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勇者の後宮と囚われの魔女~偽りの妃、執着の皇帝~  作者: 桐山なつめ
第2章(後編) 嘘と真実、そして聖剣
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第9話 夜、二人きりで

 ――『陛下が、お部屋でお待ちです。すぐにご支度を』


 時刻はすでに二十二時を過ぎていた。


 焦っていたのだろう。

 女官長の第一声は乱れ、抑揚も硬かった。


 夜の静けさに包まれていたノワール・マナーが、突如としてざわめきに満ちる。

 敷き詰められた絨毯を踏み鳴らす足音が連なり、

 控えめなはずの呼吸や衣擦れすら、空気を震わせるようだった。


 皇帝つきの女官たちが、ずらりと私の部屋に控える。

 揃いの薄灰色の制服に身を包み、所作や佇まいには一糸乱れない。


 だが、その表情には、わずかな動揺が滲んでいた。


 どうやら今夜の一件は、彼女たちにとっても予定外らしい。

 扉の外では、小声の打ち合わせが交わされており、

 その背後に漂う焦燥が、空気を不穏に染めていた。


 妃である私に対してすら、最低限の礼節も守り切れていない。


 命令の主――テオドリックが、どれほどの切迫をもってこの召喚を命じたのか。

 それが、彼女たちの振る舞いから嫌でも伝わってきた。


「ファルネスさまには、平素よりお仕えの方がいらっしゃらぬと承っております。

 何卒、無礼の段はご容赦賜りますよう、お願い申し上げます」


 私が返事をする前に、数人の女官が、容赦なく私の体に手を伸ばしてくる。


 衣服を剥がされ、美しい飾りを施されながら髪を結い上げられる。

 魔法で肌の血色が整えられ、唇には濡れたような艶が加えられた。

 指先には紅が塗られ、身体も清められていく。

 そして、最後に一吹き――熟れた果実のような甘い香を、頭上に振りかけられる。


 まるで、飾り物を仕立てあげるかのように。


 けれど肩に触れる指先も、髪を梳く手つきも、どこか荒い。


 あれよあれよという間に、厚みのある布で体を包まれ、外へ連れ出された。

 その下に隠された薄布のローブは、ひとたび歩けば腿に張りつき、

 立ち止まれば胸元の輪郭をあらわにする。


 二階の窓からは、ノワール・マナーの四人が私を見下ろしていた。

 羞恥に身悶えする。


(気まずい……!)


 そうしてまともに足元も整わないまま、強引に馬車へと押し込まれた。

 馬車が発車しても、同乗する女官たちの表情は固い。


「このたびの御下命、誠に私どもにとりましては予期せぬことでございまして……

 不手際がございましたならば、何卒ご容赦くださいますよう、お願い申し上げます」


 隣に座る女官長が、淡々と言った。

 己の立場に、情けなさがこみ上げてくる。


 顔をあげると、向かいに座る女官たちは目を逸らすこともなく、無遠慮にこちらを観察していた。

 着崩れを見ているわけではない。


 ――なぜ、テオドリックが新米の影妃を

 ……それも自室にまで呼びつけるのか。


 ただの寵愛とは思われていない。

 何か裏があるのではないか――そんな疑念が、彼女たちの目に宿っている。


 心がざわつく。


(……落ち着くのよ、私)


 焦燥を押し殺すように、

 小さな窓へと顔を向け、そこに映る"シャロン・ファルネス"を見やる。


 銀の髪はばっさりと切り落とし、肩にかかる黒髪に。

 金の瞳は、魔法によって深い墨色に変えている。

 つり上がった目元は、柔らかな弧を描くように補正し、輪郭もなだらかに。

 鼻と口の位置も、形も異なる。

 テオドリックと肩を並べるほどだった身長も縮めた。

 その結果、声音も変わった。


 肌の色も、指の節も、歩き方すらも。

 変身術の粋を注ぎ込み、徹底的に"ミルディナ"を削ぎ落とした。


 どこにでもいる、少しおっとりとした、器量は良くても目立たない女。

 たとえ至近距離にいても、見破られるはずがない。


(もし夜会でバレていたなら、その場で拘束されていたはず)


 おそらく、疑惑はあっても確信にまでは至っていないのだ。


 ローブの裾に、自然と指がかかる。

 その布地を握る指先に、じっとりと汗がにじんでいた。


 大丈夫。この一夜を乗り切れば、まだ仕切り直せる。


(自分を信じるのよ、ミルディナ!)


