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第2話 双冠王、テオドリック

 私はユリとともに、黎妃たちが座るテーブルへと向かった。

 周囲から注がれる視線が、ぴり、と肌を刺す。

 目を細め、品定めするような眼差し――。


 だが、空気の重心が一斉に動いた。

 この場で最も上位に座する、ルル・グリゼナ黎妃へ――。


(――やっぱり、あの人ね)


 ユリと互いに目をやり、頷いた。

 私たちは歩調を合わせて――"女帝"の前へと進み出た。

 ただ歩み寄るだけで、空気がぴんと張り詰めていく。


 その途中――

 ひとりの影妃が、横からすっと歩み寄り、

 まるで当然のように肩を並べてきた。


「私もご一緒させて」


 突然現れたその顔を見て、私は目を細める。


 ――『……皇后になるのは、私よ』


 謁見の場で自信たっぷりに宣言していた、あの影妃だ。


(肘鉄を食らわしてきたくせに、調子いいわね)


 思わず、苦笑する。


 彼女の名は、マーシャ。

『スレート・マナー』に住んでいると、あとで女官から聞いた。

 あれだけ威勢よく振る舞っていた彼女も、この夜会の空気には抗えなかったのだろう。

 顔見知りの私たちにすがりたくなる気持ちは、わからなくもない。


 私たち三人は、おずおずと黎妃たちの前を通り過ぎ、

 グリゼナ黎妃の前に立った。


 彼女が、ちらと顔をあげる。

 同性であっても思わず見惚れるほどの、ぞくりとするような美貌。

 はっと息を呑んだが――すぐに我に返る。


 私は一歩下がって他の二人と歩を揃え、

 所作に従って足を止めた。

 裾を持ち、ゆるやかに頭を下げる。


「ノワール・マナーより参りました、シャロン・ファルネスと申します。

 ご挨拶が遅れましたご無礼を、どうかお許しくださいませ。

 このような席にお招き賜りましたこと、誠に光栄に存じます――グリゼナさま」


 ユリとマーシャも、ほぼ同時に頭を下げ、名乗る。

 だが、グリゼナは一言も発せず、ただ扇子を小さく揺らしただけだった。


(……作法はニアに教えてもらったから、間違っていないはずだけれど)


 内心の不安を飲み込みながら、私は彼女の反応を窺った。


(……また、何かやらかした?)


 しばしの沈黙ののち、グリゼナは顎をほんのわずかに動かし、侍女へと合図を送る。

 それを受けて、侍女が銀の盆を掲げながら静かに歩み寄ってきた。

 盆の上には、紅朱酒(シュ・ルージュ)が注がれたグラスが三つ――

 鮮烈な赤が、この黄金色に彩られた空間の中で、異様なほど目を引いた。


 グリゼナは一つのグラスを手に取ると、

 迷うことなく――ユリにだけ、静かに差し出した。

 侍女は残りのグラスを盆に乗せたまま、そっと後ずさる。


 場の空気が、ぴたりと凍りつく。

 思わず、私は隣にいたマーシャと視線を交わす。


「"皇后になるのは私"――でしたっけ?」


 声音は、容姿にそぐわないほど乾いていて、ひどくしわがれていた。

 グリゼナの琥珀色の瞳が、鋭くマーシャへ向けられる。

 その一瞥だけで、彼女は息を詰まらせ、反射的に背筋を伸ばした。


「い、いえ、あの……」


 マーシャの視線がさまよう。

 グリゼナは爪先から頭のてっぺんまで、彼女を嬲るように眺めたあと、

 ふっ――と唇の片側だけをつり上げる。


「あなたの器量じゃ無理よ」


 黎妃たちの笑い声が、間を置かずに広がる。

 ユリは俯いたまま、じっと気配を殺していた。

 手にしたグラスを握る指先には、白く力がこもっている。

 マーシャは助けを求めるように周囲を見回しながら、「あの」「その」と繰り返した。


(なんて、おぞましい場所……)


 しばらくグリゼナは、その様子を面白がるように眺めていたが――


「若さが、無知の言い訳にはならないのよ」


 そう言って、侍女に小さく顎を動かして合図を送る。


「ひとつずつ、身に刻んでいくことね」


 皮膚を刺すような緊張がふっと消えた。

 グリゼナは柔らかく笑みを浮かべ、マーシャへとグラスを手渡した。

 マーシャは安堵の色をにじませ、ぎこちなく微笑んだ。


「ありがとうございます……」


 ――そして。

 グリゼナはゆっくりと、私へ向き直った。


(来た)


 ぐっと、全身に力が入る。


「シャロン・ファルネス。

 陛下から言葉を賜ったばかりか……あたしの鏡も割ったそうね?」

「大変申し訳ございません」


 黎妃たちの視線が、マーシャから私へ流れる。

 それは探るでも、好奇でもない。――あからさまな敵意だった。


(……思ったより目立ってしまってる。仕方ないか)


