第3話 勇者は聖剣にすがる
――息が止まりそうになった。
ほんの一瞬、頭が真っ白になる。
「……陛下が?」
「はい。本来、夜会に陛下が足を運ばれることは滅多にございませんが……
明日は特別に、いらっしゃるそうです」
胸の奥がざわめくのを押さえこみ、なんとか平静を装う。
(ちょっと待って。……どういうこと?)
影妃の動向なんて、テオドリックの関心には上らないはず。
なのに、どうして?
ただの偶然?
それとも――目をつけられた?
「そう……た、楽しみだわ」
動揺を悟られないよう、さらりと流す。
ニアは口元を引き締めて、忠告のように言った。
「どうか、さきほどのようなことをされませんように。
……何があっても、影妃さまは耐えること。
それが、後宮での賢い生き方でございます」
背筋に冷たいものが走る。
――黎妃たちが、わざわざ影妃のために夜会を催す。
その"目的"なんて考えるまでもない。
これは、序列を見せつける場。
新入りに身分の違いを叩き込む、最初の洗礼。
(……嫌な女たち)
けれど、黎妃たちにとっても、
テオドリックが出席するのは予想外のはず。
――彼の本意がわからない。
(ただの気まぐれならいいけど……)
彼に限って、そんなことがあり得るだろうか。
……嫌な予感がする。
「……はあ」
私は息を整えた。
(でも……そう、考え方によっては、これは好都合だ)
聖剣を持つテオドリックに近づく機会は、そう多くない。
(……聖剣に触れれば、鞘の魔力をもっと感じやすくなるはず)
問題は、どうやって"勇者"の隙を突くか。
――あの、鋭すぎる瞳の奥に切り込むことが、私に出来るのか。
いっそ、本気で好意を持ってもらう?
……そんな考えが浮かび、自分で思わず苦笑した。
この期に及んで、なんて図々しい。
一瞬でもこんなことを考えるなんて、ずいぶん愚かだ。
彼が私を、女として見たことなんて、一度もなかった。
私たちの間にあったのは、仲間としての信頼――。
それを裏切ったのは、私なのに。
「陛下は、どのようなご様子かしら?
戦の英雄とはいえ、政務に追われているでしょう?」
「ええ。ですが、どれほどお忙しくとも、鍛錬だけは決して欠かされません」
「その鍛錬は……聖剣も振るっているの?」
「もちろんです。何しろ、陛下はいかなるときでも聖剣を手放されませんから」
(やっぱり……)
ニアの口調が、ほんのわずかに陰を帯びた。
「まるで……聖剣に取り憑かれているみたいです」
つまり――テオは知っているのだ。
聖剣を手放せば、呪いが加速する、と。
だから彼は、剣を握り続けている。
たとえ、それが一時しのぎにしかならないとしても。
(なら、夜会にも聖剣を持ち込む可能性が高い)
「ファルネスさまも、しっかりとお支度を整えてくださいませね。
皇帝陛下にお会いできるなんて、滅多にないことですから」
「ええ、そうね。綺麗にしていかないと」
無意識のうちに、私は微笑んでいた。
(さて……どうやってテオの意識を聖剣から逸らすか…)
(考えなきゃ。失敗は許されない)
指輪をなぞる手に、自然と力が入る。
……。
ふと、部屋にかけられた鏡に目を向けた。
――何?
この部屋には、私とニアしかいないはず。
けれど、鏡の奥に"何か"が潜んでいる気がした。
名もなき悪意が、こちらをじっと見つめているような。
ここは女の嫉妬が入り乱れる後宮。
何があっても、不思議ではない。
(……一筋縄じゃ、いかないわよね)