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第8話 ノワール・マナーの扉が開く

 黒い邸宅がひしめく中、私が乗る馬車が停車したのは、

 その中でも煤を塗り重ねたような、

 漆黒の外壁で装飾された邸宅の前だった。


 遠くから見れば、すべて同じ黒に見えたが、

 よく見ると、それぞれ微妙に色合いが異なり、重なり合う陰影が妙に不気味だった。


 ギッと、馬車の扉が開かれる。


 従者が恭しく頭を垂れながら、足元の段差を確認し、慎重に整えていた。

 彼らは妃に決して直接触れないよう、距離を保ちながらも、

 確実に降り立てるよう細やかに配慮している。

 ゆっくりと段差を降りた瞬間、湿り気を帯びた冷たい風が頬を撫でた。


(これが……ノワール・マナー)


 黒く染められた石造りの三階建ての建物は、

 背後に広がる森の木々すら圧倒するほどの巨大さを誇っている。


 鋭い凹凸が陰影を際立たせ、尖塔(せんとう)を模した装飾柱が両脇にそびえ立ち、

 重々しい威厳を放っていた。


 錆びた鉄製の窓枠には精巧な模様が刻まれ、

 曇ったガラスは、まるで光を拒むかのように冷たく輝いていた。

 闇の中に浮かぶような艶めいた扉へと続く階段は、

 まるで悪夢へと誘うかのようだ。


 それにしても、妙に静かだ。

 他の影妃たちも暮らしているはずなのに、建物全体が音を吸い込むかのように沈黙し、

 外界から隔絶されたかのような静寂が支配している。


 すでに私より先に馬車から降りていた影妃とその侍女たちも、

 邸宅の雰囲気に呑まれて、呆然と立ち尽くしていた。


(あれ? もう一人の影妃は……)


「ようこそ、ノワール・マナーへ」


 低く澄んだ声が静かに響いた。


 馬車が停まった時点で、いつの間にかそこに立っていたのだろう。

 邸宅の入り口前で控えていた老女は、

 完璧に整えられた銀髪を後ろでまとめ、漆黒の服を纏って一礼する。


 整然とした佇まいが、この建物と不気味なほど調和していた。


(全然、気配に気づかなかった……)


「本日よりこちらでお過ごしになる影妃様方をお迎えするよう、仰せつかっております。

 家政頭のハルと申します」


 老女の口調は、儀礼的というよりも、感情を排除した冷徹さが滲んでいた。

 それでも、彼女が纏う威厳は明確で、こちらを試すような冷ややかさえ感じられる。

 隣の影妃も戸惑っているようで、私へちらりと視線をよこした。


「どうぞ、館内へ。私がご案内いたします」


 促されるまま、私と影妃は彼女のあとに続く。

 ハルの足取りは無音で、まるで空気そのものが彼女を吸い込んでいるかのようだ。


 扉が、重々しく軋む音を立てて開かれる。

 途端に、冷たい空気が一気に流れ出し、肌を刺すような寒さに思わず体が強張る。

 その瞬間――奥からぬっと人影が現れた。


「お待ちしておりました、ユリ影妃さま、ファルネス影妃さま」


 声の主は、まだ十代のあどけない顔立ちをした女官だった。

 琥珀色の髪を束ねて揺らしながら、深々と一礼し、敬意を示す。

 だが、その瞳には不気味な冷たさが宿っており、

 無垢な外見とは裏腹に、威圧的な雰囲気をまとっている。


「私はノワール・マナーに仕えております、ニア・レイスンと申します」

「……どうも。よろしくね」


 挨拶を返すと、ニアは一瞬だけ目を細め、作り物のような笑みを浮かべた。

 しかしそれもすぐに消え、無表情へと戻る。


「まずは応接室へご案内いたします」


 滑らかにハルが言葉を継ぐ。


「他の影妃様方は、すでにお揃いです」


 視界の隅で、ユリ影妃が侍女の腕をぎゅっとつかむのが見えた。


(嫌な予感しかしないんですけど……!)


