第3話 美しいのは、一人だけ
(……なんで、こっちを見るの)
テオドリックの瞳は、私を捉えたまま微動だにしない。
私の表情の奥に隠された何かを、探っているかのようだった。
睨まれているわけではない。
それでも、まっすぐに向けられた視線が皮膚の下を這い、胸をひりつかせる。
やがて、彼の眼差しに気づいた黎妃たちが、訝しげにその先を追い、こちらを振り返る。
――視界の隅で、グリゼナが目を細めた。
私は堪えきれず、顔を伏せた。
「陛下、どうなさいました?」
傍らの侍官が、躊躇いながら声をかける。
テオドリックは短く息を吐き、
「……いや」
とだけ応えると、促されるままゆっくり歩き出した。
その足音は、まるで周囲の空気を巻き込むように重く響く。
やがて玉座に腰を下ろすと、場の空気がさらに沈み込んだ。
楽団の演奏も、いつの間にか止んでいる。
張り詰めた沈黙――。
テオドリックは腕を組み、冷えた視線で広間をゆっくりと見渡した。
そして――私の足元、割れたグラスに目を止める。
汚らわしいものでも見たかのように。
唇の端が、ほんのわずかに歪む。
「……悪趣味な女がいたものだ」
静かでありながら、刺すように冷えた声が、空気を鋭く切り裂いた。
グリゼナの肩が、わずかに震える。
誰も、言葉を発せない。
気まずげに、侍女のひとりがそっと身をかがめ、
グラスの破片を片付けようと床に指を伸ばす。
カチャッ――。
その小さな音が響いた瞬間、広間にいた者たちが、ようやく息を吐いた。
意識が、ふと現実に引き戻される。
背にそっと触れる温もりに、思わず振り返った。
そこにはユリがいて、目配せをくれた。
その気遣いに、ほんの少しだけ力が抜ける。
三人でグリゼナへ礼をして、ドレスの裾を翻しながらその場を後にした。
けれど背中には、まだあの視線の重みが残っている。
ノワール・マナーの席に戻った瞬間、私はようやく呼吸を吐いた。
ロロたちは私をちらと見たが、すぐに顔を背ける。
おずおずと椅子に腰を下ろし、改めて背筋を伸ばすと――。
とぷっ。
私の空いたグラスに、透明な水が満たされていく。
(……!)
信じられない思いで顔をあげると、スワンが私のほうを見ずに、
囁くように魔法を詠唱していた。
ロロもルカも、ユリも――
皆、テオドリックに意識を向けていて、誰もその手元には気づかない。
まばゆい光を受けてきらめく水が、とても眩しい。
「あの……」
礼を言おうと口を開きかけたが――
「お食事をお持ちいたしましょうか」
「いらん」
テオドリックと侍官のやり取りが、静まり返った広間に大きく響き、空気が再び凍りつく。
その鋭さに喉が詰まり、声を出せなかった。
彼は何も口にせず、ただ座し続けている。
その瞳が――また、私へ向けられた。
氷の刃で首筋をなぞられるような感覚に、
ぞわりと寒気が背筋を這い上がる。
(……まさか、バレてる?)
探るように、試すように、暴くように。
身体ではなく、心の奥を、なぞられているような――無言の問いかけ。
――違う、違うの。私は、シャロン。
お願い、気づかないで。
呼吸が浅くなる。手が、震えている。
私はテーブルの下で指先を握りしめ、なんとか平静を装っていた。
その時だった。
――カツン。
緊張に覆われたこの場へ、亀裂を入れるかのように。
軽やかなヒールの音が響いた。
「陛下。ごきげんよう」
グリゼナが優雅に微笑みながら、テオドリックへ近づいていった。
自分に向けられた評価すら意に介さず、堂々と歩み寄る姿に驚きを覚える。
それだけ、テオドリックが臨席するこの場が、どれだけ貴重で――
彼女にとっての好機なのかが見て取れた。
彼女の声に、ようやくテオドリックの視線が私から外れた。
その瞬間、ようやく息ができた気がした。
(苦しかった……)
震える手で、グラスの水を一気に飲み下す。
胸の奥がじんと焼けるように熱い。
(これじゃ、聖剣の柄に触れるどころか、近づくことすらできない)
私はそっと目線を動かし、グリゼナとテオドリックの様子をうかがった。
グリゼナは、まるで舞台の幕開けのように、ゆるやかにドレスの裾を翻す。
「お目汚し、誠に申し訳ございません。本当に手が滑ってしまいましたの」
「…………」
「それより、いかがでしょう、このドレス。美しいでしょう?」
彼女は、舞うような仕草でスカートを広げた。
魔法の光を纏った黄金色の布地が滑らかに波打ち、
動くたびに光が生地を流れるようだった。
「陛下、ご覧ください。今夜のグリゼナさま、本当におきれいなのです」
「そう。世界一美しいお人ですわ」
「嫉妬する気もなれません……」
黎妃たちが、競うように賛美を並び立てる。
その声はどれも甘やかで、どこか熱に浮かされているようだった。
侍女たちも、誇らしげに主人の姿を見守る。
だが――
「どうでもいい」
テオドリックのその一言で、熱を帯びていた空気が一気に冷めた。
黎妃たちの表情が凍りつく。
グリゼナの微笑みも、わずかに引きつった。
しかし彼女はすぐに余裕を取り戻し、笑みを深める。
「まあ……陛下ったら。あまり苛めないでくださいませ」
グリゼナは控えていた侍女から、紅朱酒のグラスを受け取ると、
ゆったりと揺らして香りを立てながら、首を傾げた。
だが、テオドリックは興味すらなさそうに、息を吐いた。
「僕が美しいと思う女は、後にも先にも……一人だけだ」
――沈黙。
時が止まったかのように、誰も動かない。
テオドリックの視線が、また私に向けられる。
自分の輪郭だけがくっきりと浮かび上がるようで、思わず顔を覆いたくなった。
(怖い……)
侍女たちが、同情を含んだ眼差しでグリゼナを見る。
彼女は、ゆっくりと目を細めた。
「……それは、どなたですの?」
けれど、テオドリックは鬱陶しげに、短くため息をつくだけだった。
――相手にもされていない。
侍官が、くすりと微笑む。
影妃たちは口元に手を当て、含み笑いを浮かべた。
静かに――しかし確実に、広間の様子が変わっていく。
やがて、楽団の演奏が軽やかに再開され、
夜会は何事もなかったかのように、徐々に喧騒を取り戻していく。
グリゼナは、ちらと周囲を見回した。
優雅にグラスを傾けてひと口含むと、それを侍女に預ける。
「陛下は無口な方ですのね。
それでは、また後ほど……」
そう言い残し、ゆるやかに席へ戻っていく。
軽やかに現れた時とは対照的に、その背には、どこか影が差していた。
席に着くと、彼女はそっと、テーブルの上に置いたままの手鏡に触れた。
ふと、テオドリックの視線がグリゼナの背に注がれる。
鏡に視線を止めたまま、表情がわずかに翳る。
そして――
静かに、立ち上がった。




