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第5話 恐ろしい人

 ロロが手を伸ばすと、後ろに控えた侍女が即座に皿を差し出した。

 動作は無駄なく、白手袋をした手が食器の音を立てないよう配慮されている。

 ――これが、"慣れた者の所作"なのだろう。


 スワンの髪からは、朝のうちに塗られた"香果のしずく"の香りが、かすかに空気を染めている。

 その後ろでは、侍女が静かにナプキンを整え、髪に触れることなく首筋のほつれを直していた。


 ルカは無言で、魔茶のカップを持ち、小指を立てることなく、静かに口をつけていた。

 彼女の侍女は、控えめに距離を取りながらも、カップの減りをちらりと見て、

 替えを準備するかのようにそっと手を動かしている。


 どこまでも優雅で、息を呑むほどに美しい仕草。

 ――それぞれの"信頼"と"忠誠"が、空気の中に溶け込んでいた。


(……私の後ろには、誰もいない)


 ただ、それだけのことが、胸の奥に冷たいものを落としていく。


(……いやいや。一人でやるって決めたのは私。

 ここで弱気になっちゃ、だめ)


 私は、皿に置かれたパンをちぎって、口に運んだ。

 その瞬間、数人の侍女や影妃たちの視線が、ピクリとこちらに向けられる。


(な、なに?)


 ――咎めるような目。


(……あれ? もしかして――)

(なんか間違った?)


 焦りを悟られないように顔を伏せて、もう一口パンを食べた。

 視線の隅で、侍女たちが微かに――笑ったような気がした。


(知らないんだから仕方ないじゃない……!)


 そう開き直ってみても。


(……でもやっぱり恥ずかしいし、惨めだ)


 胸の奥に、じんと沁みる。

 そんな沈黙に、ぽとんと水滴を落とすように、スワンが静かに口を開いた。


「今宵は黎妃さまたちの夜会ですわね。

 皆さま、ドレスの準備は整っていまして?」


 その視線が、するりと私に向けられた。

 私は慌てて、口の中のパンを飲み込む。


「あ、あの……支度って、どうすればいいんでしょうか?」


 おずおずと尋ねると、スワンは優しげに目を細めた。


「そうよね。あなたは侍女も連れていないし、わからないことばかりよね」


 柔らかく微笑んだまま、彼女はニアへと視線を向ける。


「ニア。ファルネスさまの支度を整えてあげてちょうだい」

「え? ですが……」


 戸惑ったように、ニアの表情が強張った。


「いいじゃないか、それくらい。君は世話焼きなんだから」


 独り言のように、ルカがテーブルから目を逸らさないまま言った。

 ニアは二人の様子を見比べると、ほんの少しだけ――微笑んだ。


「承りました」

「それから……」


 スワンの視線が、私の皿に残ったかじりかけのパンをちらりと見た。


「できれば、宮廷のマナーについても教えてあげて。

 あなたなら、できるでしょう?」

「仰せの通りにいたします」

「……ありがとうございます」


 私は思わず、そう口にしていた。

 人の優しさが、胸にしみた。

 スワンは何でもないように微笑み、再び食事へと戻る。

 ルカは口元を拭いながら、わずかに笑みを浮かべていた。


(女神たちだわ――!)


「ずいぶん、お優しいのね」


 割り込むように、ロロが言った。


(出た出た出た)


「後宮に単身で乗り込んできたのは、ファルネスなんだから。

 放っておけばいいじゃない」

「また意地悪なことを……。妃としての品位を落としますよ」


 ルカが、軽く睨むようにたしなめた。


「品位? 今夜の夜会だって、陛下はどうせ私たちになんて目もくれないのに」

「それでも、"陛下の妃"であることを忘れないで」


 スワンの声は、今度はひどく冷ややかだった。


「ファルネスさまを目の敵にするのは勝手だけれど……

 グリゼナ黎妃の前でも、同じことをするつもり?」

「それは……」


 ロロが、初めて口ごもる。


「グリゼナって……誰ですの?」


 今まで気配を消していたように静かだったユリが、ぽつりと声を出した。

 彼女の頬の近くで揺れるイヤリングが、きらりときらめく。


「グリゼナさまは、五妃の筆頭で、とてもお美しい方なの」


 スワンがすぐに言葉を継ぎ、ロロがうんざりしたように続ける。


「最近はさらに綺麗になったって噂じゃない?