 館内へと歩を進める中、ニアの視線がじっと私に注がれている気がした。

 まるで、この場にふさわしいかどうか、試されているかのように。


(油断できないわね、この子)


 ――ノワール・マナーは、美しく、そして異様なほど整えられていた。


 黒曜石の床は艷やかに光を反射し、

 壁に並ぶ黒銀の燭台からは、青白い魔法の灯火が揺らめいている。


 広々とした玄関ホールは高い天井を有し、天蓋のように広がる漆黒の梁には、

 精緻な文様が彫り込まれていた。

 冷たい空気が澱む中、奥へと延びる魔法陣の刻まれた階段が静かに待ち構えている。


 装飾の一つひとつに異様なまでの手間がかけられており、

 ここがただの住まいではないことを雄弁に物語っていた。


(……暗い場所ね)


 まず通されたのは、控えの間だった。

 小さな暖炉に火は灯っているが、温もりは感じられず、

 壁際には椅子がいくつか並び、金縁の姿見がぽつんと置かれていた。


「お召し物の乱れなどございましたら、こちらでお整えくださいませ」


 ハルの声は淡々としていたが、その目は細部まで観察していた。


 身支度を整えた後、私たちは再び案内され、静まり返った階段を上っていく。

 二階へと続く廊下には、美しい彫刻が施された柱が並び、

 微かに魔力の脈動を放っている。


 ――足を踏み出すたび、冷たい魔力が足元から立ち上るような気がした。


 廊下の奥で立ち止まったハルが、重厚な扉へと手を伸ばす。

 わずかに篭った空気が流れ出し、かすかに焦げたような匂いが鼻をかすめる。


「こちらが応接間でございます。どうぞ、お入りください」


 扉の向こう、応接間には黒皮のソファがいくつも並び、

 豪奢さの裏に、冷たく張りつめた空気が淀んでいた。


 壁には銀糸で編まれた細やかな模様が描かれており、

 魔法によって鈍く輝きを放っている。


 そしてそこには――。


 三人の影妃たちは、侍女を背後に従えながら無言で腰かけていた。

 まるで新入りを値踏みするかのように、ぞっとするような目つきで見つめてきた。


 三者三様の美貌を持ちながらも、華やかさを誇示するような装い。

 堂々と中央に陣取る姿には、誰もが黙って従わざるを得ないような迫力があった。


 ただ、黒いドレスのせいか――あるいは何か別の要因か――

 彼女たちの頬はやつれ、肌も青白く見える。


(病気でも流行ってるのかしら?)


 年齢は十代から二十代前半といったところだろう。

 私が二十二歳になったばかりなので、明らかに年下と思う者もいる。


 見つめていたことに気づかれたのか、一人の影妃が眉をわずかに吊り上げた。


 私たちは自然と、その外側――まるで末席のような位置へと導かれていく。


 どれほど広い邸宅であろうと、大勢の妃たちが共同生活を送れば、衝突が起きないはずがない。

 この応接間にも、それを物語る傷跡が残されていた。

 壁に刻まれた引っ掻き傷、ひび割れた花瓶、焦げ跡の残る絨毯――。


(ここでは、大人しく振る舞ってたほうが賢いわね)


「シャロン・ファルネスって、どっち?」

「!」


 ユリ影妃が、即座に私へと視線を向けた。

 自分に火の粉が降りかからないようにする、その反応の速さには、ある意味で感心するしかない。

 ハルとニアも、同じように私を見つめていた。


「私でございます」


 名乗った瞬間――影妃の一人が音もなく立ち上がった。

 ドレスを翻しながら真っ直ぐ歩み寄り、

 ギラリと光る金色の瞳が私を射抜いた――その刹那。


 バチン!


 身構える間もなく、頬に強烈な衝撃が走った。

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