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第8話 聖剣の一閃

 ――沈黙。


 グリゼナは、自らに剣を突きつけるテオドリックを見上げたまま、震えていた。

 その姿を、誰もが固唾を呑んで見守っている。

 だが、その刹那。


『テオドリック……』


 鼓膜を舐めるような、地の底から這い出るような声が、広間にじわりと染み込んできた。


(また……あの声)


 私は息を詰め、グリゼナの鏡に視線を走らせた。

 鏡面が、不自然なほどに波紋を描いて揺れている。


 そして――

 鏡がふわりと、宙に浮かび上がった。


「貴様は何者だ」


 テオドリックが聖剣を構えたまま、低く問いかけた。

 その声音は、威嚇ではない――断罪を前提とした、冷ややかな確認だった。


 鏡面が、音もなく漆黒に染まる。


 次の瞬間、闇の底から這い出すように、無数の黒い手が鏡面を突き破った。

 そのすべてが、まっすぐにテオドリックを標的に伸びてくる。


(――なに!?)


 私は反射的に、封魔の環(シール・リング)を引き抜いた。

 だが、その魔力が展開するより早く――


 蒼白の光が、視界のすべてを灼いた。


 聖剣が閃く。


「――天壊雷閃(てんかいらいせん)


 テオドリックが、鋭く唱える。

 神威を宿したかのように雷光を纏い、刃が蒼く、重く、力強く弧を描く。

 雷そのものが斬撃と化していた。


 これは――異形を断ち切る、勇者の刃。


 何かが動いたと認識する間もなく、鏡は粉々に砕け散っていた。

 衝撃音が遅れて広間に落ち、破片が銀の雨のように床を叩く。


 が、核を失った栄華の鏡は、すぐに砂と化した。

 枠だけが命を失った骸のように、転がっている。


 轟音。沈黙。戦慄。


 影妃や女官たちは、声を失ったまま立ち尽くし、

 侍女たちは怯えきったようにその場に凍りつく。

 黎妃たちは、一斉に身を引き、数人はその場に崩れ落ちた。


 これが、魔王を斬り伏せた勇者の剣技。


 神に選ばれ、魔を討つために鍛え上げられた刃。

 ただ一度振るわれるだけで、すべてを消し飛ばす。


(さすが……勇者。実力は、健在……)


 ――だが。


(……鏡から伸びた手……)


 小さな引っ掛かりが、胸に残った。

 あれは確かに、テオドリックへ向けての攻撃。

 それを彼は、ためらいなく両断した。

 ……拒絶するように。


 なぜか、あの手に……私は言いようのない哀れみを覚えた。

 説明のつかない違和感。

 けれど、明確な理由も根拠も見つからない。


 どこかで、重たく濁った声の残滓が響く。


『……貴様も……嘘つきだ』


 聖剣を握るテオドリックの動きが、ぴたりと止まる。

 青い目が大きく揺れた。後宮に来てから初めて見る、明らかな動揺だった。


 声は、闇に溶けるように消えていく。


 テオドリックは口を引き結び、無言のまま、聖剣の切っ先で床を弾いた。

 その仕草には、苛立ちと……底知れぬ迷いのようなものが滲んでいる。


 ――『ファルネス、嘘つきめ』


 あの声が何者なのか。

 言葉の真意すら分からない。

 しかし、このままではきっと終わらない。


 とても嫌な予感がする。


「…………」


(嘘つきか)


 私はそっと目を伏せ、素早く封魔の環(シール・リング)をはめ直す。


(……考えるのは、あと)


