第1話 ルームNo.5
応接間から出て、暗い廊下をニアはずんずん進んでいった。
少し苛立っているようで、一度もこちらを振り返らない。
「本来であれば、影妃さまたちとの親睦の場をご用意する予定でございました。
せっかく、星晶花の茶葉も取り寄せておりましたのに……」
丁寧な口調を崩さぬまま、わずかに棘を含んだ声音。
抑えきれない不満が、その合間から滲み出ていた。
「また別の機会を設けさせていただきます」
「いや、もういいわよ……」
「よろしいわけがございません。
次にお顔を合わせる際は、しかるべきご挨拶をなさるのが賢明かと存じます」
くるりと振り返ったニアは、唇をわずかに尖らせながら、冷ややかな視線を向けてきた。
そのまなざしには、年齢以上に責任を背負おうとする、ひたむきな覚悟が宿っている。
それでも、二人きりという状況のせいか、ほんのわずかに年相応の素顔がのぞいた。
(よっぽど自信のある茶葉だったのね)
少しでも笑えば負け、と言わんばかりだ。
私が思わず微笑むと、ニアはそれを拒むように顔をそむけ、さっさと歩みを再開した。
やがて、とある部屋の前で立ち止まり、
ニアは白い布に包まれた真鍮の鍵を差し出してきた。
持ち手には『No.5』の刻印。
「こちらがファルネスさまのお部屋になります」
ずしりと重い鍵が、無機質な冷たさを指先に伝えてくる。
「鍵は私が管理いたします。ご入用の際は、お申しつけください」
「わかったわ」
「お荷物は検分のため、いったん別室にてお預かりいたします。
ファルネスさまは、先にお部屋のご確認を」
ニアは軽く頭を下げると、私のスーツケースを抱えて廊下を引き返していった。
その小さな背は、まるで巣に戻る小動物のように見えた。
彼女の姿が見えなくなったのを見届けてから、鍵を差し込み、扉を押し開ける。
中は思っていたよりも、ずっと広かった。
天井は高く、壁が遠い。
声を出せば、かすかに反響しそうだ。
だが、この空間は沈黙に満ちており、そして――荒れていた。
壁を覆う黒の織布には、金糸で封呪の印が刺繍され、
魔力の残滓が、かすかに脈打っていた。
奥には、天蓋付きの寝台。
黒緑のカーテンは片側が外れ、布の重みで垂れている。
その隙間から覗く中は薄暗く、今も誰かの寝息が聞こえてきそうだ。
寝台の近くには、いくつもの肖像画が高い位置にかけられていた。
すべて黒衣を纏う女たち。表情は曖昧で、眼だけが異様に生々しい。
名札はなく、その視線が、この部屋の中心に向けられているようだった。
暖炉は埃にまみれ、白い装飾枠はひび割れていた。
その上にかけられた楕円の鏡は曇っており、光を受けても何も返さない。
ふと目を向けた瞬間、そこに何者かが映ったような気がして、思わず息を止めた。
家具は形こそ整っていたが、脚ががたつき、引き出しは開かない。
空気は湿って重く、誰もいないはずなのに、気配を感じてならない。
(まるで、墓地みたいな寒々しさだわ)
この部屋は、誰かの住処だったのだろう。
そして、もう長いこと"忘れられたまま"。
……新しい主人に相応しいか、品定めされているかのような居心地の悪さを覚えた。
「……ここで寝起きしろって?」
(ちょっと期待してたのに。自分でやるしかないか……)
私は部屋の中心で、指を軽く弾いた。
「聖光よ、浄化せよ」
魔力の波紋が床を這い、魔法陣が青白く浮かび上がる。
次の瞬間、静かな風が室内をめぐり、光の粒子が部屋中に舞い散った。
封呪の印は音もなく掠れ落ち、空間に漂っていた淀みが晴れていく。
黒縁のカーテンは濁りが抜け、夜を映したような艶を帯びる。
寝具は柔らかな白を取り戻し、なめらかに光を反射している。
天蓋の内側は、夜空の星のように魔法の光が淡くきらめいた。
家具に積もった埃は消え、鏡の曇りも晴れていく。
さらに、指を鳴らしてもうひとつ。
「華やげ、舞え」
淡い金色の魔法が天井を巡り、四隅に舞い降りる。
傷んでいた暖炉の装飾枠は白銀のように輝きを取り戻し、
壁のひびや、絨毯の裂け目も音もなく綴じられていく。
床はしっとりと艶を湛え、空気までもが柔らかく澄んでいった。
壁の織布は、金糸の模様だけが布地に残り、清らかにきらめいていた。
あれほど重く、寒々しかった空間が、静かな気品に満ちていく。
黒を基調にしたまま、それはまるで忘れられた王女の私室――
闇に溶け込むような静謐さと、美しさだけが眠り続ける部屋へと生まれ変わっていった。
(……まあ、こんなものね)
(冒険中は、湿った洞窟の中で寝るのが日常茶飯事だったんだもの。
それに比べれば、屋根があるだけで贅沢すぎるくらいだわ)
――ゴホンッ。
扉の外から、咳払い。
返事をする間もなく、スッと扉が開く。
入室してきたニアは、部屋をひと目見るなり足を止め――
「……まさか、ご自身でお部屋を整えられたのでございますか?」
初めて、彼女の顔に戸惑いが広がった。
「え?」