第4話 鏡のないサロン・ドール
「それは、何だ?」
テオドリックは歩み寄りながら、グリゼナへ鋭く問いかけた。
異変を察した侍官や剣宮衛たちも、静かに主君へ追随する。
グリゼナはぎくりと肩を震わせたが、すぐに取り繕うように、艷やかに微笑んだ。
「市場で購入した魔道具ですわ。名を――『栄華の鏡』」
「……」
テオドリックは警戒の色を滲ませながら、手鏡をじっと見つめた。
「……能力は?」
「映した者を、理想の姿にしてくれますの」
彼女の声は滑らかだったが、どこか張り詰めた緊張が混じっていた。
周囲の黎妃たちは、興味深げに耳を傾けている。
テオドリックの表情が、ますます険しくなる。
「本当に、それだけか」
「……え? は、はい。……もちろんですわ」
そこで、
「陛下。グリゼナさまの美しさは、魔道具の力だけではございませんの」
「もともと、たいへんお美しい方なのです」
「そうです。日に日にお綺麗になって――」
侍女たちが次々と口を開き、声を重ねる。
まるで、お互いに競い合うように。
媚びるような笑みの奥に、グリゼナへの怯えが滲んでいるように思えた。
しかし、テオドリックは彼女たちに興味も示さず、視線を鏡から逸らさない。
「妙な気配がする」
低く放たれた言葉に、広間の空気が、かすかにざわついた。
黎妃たちだけではなく、影妃たちも探るような目つきで様子を窺っている。
「渡せ」
テオドリックが手を伸ばしながら命じると、
グリゼナはとっさに手鏡を取って胸に抱いた。
「陛下……これは、その……」
眉根を寄せる彼の目には、不審の色が濃く浮かぶ。
さらに一歩踏み出して鏡を睨みつけた、その瞬間――。
「……ッ」
突然、目元を抑えて呻いた。
(……!)
侍官たちがすぐに動こうとするが、彼は片手を上げて制止する。
「陛下? ど、どうされましたの」
「……いや」
テオドリック自身も、原因が掴めないようだった。
右目を抑えたまま、油断なく周囲を見渡す。
その姿は、かつて魔物の存在を感じ取った刹那、
剣へ手を伸ばしたときと、よく似ていた。
けれど――あの頃のような力強さは、なかった。
心がざわめく。
(……呪いのせい? 身体が、ついてきていない)
(……今にも崩れそう)
――私のせいだ。
けれどその体に宿るものは、確かだった。
張りつめた気迫――そこに、間違いなく"殺気"が宿っている。
場にいた者たちも、それを敏感に察したのだろう。
談笑の声はすっと消え、代わりに、息をひそめるような沈黙が広がった。
私は席に座ったまま、身動きひとつできない。
動けば何かが壊れてしまいそうで。
ただ、視線だけで辺りを探った。
「…………」
(……テオの殺気だけじゃない)
(空気が重たい――何かが、流れを変えた)
目には見えない。
しかし、明らかに"魔力"が、蠢いていた。
まるで誰かの手が、空間をかき混ぜたような――そんな奇妙な感覚。
何者かの、強烈な意識が肌を撫でていくようだった。
身体の奥へ、冷たい感触がすべり落ちた。
肌が粟立ち、指先が冷える。
――覚えがある。
これは、衣装室の姿見から感じた、あの感覚だ。
私は反射的に広間を見渡した。
眩い照明に、輝く食器、着飾った妃たち、穏やかな旋律。
何ひとつ、乱れていない。
……けれど。
(おかしい)
この『サロン・ドール』には、鏡は一枚もないはずだ。
ここに通されたとき、私はそれを確認している。
目に見える範囲に、鏡はない。
……けれど、息苦しい。
この圧迫感は――いったい何だ?
壁に掛けられた、一枚のタペストリーに目が止まった。
(……)
その下から……
わずかに光るものが、はみ出していた。
(……あれは……)
私は椅子から身を起こさず、そっと身体をひねって視線を送る。
不意に。
風もないのに、タペストリーが――ふわりと、音もなく、めくれた。
露わになったのは――鏡面だった。
「……ッ!!」
背筋を裂くような悪寒が走った。
何の装飾もない、冷たい平面が、静かに
……そこに映る"何者"かが、じっとこちらを見つめているようで。
タペストリーだけじゃない。
壁に掛けられた油彩画、重ねられた装飾布も……
そのすべてが、ほんのわずかに壁から浮いていた。
目を凝らすと、その下にあったのは――鏡。
(この広間、鏡で……囲まれている)
鏡が、鏡が、鏡が――
気づかぬうちに張り巡らされた"目"に、私たちは閉じ込められていた。
(何、これ)
この空間そのものが、意思を持っているかのようで――怖気立った。