 それでも、動悸はおさまらない。

 断頭台に引き出された囚人のような恐怖が脈打っている。


(行きたくない……!)


 ◆ ◆ ◆


 剣聖宮。

 二階へ続く階段の手前に立った瞬間、空気が変わった。


 ここから先は、皇帝と皇后にのみ許された神域だ。


 肌の表面がざわつく。

 誰もが足を止めたくなるような、見えない圧が、真正面からのしかかってくる。


 警備兵たちは沈黙したまま、表情ひとつ動かさずに道を開けた。


 女官たちに導かれながら、一歩、足をかける。

 途端に、足裏からかすかな魔力を感じた。

 見えない膜を抜けたような気配に、思わず息を呑む。


 上りきった先の回廊は、想像していたよりも遥かに広く、静かだった。


 白い床がどこまでも続き、整然と並ぶ柱が左右対称に連なっている。

 壁には余計な装飾ひとつなく、ただ無機質な白と銀の装飾が彫られているだけ。

 窓から差し込む月明かりを受けて、全体が淡く青白く染まっている。


 ほぼ裸足の足裏に、冷ややかな床の感触が、じわじわと染み込んでいく。

 水を打ったような冷気がまとわりつき、自然と背筋が伸びる。


 目に見えぬ冷気が、霞のようにたなびいているようだ。

 漂う孤独そのもののような、しんとした冷たさだった。


 すれ違う者はおらず、私たちはまるで夜の砂漠を往くキャラバンのようだ。


(なんて寂しいところ……)


 どこまでも続く、白い回廊。

 その左手には、いくつもの扉が等間隔に並んでいた。

 だが今は、どれも堅く閉ざされ、人の気配すらない。


 回廊の突き当たりには、二つの大扉が向かい合うように並んでいた。

 どちらも白く、金の装飾が施されているが、細部の意匠が異なる。


 ――向かって左の扉には、結界の光が淡く揺れていた。


「あそこは……?」

「皇后さまの私室でございます」


 女官の言葉に、心がひときわ強く揺れた。


 皇后。

 テオドリックと唯一、対等に並ぶことを許された存在。

 いまだその席は空席。

 けれど、いずれあの扉が開かれる日も近いだろう。


 私は、無意識に目を逸らしていた。

 そんな自分に、少しだけ驚く。


 向かいの扉の前には、剣を佩いた門衛と剣宮衛たちが控えていた。


 説明されるまでもない。

 テオドリックの私室に違いなかった。


 女官長が足を止め、一歩、前へ出る。


「陛下のご下命により、影妃ファルネス殿をお連れいたしました」


 名が告げられた瞬間、門衛が軽く顎を引いた。

 それを合図に、剣宮衛が静かに、しかし重々しく――左右の扉を押し開いた。


 とたんに、空気が変わった。


 静寂が支配する空間。

 扉の外とはまったく別の気配――それは、呼吸すら躊躇うような圧。


 女官長を除く女官たちは、立ち入りを許されていないようだ。

 深く腰を折ると、私たちを見送った。


 そのまま女官長に連れられ、禁衛兵たちが控える警護室を通り過ぎた。

 彼らは正面を向いたまま立っており、蝋人形のように誰一人として微動だにしない。


 重厚な扉をいくつもくぐり、

 来客用の控えの間、応接室、そして執務室と進むにつれ、息苦しさが増していく。

 テオドリックの奥深くに沈んでいくような、底知れぬ恐怖に包まれる。


 そしてようやく辿り着いたのは――寝室の扉の前。

 廷臣と思われる初老の男と、剣宮衛二人が扉の外に控えていた。

 見覚えのある横顔に、胸が詰まった。

 この二人は、夜会にも付き従っていた男たちだ。


 女官長が私から毛布を取った。

 その瞬間、ぞっとするような寒気に身震いする。


 彼女は結い上げられた飾りに乱れがないか、目を細めて丁寧に確認する。

 細心の注意を払って、全体の仕上がりを見渡し、最後の仕上げに襟元を整え、香を吹きかける。

 その様子を、廷臣と剣宮衛たちは表情ひとつ変えず見守っていた。


 羽織ったローブの裾を指先で握り込む。


(……これじゃ、ほぼ裸じゃない)


