第1話 黄金の夜会
夜空に星が瞬きはじめる中、馬車に揺られて、
私は黎妃たちが住まう邸宅――ジャッロ・マナーへと向かっていた。
一緒に乗り合わせたのは、ユリとその侍女。
ユリは不安げに、傍らに座る侍女の手をずっと握っている。
「……綺麗よね」
ずっと黙っていたユリが、静かに言った。
私は顔をあげ、彼女の視線を辿って、馬車の窓から外を見やった。
月明かりが静かに照らすなか、青白く輝く剣聖宮が、
神々しいまでに浮かび上がっていた。
まるで遠い伝説が、そのまま現れたよう。
「ダンジョンだったなんて、嘘みたいですわね」
侍女が、ぽつんと呟いた。
――この場所が、剣聖宮と呼ばれるようになって、まだたった四年。
ここは帝国一の難関ダンジョン、『忘却の迷宮』だった。
数百の命が消えた、血塗られた死地。
テオドリックの即位を機に、魔術師たちの手によって、
王宮として再構築されたときは、帝国中が驚いたものだ。
なぜ、こんな地を王宮にしたのか。
その理由は、二つ。
一つは、ダンジョンに宿る膨大な魔力を、
王宮の結界として転用し、皇帝を魔物や反乱から護るため。
そしてもう一つは、この迷宮の最下層に、
聖剣の精霊・ヴィクトリアが封じられているためだ。
「あなたは冒険者だったんでしょう? 挑んだことはある?」
ユリの言葉で、はたと現実に引き戻された。
侍女がちらりとこちらを見やって、軽く咳払いする。
「ユリさま。ファルネスさまの魔力では、とても……」
「あ。そうよね。ごめんなさい、悪気はなかったのよ」
「わかっています」
私は微笑んで、再び剣聖宮へと視線を戻す。
(挑んだことがあるかって?)
(テオたちと――最下層まで、潜ったわよ)
――テオドリックはヴィクトリアの導きによって、聖剣を手にした。
私たちパーティにとっても特別な瞬間で、今でも忘れられない。
(あのときのテオ、ものすごく焦ってた)
いつも陽気な彼が、あそこまで戸惑うなんて。
あんな表情をしたテオドリックを見たのは、後にも先にもあの一度きり。
よほど、勇者として選ばれたことに驚いたのだろう。
ふ、と自然に笑みが浮かぶ。
……もしかしたら。
彼女に会えば、鞘の手がかりを教えてくれるかもしれない。
(だけど、私一人じゃ……到底無理)
(せめて、オスカーとラインハルトがいてくれたら……)
自然と浮かぶ、かつての仲間たちの名。
彼らの笑顔が脳裏に浮かんで……胸が締め付けられた。
ため息が漏れる。
全員に、恨まれているというのに。
(あの旅を――テオは思い出すことはあるのかしら)
なんて……。
今さら、何を期待してるのだろう。
――やがて。
馬車は十の邸宅が立ち並ぶ区域に差し掛かった。
その中でも、ひときわ豪奢で、
まるで蜜を閉じ込めた琥珀のように艷やかな黄金色の邸宅が見えてきた。
外壁には滑らかな光沢があり、夜の魔道灯に照らされて、柔らかな輝きを放っている。
黄色の花々が咲き誇る庭園と相まって、まるで絵画のような美しさだが、
どこか近づく者を圧倒するような、威厳を感じさせた。
『ジャッロ・マナー』
五妃の頂点、ルル・グリゼナ黎妃が住まう邸。
膝の上で組んだ手に、ぎゅっと力をこめる。
(黎妃にとって、テオの訪問は予想外――
けれど、それを"好機"に変えようとする者は、必ずいる)
(きっと今夜は、波乱が起こる)
そして。
もう一つ。
どうしても気がかりなことがあった。
「……ユリさま。ニアを見ていませんよね?」
「え? ああ……そういえば、そうね」
ユリは短く返すと、その表情が陰った。
「私の代わりに、グリゼナ黎妃の元へ向かったまま戻ってこなくて」
「……そう。心配ね」
――『……"消されたら"大変だよ』
ルカの言葉が、胸に重たくのしかかる。
(……まさか、ね)
◆ ◆ ◆
ジャッロ・マナーの前までやってくると、改めて、その荘厳な存在感に圧倒された。
正門前の石畳には、すでに何台もの馬車が到着している。
馬車寄せの下では、女官たちが整列し、招かれた妃たちを次々と迎え入れていた。
その様子は、まるで舞踏会のはじまりのように華やかだ。
けれど、降り立つ影妃たちの姿は、思っていたよりも少ない。
――どうやら、影妃全員が招待されたわけではないようだ。
馬車から降りた私たちを、女官たちが静かに出迎え、丁寧に誘導してくれる。
邸内の控えの間では、鏡の前で髪やドレスを整える手助けを受けた。
