第7話 鏡は、狂宴へ誘う
「ずっと私を監視してるようだけど、何かご用?」
この衣装室に入った時から――いや、自室の鏡でも感じていた。
鏡の中からの視線。
だが、問いかけに応じる者はいない。
(……こっちから仕掛けてみるか)
指先に魔力を込め、そっと鏡に触れた。
ツゥ……。
まるで水面に指を沈めたように、鏡の表面に波紋が広がる。
指先が、わずかに沈み込んだ。
(……魔法?)
まわりを見渡す。気配はない。
だが、遠隔で魔法を行使するには、高度な技術が必要だ。
後宮でそれができるのは、ごく限られた人物のはず。
(相手は……グリゼナ黎妃? 五妃って、そんなに魔力が高いのかしら)
(それとも、魔物? ――いや、ここには勇者がいる)
あの男の守りの中で、魔物が潜むとは考えにくい。
となれば――やはり、これは"誰かの意志"だ。
(……もう少し調べてみるか)
私は鏡の前に立ち、低く詠唱を唱える。
『暴け、秘されしもの』
ガシャンッ!
その瞬間、鏡が砕けた。
激しい音とともに、無数の破片が床へと舞い散る。
「しまった!」
反射的に後ずさる。
魔法が暴走した?
いや――私の制御に限って、それはあり得ない。
床に散らばる破片へ、そっと手を伸ばそうとした――そのとき。
『……ファルネス』
耳元で囁くような、ねっとりとした声が響いた。
(……何?)
破片に映る自分の瞳と、目が合う。
――にたり、と笑った。
ゾクリ。
背中に冷たいもの這い上がる。
(……こいつ、悪意を持ってる)
破片へ手を伸ばすと、鏡の中の"私"が不敵に微笑む。
だが――瞬きをした隙に、その気配は消えた。
そこに映るのは、ただの"私"だけ。
「逃げたか」
息をついて、床の破片を見下ろす。
(応接間の鏡にも、同じような違和感はあった)
(他の影妃たちは、気づいていない? それとも、標的にされていないのか)
(抵抗して魔法を行使したら、わざと割れるような細工が……?)
(厄介なことにならなければいいけど)
そっと指先を伸ばした――そのとき。
「……くっ」
ガラス片が指を裂き、赤い雫が落ちた。
破片は細かく鋭く、手で片付ければ怪我が増えるのは確実だった。
(魔法を使おうか……いや、やめておこう)
私は小さく息を吐き、立ち上がる。
(正直に謝るしかないわね……)
「お待たせいたしました。……え!?」
突然、ニアの声が降ってきた。
振り返ると、髪飾りの入った箱を手にしたまま、彼女は凍りついている。
「グリゼナ黎妃さまの鏡が……!」
ニアの顔が、みるみる青ざめていく。
手が震え、箱が床に落ちて、コトンと乾いた音を立てた。
「ごめんなさい。私が割ってしまったの。
……そんなに高価なものだった?」
(まいったな。弁償騒ぎになるかも。目立ちたくないのに)
……だが、ニアは小さく首を横に振る。
「お金の問題では……」
絶望したように呟くと、彼女はすぐに四つん這いになり、怯えるように破片をかき集め始めた。
指先は震え、血が滲んでいる。それでも止まらない。
「ちょっと、大丈夫? 素手で触ったら怪我をするわよ」
「いいのです。私などの手など……!」
「私などって……なにそれ」
ニアの指は、すでにズタズタだった。
それでも、まるで何かにすがるように、必死に拾い続ける。
(……よほどグリゼナ黎妃を恐れているのね)
人前で魔法は使いたくない。けれど――
「……見ていられない」
私は膝を折り、そっと彼女の手を取った。
短く、静かに詠唱する。
「……ファルネスさま?」
傷が、みるみるうちに塞がっていく。
ニアの目が、驚きに染まった。
「ごめんね、私のせいで」
「……い、いえ! それよりも、いけません!