 ここは、波風を立てないほうが得策だろう。


「あたしからの贈り物を壊すなんて、ずいぶん、お行儀がよろしくないのね」

「田舎育ちの、しがない魔法使いゆえ。王宮の礼儀に疎く、誠に恥ずかしく存じます。

 今後は二度とこのような無礼をいたしませんよう、身を慎んで参ります」

「女官から影妃に取り立てられたとか。

「"特異なお身体"のおかげで注目されたのは、何よりですわ。

 ……けれど、この後宮で生きていくには、それだけでは少々心もとないのではなくて?」

「……はい」

「陛下はお優しい方。きっと、あなたに同情されたのね。

 ――とはいえ、あの方には、美しいものだけをご覧になっていてほしいわ」


 グリゼナがくすりと微笑み、手鏡にそっと指を添える。

 その仕草は、まるで恋人に触れるかのように、ゆっくりと、甘やかだ。

 爪先が鏡面をなぞるたび、ぬめるような魔力が、じわりと滲み出していく。

 鏡の奥を覗き込むその瞳は、陶酔しきっていた。


(――やっぱり、あれは魔道具。『栄華の鏡』)


 持ち主の魔力を糧に、鏡に映った者を、短時間だけ理想の姿に近づける魔道具。

 縁飾りの意匠こそ違うが、あの鏡面の黒い揺らめきは見間違えようがない。

 まるで水面に魔力を垂らしたかのように、淡く波打つ黒い光――

 あれは、ダンジョンで目にしたものと同じだ。

 冒険者にとってはガラクタに過ぎないが、後宮なら妃が手元に置きたがるのも当然の品であろう。


(……でも、変だ)

(D級魔道具の『栄華の鏡』が、あんなに強い魔力を帯びるなんて)


 目を凝らすと、鏡面の奥に、わずかな影が揺らめいていた。

 何かが――棲みついているかのように。


 ピクリ、と。

 気づけば、指がわずかに動いていた。


(……だめ、冷静にならなきゃ)


 じっと見つめていたのが伝わったのか、グリゼナが振り返った。


「この鏡が、そんなに気になる?」

「いえ。あまりにも美しい鏡でしたので、つい見惚れてしまいました」

「あら、そう。なかなか趣味がよろしいわね」

「……ありがとうございます」


 グリゼナは思案するように、自分の指先を唇に当てた。

 黎妃たちは、その仕草ひとつも見逃すまいと、じっと彼女を見つめている。

 しばらく沈黙があり、やがてグリゼナはふっと微笑んだ。


「お転婆は、ほどほどになさることね」


 そう短く言って、侍女に軽く合図を送る。

 侍女が持つ盆からグラスを取って、私の前へと差し出した。


「末永くよろしくね、ファルネス影妃」

「このうえなきご配慮、痛み入ります」


 ほっと、肩の力が抜ける。


(怒らせたわけではなかったのね)


 グリゼナが優雅に微笑む。

 私はそっと指を伸ばし――グラスに触れた、その瞬間。


 ガシャン。


 グリゼナの手から、グラスが落ちた。


「あら、ごめんなさい。手が滑ってしまいましたわ」

「…………」


 ドクン、と鼓動が跳ねる。

 私は反射的に周囲を見回した。


 ――みなが、私を見て、あざ笑っているように見えた。


 黎妃だけではない。影妃も、女官も。

 突き刺さるような、冷えた目つきで。


(……全員が、敵)


 目を細めた女たちが、この"見せしめ"を楽しんでいる。

 傍らのユリ、遠巻きに座るロロやルカ、スワンでさえも。

 その目は――まるで見世物を眺めるようで。


(……何よ)


 私は唇を噛みしめた。


 たった一言。

 テオドリックと、ほんの一言交わしただけじゃない。


 それだけで――これ?


 身体に、悪寒のような震えが走った。


(私のことが、そんなに気に入らない?)


 ここは後宮。

 器量も、出自も。

 もう一度、名前を呼ばれる資格すら――私には、ない。


 わかっていた。そんなことは。

 けれど――。


(……きつい)


 嘲笑。侮蔑の眼差し。歪んだ憶測。

 ドレスに跳ねた紅朱酒(シュ・ルージュ)。床に広がる染み。

 じっと足元を見下ろしていると、目の縁に熱いものが込み上がってきた。


(だめ)


 こらえろ。歯を食いしばり、顔をあげた。

 折れるわけにはいかない。こんなところで。


 見上げた先に、空席の椅子が映る。


 ――ああ、どうして。


(……テオ)


 ぽたり、と小さな粒が落ちた。


(助けて)


 ――直後。

 その場の空気を裂くように。


「皇帝陛下のご到着です」


(――!!)


 音もなく、扉が開け放たれる。

 そこに――むき身の聖剣を携えた皇帝の姿があった。

 まばゆい光の縁に立つ。

 背後の闇は、より一層、深く沈む。

 場にいた誰もが息を呑み、空気が凍りついていくのがわかった。


 テオドリック・ヴァルディア。


 この帝国の主にして、聖剣を持つ唯一の存在。


 金光石の床を踏みしめ、静かに歩みを進める。

 揺れる燭光が影を歪ませ、広間全体が彼の支配下にあるかのように思えた。


 背後には、一人の後宮侍官と、二人の剣宮衛が影のように寄り添う。

 剣の柄に手を添えた彼らの表情には、一切の私情がない。

 しかし、皇帝は護衛など意識せず、ただまっすぐ前を見据えていた。


 息を殺す黎妃たち。

 誰ひとり、居住まいを正す余裕すらない。


 テオドリックは、冷たい目で広間を見回す。

 だが、その視線が――私の上でぴたりと止まった。


 黎妃でもなく、影妃でもない。

 ただ、私だけを捉える、底知れぬ青の眼差し。


「…………あ」


 息が、止まった。

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