そして名簿で名前を確認されると、私たちは邸宅の奥、『サロン・ドール』へと案内された。
黎妃たちの社交と政治の舞台にして、
皇帝が臨席する際にのみ用いられる、最上級の応接間。
この邸で、もっとも格式高い空間だ。
黄金の扉の向こうからは、楽しげな笑い声と、
静かに奏でられる楽団の音が漏れ聞こえていた。
ユリの侍女は、ここから先には立ち入れず、
彼女がそっと頭を下げて見送る姿に、ユリは寂しげに振り返っていた。
やがて、扉が静かに開かれる。
――まるで光の海へ、足を踏み入れたような感覚だった。
きらめく星々を閉じ込めたようなシャンデリアが、天井から降り注ぐように輝いている。
魔力光を宿した星晶で構成されており、灯りそのものが、やわらかに息づくように脈動していた。
金糸の織物を思わせるカーペットには、静かな魔法結界の文様が織り込まれており、
磨き抜かれた金光石の床にも、ほんのりと魔力が宿っている。
壁一面には、重厚な金枠に収められた油彩画と、精緻な刺繍のタペストリーが並ぶ。
魔法がその時を封じたかのように、どれもが古びることなく、今なお気品を湛えていた。
空間全体が、まるで"絵画の魔法"の中に迷い込んだような錯覚を覚える。
香炉からは、ローズマリーとヒソップの香りが微かに漂い、空気を浄化している。
それは決して強くはない。
だが、どこか意識の奥に静かに染み入り、心を掴んで離さない香気だった。
楽団が奏でる旋律には、魔力が織り込まれており――
本来なら心を穏やかにするはずのその音色が、
かえって空気を張り詰めさせ、胸にのしかかってくる。
広間の中央には、王の座にふさわしい、金細工の玉座が据えられていた。
だがそこは、空席のまま。
皇帝テオドリックは、まだ到着していない。
その事実に、ほんのわずか、緊張がほどけるのを感じた。
ふと目を向けると、主賓席に十人ほどの妃たちが優雅に並んでいた。
皆、黄色や金のドレスを纏い、
控えめな微笑みを浮かべながら、静かにこちらを見つめている。
(……彼女たちが、黎妃)
本来は三十名いると聞いていたが、今宵この場にいるのは上位十位の妃だけらしい。
その顔ぶれは、まさに選ばれた者たち。
"親睦"という言葉が、どれほど空虚な飾りか――身を持って思い知らされる。
その中でも、ひときわ目を引く女性がいた。
艶やかな黄色のドレスに身を包み、三人の侍女を従えていた。
流れるような金髪が肩を流れ、月光のような淡い光をまとって揺れていた。
伏せ目がちなまなざしは、控えめでありながらも、この場を支配するような静けさをたたえている。
女神の彫像と錯覚するほど、その姿は人の域を超えた――魔性の美がそこにはあった。
誰かが、思わず感嘆の息を漏らした。
「やっぱり別格ね……」
「絶世の美女って、あの方のことを言うのね」
「陛下も、さぞ夢中になられるでしょう」
さざ波のように、囁きが広がっていく。
けれど、本人はそれらすべてを当然とでも言うように、
涼やかな笑みを浮かべていた。
――そのテーブルに、ひとつだけ置かれた
奇妙な存在感の手鏡。
(あれは……)
胸の奥がざわつく。だが、その正体を確かめる前に――
「ファルネスさま、あちらを見て」
ユリが袖を引き、小声で囁いた。
黒いドレスを纏った影妃たちが、広間の片隅の席へ静かに腰を下ろしていた。
二十人ほどだろうか。
その誰もが、飲み物を片手に、まるで空気に溶け込むように沈黙を守っている。
ノワール・マナーの面々もすでに到着しており、
私たちが近づくと、スワンが気づいて顔を上げた。
彼女は困ったような顔で、私とユリを交互に見比べた。
「グリゼナさまにご挨拶は、済ませてる?」
「いえ、今来たところですから」
ユリが答えると、スワンの顔色が一瞬で変わった。
「だめよ。すぐに行ったほうがいいわ」
その言葉に、私とユリは目を見合わせる。
ルカは興味なさそうに目を逸らし、ロロだけがくすりと意味深に笑っていた。
「……行きましょ、ファルネスさま」
ユリが、小さな声で言った。
――胸の奥を、冷たい予感がかすめていった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
次回、ついに皇帝テオドリックが登場します。
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