 こんな姿を人前で……しかも、テオドリックに晒すなんて――。


 支度が整った頃合いで、廷臣が深く息を吸い込み、扉に向き直る。

 咳払いをひとつ鳴らすと――

 ややあって重厚な扉が、ゆっくり開かれた。


「遅かったな」


 扉の向こうに、テオドリックが立っていた。

 低い声が響き、心臓がドクンと鼓動を打つ。


 冷ややかな視線が、私に注がれる。


「このたびは、お招きいただき、誠に光栄に存じます」

「御託はいい。入れ」

「………………はい」


 ――いやだ。入りたくない。


 やっぱりバレた? いつ? どこで?

 たしかに、あんな派手なことをしたら不審に思われて当然だ。

 というか魔道具について、べらべら喋ったのも悪い。


(ああ、私の馬鹿ッッ!!)


 後悔が押し寄せて、胸が押しつぶされそうだ。

 立ちすくむ私を見かね、背後で控えていた女官長は咳払いをする。

 私は俯いたまま、無理やり足を進めて部屋へ踏み込んだ。


 女官長も共に入室しようとしたが、テオドリックは厳しい視線を投げた。

 彼女は顔を強張らせると、深く頭を下げ、引き返していく。

 さらに廷臣と剣宮衛たちも、出て行くではないか。

 おそらくテオドリックがあらかじめ命じていたに違いないが……


(ちょっと待って、行かないで!)


 けれど、重々しい扉が大きな音を立てて閉じられた。


(ひん……ッ)


 テオドリックはこちらを振り返りもせず、部屋の奥へと進んでいく。

 覚悟を決めて、ちらりと顔をあげる。


 想像していたよりも、寝室は手狭だった。

 白を基調とした室内は、壁も床も天井も、美しく磨き上げられている。

 乱れひとつなく整然と保たれた空間の中、壁には額縁がひとつだけ。

 まるで忘れられたように、ひっそりと掛けられていた。


 魔灯の揺らぎが壁を濡らし、室内は薄暗い。

 その中を、開かれた窓とカーテンの隙間から差し込む月光が、斜めに床を照らし出している。


 部屋の隅には、革張りのソファと長机。

 机の上には重ねられた本と書類の束。

 テオドリックの勤勉さを、何より雄弁に語っていた。


 そして。

 ――白金の細工が施された、質素な寝台。


 ローブの前をかき合わせる。


「……陛下、お一人ですか?」

「ああ」


 短く、淡々とした返答。

 皇帝の部屋には、夜の護衛を務める侍従、寝具の世話をする侍女が出入りすることもある。

 それに、羞恥ではあるが、この一夜を記録する者がいてもおかしくはなかった。


 けれど、その気配はない。

 困惑した私を見透かすように、彼は呟いた。


「いつものことだ」


(……いつも?)


 反射的に、視線を向けた。


(夜が怖いんじゃ……なかったの?)


 かつての旅では、毎晩、私たちと相部屋を望むほどの寂しがりやだったのに。

 声になりかけた言葉を、唇で塞ぐ。


(……私が口を出す資格はない)


 テオドリックは無言のまま窓辺に近づくと、パタンと窓を閉めた。


(ひぃ……)


 彼はそのまま窓辺に寄りかかり、ようやく私に向き直る。

 月明かりを背に立ったテオドリックは、まるで人間らしさを感じられなかった。


 黒を基調とした上衣を、白いシャツの上から無造作に羽織っている。

 開いた襟元からのぞくのは、鍛え上げられた首筋。

 そして――その喉元を絞めつけるかのように滲む、黒い魔王の呪い。

 皮膚を這うようなその痕が、痛ましい。


 そして、その腰には――むき身の聖剣が携えられていた。


(……聖剣……)


 直後。


「座れ」


 低く落ちる声に、体が強張る。

 言われるがまま、長机の傍に置かれた小さな椅子に腰を下ろした。


(一体何が始まるの……)

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― 新着の感想 ―
ひしひしと伝わる緊張感‼️これからどう展開するのやら・・・毎日更新を待っている私がいる。 頑張って下さいね。
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