「……ああ、鏡が……」


 かすれた声に、振り返る。

 グリゼナが床に崩れていた。

 焦点の合わない瞳で、鏡の破片を探すように手を伸ばしている。


「なんで、壊しちゃうの……」


 その声に、もはや誰も反応しない。


「鏡をどこで手に入れたのか、吐いてもらうぞ」


 剣宮衛の無機質な声が落ちた。

 グリゼナは虚ろな目をしたまま、力なく彼らに連れ去られていった。


 皆、自身が抱く感情に名もつけられず、ただ虚空を見つめるしかないようだった。

 しかし、誰かがこらえきれずに、小さな咳払いをした。


 なみなみと注がれたコップの水が溢れ出したように、場の緊張が一気に弛緩する。

 異様なまでに明るい声が飛び交った。

 グリゼナの狂気を、無理やりにでも忘れたいのだ。


 そんなざわめきの中。

 私は未だ立ち尽くしたまま、傍らのテオドリックから目を離せないでいた。

 視界の隅で、席に戻ったロロたちが、私の様子を窺っていることに気づいた。

 けれど――動けない。


「なぜ抵抗しなかった」

「……!」


 静かに、強烈に。

 口火を切ったのは、テオドリックだった。


「それは」


 彼が振り返る。探るような眼差しに背筋が伸びる。

 反射的に視線を逸らした。


「……気持ちが、少し理解できてしまったからです」

「……」


 テオドリックは呆れたように、ため息をついた。

 わずかに肩が沈み、次の言葉が続く。


「魔道具は、意思を持たない」

「……はい」

「だが、あれは――僕を呼んでいた」

「……あり得ないことが起こっています」

「……」

「……そもそも栄華の鏡ごときが、あれほど人の魔力を吸えるはずがありません。

 せいぜいD級魔道具でしかない鏡。効力も、長くて一時間のはず。

 それなのにグリゼナさまは、あんなにも長時間、美貌を保ったまま……。

 鏡がひとりでに浮く、手のようなものが出現する……おかしいです。あり得ません。

 ……もっと徹底的に、解体して調査を――」


 そこで。

 じっと注がれている視線に、気がついた。


(ああああああ~~~!)


 やってしまった!!


「いやあ、あの、なんて。……えへへ」


 慌てて笑顔で取り繕ったが、テオドリックの表情は徐々に曇っていく。

 サーッと、気が遠くなりそうだった。

 彼の唇が、わずかに開いた――その時。


 ガシャン!


 聖剣が手から滑り落ち、硬い音を立てて床を打った。


「くっ……」


 彼は呻きながら、その場にうずくまった。


「陛下!?」


 思わず駆け寄り、膝を折って様子を窺う。


「……あっ」


 テオドリックの両手首に、黒い痣が浮かび上がっていた。

 紛れもなく、魔王が遺した呪いだ。


(こんなに侵食されていたなんて……)


 私が言葉を失っていると、


「……無様だろう。たった一振りでこのざまだ」


 テオドリックは忌々しげに呟いた。

 かけるべき言葉が、見つからない。


(鞘がなければ、剣を振るうことすらできない……)


 立っているだけで、命を削っている。

 ――そんな現実を、ようやく実感した。


「陛下、お怪我はありませんか」


 異変に気づいた侍官が、早足で近づいてくる。

 テオドリックの意識が、逸れた。


(今なら、柄に触れられる!)


 私は、素早く転がった聖剣に伸ばした。


「触るな!!」


 雷鳴のような声に、肩が跳ねて喉から「ひっ」と喉から声が漏れた。


 とっさに振り返ると、テオドリックがきつく私を睨んでいた。

 殺意を孕んだ形相に、胸を灼かれるような恐怖が走った。


「も、申し訳ございません……!」


 慌てて手を引き、すぐさま跪いて頭を下げる。

 揃えた指が震え、歯が鳴った。

 テオドリックが深く息を吐き、ゆっくり立ち上がる気配がした。


「……この聖剣には、誰も触れるな」

「……はい」


 私は顔をあげられず、ひたすら床にひれ伏していた。

 垂れた髪の間から、聖剣を拾い上げるテオドリックの震える腕だけが見えた。

 彼からの言葉は、ない。

 けれど、丸めた背には突き刺さるような視線を感じた。


(……怖い)


 彼は一言も発しない。

 永遠とも思えるような間のあと……

 侍官に支えられながら、テオドリックはサロン・ドールを静かに去っていく。


 私は、その背中を――ただ、見送った。


(どうしよう。柄に触れられなかった)


 私がテオに近づける機会なんて、

 もう――二度とないかもしれないのに……。


 足に力が入らず、その場にぺたりと座り込む。


(失敗した……)


 どうすればいい?

 どうすれば、テオドリックを救えるの……!?


 ◆ ◆ ◆


 ――しかし、その夜。


「陛下が、お部屋でお待ちです。すぐにご支度を」

「…………え?」


 自室に戻った直後。

 女官長が訪れ、処刑宣告のように言い放った。


(……あ、これ終わった)

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