第6話 色彩の権力と嘲弄
――『金蘭の間』。
踏み込んだ瞬間、全身を殴打するような魔力の波が押し寄せた。
香水瓶を床に叩き割ったかのように、空気が濃密な魔力で満たされていた。
(これが後宮……さすがに圧がすごい)
女官長の背中越しに覗くと、豪奢なシャンデリアが揺れ、
淡く発光する磨きあげられた魔法石の床が目に入る。
視線を奥へ滑らせると、華美なドレスを纒った女たちが並んでいた。
高貴さを誇示するように、豪華な椅子に腰かける彼女たち。
――赤いドレスの女が、二人。
――紫のドレスの女が、四人。
――青のドレスの女が、六人。
全員が、私たちの存在に気づいて顔をあげた。
その瞬間、ざぶッと、足元に魔力の波がまとわりつく。
顔を隠す繊細なベール越しに、感情の読めない視線が私を抉る。
隣の影妃たちは、強烈な魔力にあてられて、かすかに震えていた。
女官長は圧力をものともせず、威圧感さえ跳ね除けるかのように進む。
後宮を仕切る彼女の権力の絶大さが、その歩みにも滲んでいた。
肩を寄せ合うようにして進んでいた、そのとき――
「ねえ、あの人たち誰?」
私は小声で隣の影妃に尋ねる。
すると彼女は信じられないという顔で震えた声を返してきた。
「上位妃さまたちに決まってるでしょ……!」
私たちの会話が耳に入ったのか、女官長がふとこちらを振り返る。
「あちらの赤いドレスを纏われているのが『一妃』。最も高位の妃さま方です。
その隣が『二妃』――紫のドレスを纏う方々。
そして、青のドレスを纏われているのが、『三妃』でございます」
赤、紫、青。
その鮮やかな色が結びつけるのは、権力の序列そのものだった。
「もっと、勉強しておきなさい」
「……申し訳ございません」
女官長が静かに歩みを進め、その後ろを影妃たちが慎ましく続く。
私も遅れないよう、慌てて彼女たちに倣い、足早に追いついた。
影妃たちと同じく跪き、二人が名乗るのを見て、私も名を告げようとした――が。
「シャロン・ファルネスよね?」
はっとして顔をあげた。
けれど、ベールがあるせいで、誰が言ったのかはわからない。
声だけが、圧しかかるように降り注いだ。
「はい」
「まあ、なんて愛らしいお顔。
その美貌に免じて、陛下が目を留めてくださるといいわね」
同じ声だ。
紫の妃……二妃の一人。
淑やかなドレスの色とは対照的に、燃えるような赤い髪をなびかせている。
「けれど、所詮は影妃。身の程はわきまえなさいね」
「…………」
「お口が悪いわよ」
割って入ったのは、もう一人の二妃。
美しい黒髪をゆるく束ねた姿が見えるが、表情まではわからない。
「三千人の女官から選ばれたお方ですもの。
それなりの敬意は払うべきでしょう」
「ああ、たしかに。影妃になれてよかったですわね。
けれど九十九位……ふふ。
あら、ごめんなさい。聞こえてしまいましたか?」
わざとらしい含み笑いが耳に刺さる。
姿の見えない相手に、嗤われる不快感がじわじわと膨れ上がった。
(……性格悪すぎじゃない?)
妃たちの間に、くすくすと小さな笑いが広がっていく。
「それにしても――」
やがて銀髪の三妃が、その空気を裂くように、
無邪気な口調で言葉を投げかける。
「テオの好みも、ずいぶんと変わったのね」
その何気ない言葉が放たれた直後、空気が鋭く張り詰めた。
妃たちの多くが、睨むような視線を彼女に向ける。
(今、テオって……?)
赤毛の二妃などは肘掛けにギリッと鋭い爪を立てて、苛立ちを隠そうともしない。
ただし、一妃の二人は、微動だにせず座している。
その威厳ある佇まいは、他の妃たちとは明らかに異なっていた。
さらに、いくつかの妃たちも同様に無関心を装っている。
その沈黙が、かえって三妃への侮蔑を示しているように思えた。
「まあまあ、怖いわ。
私ったら、ついい口が滑ってしまっただけですの。
テオには内緒にしておいてくださいませ」
睨む視線にまったく動じず、三妃は、
ベールの奥で無邪気な笑みを浮かべたように見えた。
(わぁ、女同士の戦い……強烈……)
魔力の圧力がじわじわと体を締め付けてくる。
さらに――。
「一度も寝所にお呼ばれしたこともないのに、
ずいぶんと口が軽うございますわ」
ピリついた沈黙を裂くように、赤毛の二妃が鋭く言った。
だが、三妃は肩をすくめるだけだ。
「まあ……それは皆さまも同じではございませんこと?」
挑発するような笑み。
その発言に、何人かの妃たちが身動ぎした。
だが、一妃たちは依然として微動だにせず、無関心を貫いている。
高みから見下ろすような威厳が、他の妃たちとは明らかに違っていた。
「陛下は大罪人の捜索にご執心でいらっしゃいますもの。
私たちごときでは、とても及びませんわ」
不意打ちの、三妃の言葉に、反射的に体が跳ねた。
「早く捕らえていただけないかしら。
どれほどの醜女なのか、興味が尽きませんわ」
「そうですわね。せいぜい惨めに逃げ隠れしているのでしょう」
「きっとみすぼらしい姿をしているに違いありませんわ」
嘲笑うような声が次々と浴びせられる。
私は顔を伏せ、目を閉じた。
(知らん顔をして、耐えていればいい。
私は目的を達成するためだけにここにいるんだから……)
「――ねえ、ファルネス影妃」
突然名を呼ばれ、思わず顔をあげた。
さきほどの三妃が、ベール越しにこちらを見つめていた。
「あなた、ここに来る前は冒険者だったとか。
……ミルディナの行方について何か聞いていないの?」
「さ、さあ……存じ上げません」
「使えない方ですこと」
「……申し訳ございません」
乾いた嘲笑が重なり、空気はさらに冷え込んだ。
言いようのない不快感が、喉元を締めつけた。
(ここは後宮。いやなところだ、本当に――)
やがて、上位妃たちへの謁見は終わった。
部屋を出た瞬間、影妃たちはまるで溺れかけた人のように、大きく息を吸い込んだ。
その場に突っ伏すように倒れ込み、
外で控えていた侍女たちが、慌てて駆け寄ってきた。
私も思わず壁に手をついたが、女官長は何も言及せず、
ただ三人の影妃が正気を取り戻すのを黙って見守っていた。
おそらく、これが常態化しているのだろう。
(ここで正体がバレたら終わりね……)
私は拳を握りしめる。
自分の存在が、彼女たちの嘲弄の中に含まれている恐怖。
勇者殺しの魔女。
(やっぱり……私は、許されないのね)