断で役人を呼んだんですか!?」
「うちにはまとまった金がいるんだよ! もうすぐ四人目が生まれるんだから! 水晶を献上すれば褒美が貰えるんだから、お前さんにとってもいい話じゃないか!」
「勝手な事を言わないで下さい! これは僕の物です。あなたにどうこうする権利はありません!」
「では、確かに水晶を持っているのだな?」
口論する二人の間に役人が割って入る。
「こちらも忙しいのだ。つまらん言い争いに付き合っている暇はない。さっさと水晶を渡せ」
カナンは役人を睨みつけた。
「嫌です」
「………何だと?」
「これは死んだじいちゃんの形見なんです。だから誰にも譲れません。お断りします」
よもや拒否されるとは思ってもいなかった役人の顔が、見る見るうちに怒りで紅潮した。
「貴様………アリダール公の命に背くというのか?」
「誰の命令でもお断りします」
きっぱりと言い放つカナンの傍らで、ハネストウが青ざめる。平民の身分で領主の命に逆らうなど、正気の沙汰ではないからだ。
案の定、役人は激高した。
「何と生意気な! アリダール公に対する不敬である! この者を捕らえよ!」
兵士たちが一斉に動いた。三人がかりでカナンを捕らえにかかる。
「何するんですか!」
カナンは猛烈に抵抗したが、大人三人相手に小柄な彼では敵うはずもない。あっという間に取り押さえられ、床に乱暴にひざまずかされてしまった。小手をはめた兵士の指が容赦なくカナンの細い肩と腕に食い込む。視界が真っ赤に染まるほどの激痛に、カナンは声にならない悲鳴を上げた。
店の外では、騒ぎを聞きつけた野次馬が集まり、扉が開いたままの入口や窓から何事かと覗き込んでいる。
だが、眉をひそめただ見ているだけで、役人に歯向かってまでカナンを助けようとする者は誰一人いなかった。
役人は肩をいからせ、カナンの前に仁王立ちになった。
「たかが平民の分際で領主の命に逆らうなどと、身の程知らずの小僧めが! 手間を取らせるな!」
役人の手が首飾りの紐に伸びた。
「やめて下さい!」
その時。
ヒュ……ッと、微かに空気が鳴った。
カナンを押さえていた兵士の一人が悲鳴を上げる。
「な……っ」
言葉をなくす一同の目前で、突如飛来した短剣に腕を貫かれた兵士が、激痛のあまり獣じみた悲鳴を上げて床を転げ回った。
いつの間にか入口に立っていたその男は、苦悶する兵士には目もくれず、何故か一瞬だけ間を置いた後、カナンに向かって場違いなほど静かに尋ねた。
「君がシエルのカナン=カナカレデスか?」
ハネストウが呆然と呟いた。
「あんた………さっきの………」
まるでたった今、暗黒から生まれ出でたような男だった。腰まで届く漆黒の髪。月のない夜のような黒い瞳。白い仮面を思わせる、表情の乏しい端正な顔。首元から爪先まで全身黒づくめの衣装をまとい、手には黒い革手袋をはめている。幅の広い見事な細工の黄金の額飾りを付け、腰には長剣を吊るしていた。ベルトに挟んだ空の鞘は、先ほど兵士の腕を貫いた短剣のものだろう。
黒衣の男は繰り返した。
「君がシエルのカナン=カナカレデスか? 祖父の名はワクトー=ベルー?」
ワクトー=ベルー?
役人は内心で首をかしげた。どこかで聞いた名前のような気がしたからだ。
カナンは我に返って頷いた。
「そう……そうです。………あなたは?」
「私はエイデン=イグリット。君の祖父の古い友人だ」
カナンは眉をひそめた。
「じいちゃんの………?」
エイデン=イグリット。
初めて聞く名前だった。
エイデンはゆったりとした歩調で店内に入って来た。
彼が歩を進める度に、黒衣から冷気が舞い上がるようだった。室内の空気を、その場にいる者たちの魂を凍らせるかのごとく。
見えない手に押されたかのように、兵士たちがカナンから手を放しじりじりと後退る。
床に膝をついたままのカナンのもとへと歩みながら、エイデンは淡々とした口調で語った。
「私のもとにワクトーから手紙が届いた。病状が思わしくないので、自分が死した後は一人残される孫の面倒を頼むと。手紙を受け取ってすぐに急ぎシエルへと赴いたが、彼の臨終にも葬儀にも間に合わなかった。………残念だ」
そう言うと、エイデンはまだ床の上で苦痛にのたうち回っている兵士の腕から無造作に短剣を引き抜いた。
動脈を傷つけていたのだろう、栓の役目を果たしていた短剣がなくなったせいで、傷口から大量の血が一気に噴き出す。
そのショックで兵士は気絶した。
カナンは息を飲んだ。
何と無慈悲な男だろう。こんな冷徹な、血も涙もないような男が本当に祖父の友人なのか? 祖父からは一度も名前を聞いた事すらないのに?
こうして目の前に立たれると、彼の黒衣から溢れ出た暗闇に呑み込まれてしまいそうな気がする。
人とは思えぬほど端正な顔には、何の感情も伺えない。
だが、今のカナンにとって、この黒づくめの男は唯一の味方だった。
やや反りのある変わった形の短剣の血を拭って鞘に戻したエイデンは、革手袋をはめた手をス…ッとカナンに差し出した。
「立てるか?」
「大丈夫です………ありがとう」
カナンはぎこちない動作で立ち上がった。兵士に掴まれていた肩と腕がひどく痛んだ。きっと痣になっているに違いない。
エイデンは、木偶のように茫然と突っ立っているハネストウを冷やかに一瞥した。
ハネストウは竦み上がった。
エイデンはカナンに視線を戻した。
「君がきちんと働いて、独り立ちしているのであれば、それはそれで良いかとも思ったのだが………ここは君にふさわしい場所ではないようだ。行こう」
「ま、待て! 待たんか!」
それまで呆けていた役人が、ようやく自分の務めを思い出して喚いた。
「何をしている! そやつらを捕らえよ!」
気絶した仲間の有り様に尻込みする兵士たちに毒づき、自分の長剣に手を伸ばした役人は、しかしそれ以上動けなかった。
黒衣の男の短剣の切っ先が、眼球に触れそうなほどの距離で顔前に突きつけられていた。
一体いつ抜いたのか、全く動きが見えなかった。
腰を抜かした役人をその場に残し、カナンとエイデンは店を出た。
数ある作品の中から本作品を読んで下さいまして、ありがとうございました。
この後、主要なキャラクターが続々と登場します。
あなた様のお気に召して頂けるキャラクターがいれば嬉しいです。
引き続き読んで頂けますと幸いです。
よろしくお願いします。