 この間も、魔道具師に特注の白粉を作らせたそうよ」

「そうね。けれど黎妃さまが陛下とお会いできることなんて、ほとんど……」

「女の意地でしょ」

「……一体いくら魔法石を注ぎ込んでるのかしら」

「出どころが不気味なのよ。買いすぎた品は、すぐ私たちへ下げ渡してくるし」

「あんなに鏡ばかり頂いても……ね。衣装室の姿見だって、大きすぎて不便だわ」

「大体、黄色のものは、影妃の私たちが使えないって知っているはずなのに」

「権力を見せつけたいのでしょう。グリゼナさまに限ったことではないけれど」

「これだから黎妃は……ああ、気が重たいわ!」


 スワンとロロの愚痴が止まらない。

 だいぶ黎妃に鬱憤が溜まっているのだろう。


 私は、まばたきをひとつだけ落とす。

 言葉の連なりを、静かに――見つめていた。


 ユリが、私に助けを求めるように、目配せをしてくる。

 彼女も、この異様な雰囲気に呑まれているのだろう。


(こうやって、誰かの影を肥やしにしながら――

 噂は音もなく、宮廷を蝕んでいく……)


 スワンとロロも悪気があるわけではない。

 ただ、この閉ざされた後宮という空間では、

 "噂"こそが、唯一の娯楽であり、情報であり――そして武器なのだ。


 そんななか。

 ずっと静かに話を聞いていたルカが、

 カチャン、とわざと音を立てて、カップを置いた。


 スワンとロロが、ハッとしたように口を閉ざす。


「……そこまでにしておこう。"消されたら"大変だよ」


(えっ……?)


 二人は顔を見合わせ、口元に手を当てた。

 どちらからともなく、気まずそうに視線を伏せる。


「……そうね。少し、言い過ぎたわ」


 誰かが、わざとらしく咳払いをした。


(今、"消されたら"って……言った?)


「まだ、行方知らずのままなのでしょう?」

「そのようだよ。でも、放っておこう。私らには関係がない」


 食欲が、静かに引いていく。


「あの……行方知らずって?」


 私が尋ねると、ルカはふっと力なく微笑んだ。


「ああ。彼女の侍女がね。もう何人も行方不明になってるんだよ」

「……誰も探しに行かないのですか?」

「まあ、ここじゃあ、よくあることだから。君も気をつけたほうがいい」

「……」


 ルカの淡々とした答えに、胸が重たくなる。


(人知れず闇に葬られる場所……まるでダンジョンと同じ)

(勇者の後宮だというのに――人の命が、こんなにも軽い)


 ――テオは、知っているのだろうか。

 ……いや、知らないはずがない。


 知っているのに、何もしないのだ。


 重苦しい空気の中、食事の手が自然と止まっていた。


(あんなに会いたかったはずなのに……怖くてたまらない)


 自分の指先が、震える。


(何があなたを、そこまで変えてしまったの)


 後宮というものは、底が知れない。 

 けれど、一番恐ろしいのは……


(……テオドリック)


 ――あなたは今も……私の勇者なの?

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


今回で毎日更新は一段落となります。

次回より、更新は週3〜4日で、物語を丁寧に描いていけたらと思っています。

少し更新の間隔は空きますが、その分、心を込めてお届けします。


少しずつ深まっていくシャロンとテオドリックの物語に、

これからもお付き合いいただけたら嬉しいです。


ご感想や、ブックマーク、★を頂けると励みになります!

これからも更新頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します。

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