私どものような者に妃さまが魔法など――」
「大げさね。『還れ、鏡の面影』」
私は詠唱をしながら、指先を弾いた。
――ふわり。
散らばった鏡の破片が、宙に舞い上がる。
まるで透明の糸に操られるように、破片同士が音もなく組み合わさり、
光を帯びながら、ゆっくりと回転し始めた。
シャリン……。
繊細な光の糸が、ひび割れの隙間を縫うように流れ込んでいく。
カチン――。
最後の一片が吸い込まれるように収まると、
鏡は――最初から割れてなどいなかったかのように、
透き通る輝きを取り戻した。
この鏡は贈られたときから、何かしらの魔法がかけられていたのだろう。
目の前の鏡には、あの奇妙な違和感はない。
「……!」
ニアは半歩後ずさる。
目を大きく見開いたまま、私をじっと見つめた。
「こんなに精密な修復魔法……私、見たことがありません……!」
「……え? ……またまた。これぐらい、ちょっと慣れていればできるわ」
彼女は、息を呑んだ。
その顔には、驚愕と――抑えきれない焦りがはっきりと見て取れた。
「い、いえ……! この剣聖宮の魔女ですら、一度にここまで細かく操ることはできません!
それに、魔法の残滓すら……残っていないなんて……!」
(やばい、完全にやりすぎたかもしれない……)
(でも、仕方なかった。うん、仕方ない!)
彼女の喉が、小さく鳴った。
ハッと我に返ったように背筋を伸ばし、表情を引き締める。
「……申し訳ございません。取り乱しました」
「い、いいのよ。気にしてないわ」
私は誤魔化すように、鏡を指でつついた。
「それに細かくなんてないわよ。ほら、よく見て? ここちょっとズレてるでしょ。
私なんて、まだまだなんだから」
軽く笑ってみせる――が、ニアの顔には、なおも疑念が浮かんでいた。
「……ファルネスさまは、本当に影妃さまですよね?」
ギクッ。
「そりゃ、そうでしょ? 私が上位妃にみえるっていうの?」
「……はい。ファルネスさまからは、ほとんど魔力を感じません」
「でしょ? ああ、悲しいわ~」
無理やり微笑み、さらりと受け流す。
だが――ニアの視線は、困惑を含んだままだった。
「そう、ですか……」
「…………」
(一応……納得はして、くれた?)
「……そうですよね」
「…………」
ニアの視線が外れ、無理やり受け入れたように、口元が少しだけ笑った。
(ああああ危なかった!! 我ながら軽率すぎる……)
(もっと慎重に行動しなくちゃいけないのに、なんで私はいつも……)
冷や汗が首筋を伝うのを感じながら、私は平静を装って微笑む。
ニアはさらに何か言いたげに口を開きかけたが、唇を噛んで飲み込んだ。
やがて、小さく息を吐き、癒えた指先を撫でながら言いにくそうに呟いた。
「……鏡は元通りになりましたが、それでもグリゼナさまにはご報告いたします。
黙っていれば、私が責任を問われてしまいますから……」
(魔法のこともバレるかもしれないけど……もう仕方ないわね)
私は静かに息を吐き、肩をすくめる。
「いいわよ。私の責任なんだから。一から十まで報告してちょうだい」
ニアは驚いたように目を見開き、私を信じられないものを見るように見つめた。
その眼差しが、ふと揺れる。
ほんの一瞬、何かがほぐれたように、表情にわずかな安堵の色がよぎった。
緊張の糸が、ほんの少し、ほどけた気がした。
――だが、それもすぐにかき消える。
安堵の余韻が消え去るように、ニアの顔から血の気がすっと引く。
笑みの気配は跡形もなく消え、代わりに抑えきれない不安が表情の奥に浮かんだ。
唇をきゅっと噛みしめる、かすれた声で呟いた。
「……そう、ですね。隠すことは出来ませんから……」
その指先が、小さく震えている。
(グリゼナ黎妃……一体どんな魔女なのか)
(警戒する相手はテオだけ……とはいかないようね)
次回、ついに夜会回スタートです。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
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