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第4話 九十九位の朝

 翌朝――。


「おはようございます、ファルネスさま」


 ニアの声とともに、扉が静かに開かれた。

 そのまま部屋に入ってきた彼女は、無言でカーテンに手を伸ばした。

 しゃらりと音を立てて布が引かれると、かすかな朝の光が差し込む。

 けれど、その光でさえ――このノワール・マナーに満ちる、重苦しい空気には勝てない。


「……いい加減、お目覚めくださいませ」


 ベッドに伏せたままの私に、ニアがぴしゃりと告げた。

 口調はあくまで冷静だが、声の奥に、かすかな苛つきがにじんでいる。


「……そんなに寝てた?」

「はい。何度も扉の外からお声がけいたしましたが、まったく起きられませんでした」

「ごめんなさい。すぐ支度するわ」


 そう言いながらも、体が重くて動けない。

 昨夜の疲れが抜けきらず、知らぬ間に深く眠ってしまっていたらしい。


封魔の環(シール・リング)の影響か、剣聖宮の魔力に充てられたか……)

(それとも――)


 テオドリックの、あの冷たい目が脳裏をよぎる。

 その瞬間、現実に引き戻されるような感覚に襲われた。


(初日から気を抜きすぎ……)

(今夜はテオドリックと顔を合わせるんだから。ちゃんとしなきゃ)

(ああああ……無理、怖すぎる! ずっと寝てたい! ここから出たくない!)


 私がぐずぐずしていると、

 ニアはちらりと壁の時計を見やり、深いため息をついた。


「……お手伝いいたします。ご朝食の時間に、間に合いませんので」


 私が体を起こす前に、ニアはもう身支度の準備に取り掛かっていた。

 何も言わず、淡々と。

 手早く私の髪を整え、服の皺を伸ばし、仕上げに星露(セイル)の霧を胸元にひと吹きする。


 本来なら、妃の身支度は専属の侍女の役目。

 女官が手を貸すなど、礼儀作法に反するはずなのに――彼女は、当然のように動いてくれる。


「あ、ありがとう……」

「いえ。でも、明日からはお一人でお願いしますね」


 あっさりと、ぴしゃり。

 その言葉に、思わず苦笑する。


(ニアがいなければ、私は何ひとつ準備ができなかったかもしれない)


 ――やはり、侍女は必要だ。

 この後宮で生きていくには、信頼できる人間が、どうしても。


(誰か探さなきゃ……)

(でも、この後宮で、そんな相手……いるの?)


 支度が整うと、ニアは一歩下がって静かに頭を下げる。


「食堂へご案内いたします」


 ◆ ◆ ◆


 影妃よりも上位の妃たちは、それぞれの私室で優雅に食事をとるらしい。

 けれど、私たちは全員揃って、食堂で食事をとる決まりだという。


(……給仕の手が足りないからでしょうけど)


 昨夜は、応接間で騒ぎを起こしたため、ニアが当然のように部屋食を用意してくれた。

 あれは、軽い"謹慎処分"に等しかったのだろう。


(影妃の中で、食堂に顔を出さなかったのは私だけ……

 かえって目立つ気がする)


 今朝が、彼女たちと改めて顔を合わせる"初めて"の機会となる。

 黒いドレスを纏い、気乗りしないままニアに連れられて食堂へと向かった。


(うう……行きたくない)


 食堂は、ノワール・マナーの一階にある。


 ニアが扉を開けると、重厚な装飾に包まれた広間が現れた。

 天井からはきらびやかなシャンデリアが幾重にも吊るされ、

 壁一面に施された金の模様が、仄暗い空間に静かな威圧感を与えている。


 だが、朝の陽が差し込むはずの大窓には、重たげなカーテンがぴたりと引かれていた。

 そのためか、室内には時が止まったかのような、どこか沈んだ気配が漂っている。

 しかし、静けさに包まれているのは見た目だけで、実際の食堂内は意外と騒がしかった。


 奥では、給仕たちが忙しなく動き回り、食器の音や足音があちこちで響いている。

 ただし、その動きにはどこか、ぎこちなさがあった。

 彼らの表情は一様に硬く、無駄口ひとつ叩かず、目配せだけで動いている。

 そのせいで、食堂全体には張り詰めた空気が満ちていた。


 すでに影妃たちは着席していた。

 全員が黒いドレスをまとい、私の入室と同時に、その視線が一斉にこちらへ注がれる。

 

 ニアに促され、私はゆっくりと食卓へ歩みを進めた。


 長テーブルは、夜樹の木と呼ばれる黒木から削り出されたもので、

 まるで闇そのものを磨きあげたかのような艶を放っていた。


(触れた者の魔力を吸い込み、長く座っていると心が静まり返るという――)

(……この共同生活にはぴったりね)


 その上には、白金の縁取りがされた食器が、精密な角度で整然と並び、

 銀器は淡い照明を受けて、まるで鏡のように光を跳ね返している。


 椅子の背にはそれぞれ金の細工で名前が刻まれていた。

 私の席は、長テーブルの一番隅――扉のすぐ脇に用意されている。

 まるで、「出ていきたければどうぞ」とでも言いたげな配置だった。


 このノワール・マナーで暮らす影妃は、私を含めて五人。


 ニアの話によると――


 私を平手打ちしたのが、ロロ。序列八十位。

 短髪の男勝りな影妃は、ルカ。八十七位。

 金髪の優しげな影妃は、スワン。八十九位。

 ……私と同じく新人で入ったユリが九十位。


 ……そして私は、九十九位。ぶっちぎりの最下位。


 席についた瞬間、ロロが待ってましたとばかりに口を開いた。


「さすが九十九位さまは、朝がゆっくりなのね」


(出た出た)


「ロロさま。もういいじゃないですか」

「そうよ。ファルネスさまも、長旅でお疲れだったのよ」


 ルカとスワンが、やんわりたしなめるように言う。

 が、ユリはツンと顎を上げて、堂々と言い放った。


「あたしは、ちゃんと起きましたけれど」


 ルカとスワンは呆れたようにため息をついた。

 ロロは満足げに口元を緩めていた。


 私はにこりと微笑み、頭を下げる。


「庶民育ちの癖が抜けませんで。お恥ずかしいかぎりです」


 その言葉に、壁際で控えていたニアがちらりと横目を向けてきた。

 視線には、無言の牽制が混じっている。


(……わかってる。ちゃんとやるわよ)


 私は姿勢を正し、今度は少しだけ真面目に口を開いた。


「昨夜の件も、私の未熟さゆえです。

 ご不快な思いをさせてしまい、心よりお詫び申し上げます。

 本日より、このノワール・マナーの一員として、どうぞよろしくお願いいたします」


 深く頭を下げると、スワンとルカが穏やかに「こちらこそ」と応じた。

 ロロはふん、と鼻を鳴らして一言。


「それはあなたの態度次第だけれどね」


(まあ、そう来るわよね)


 ニアに視線をやると、彼女はわずかに頷いた。

 それだけのことなのに、ほんの少し胸が軽くなる。


 私は静かに息を吸い、目の前の食卓に意識を向けた。

 スプーンの角度。パンのちぎり方。魔茶(ルーメ・ティー)の口元への運び方――。

 魔力の流れを整えるとされるその茶は、ただの嗜好品ではない。

 誰が上で、誰が下か――無言のうちに示していた。


(本番は、これから――)


 ロロが、にやりと笑った。

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