家族解散
部長に昇進してから宗司は会社近くにアパートを借り、そこから通っていた。
自宅は妻の綾子の希望で彼女の実家のそばにしたため、会社から2時間近くかかる。
宗司は、昇進したことは言わずに、仕事が忙しくなったとだけ言って、アパートを借りた。
綾子や子供は無駄遣いだと反対したが、宗司は無視した。
週末だけ帰り、ゴミ屋敷のようになった自宅を片付ける。
そこでは子供からは無視され、たまにいる妻からは文句を言われる。
宗司はその様子を取り付けた隠しカメラで克明に記録していた。
家もあちこち傷んできており、リフォームする必要があると宗司は妻子に話した。
綾子は仕方ないわねと納得するが、
「面倒くさい、そんなの放っておけばいい」
と大地と麻里は嫌がった。
それを見越して宗司は手を打ってあった。
「最近、痒くないか?
家の隙間から色々な虫が入ってきているようだぞ」
「うーん」と唸る子供達。
宗司は密かにカマドウマやムカデを子供の部屋に放り込んでやった。
「早くリフォームして!」
麻里は悲鳴をあげた。
妻子の仮住まいとして、月数万円ほどの安いアパートを借り、多めの金を渡すと喜んで身の回りのものを持って家を出た。
さて、と宗司は次の手を打つ。
それは家の売却である。
もうここから通うメリットは何もない。
不動産屋を呼び、売却の交渉を始める。
期間が短かったので足元を見られそうになったが、宗司が一生住むつもりで懸命に選んだこの物件の立地はいいところである。
何件もの不動産屋に競合させてしつこく交渉し、好条件を引き出した。
(買った時はここで一生過ごすものだと気負い込んだものだ。
今考えると、家ではなくて家族こそが重要なのだろうが、皆が帰って来れる家があれば大丈夫と思ったのかな。
今更考えても仕方がない)
宗司は、売家と看板のかかった自宅を一瞥すると、立ち去った。
リフォームと言っていた数ヶ月間、家族は誰も家に関心を示さず、綾子は大っぴらに浮気に精を出し、子供達は遊び歩いていた。
(そろそろか)
宗司は、綾子と子供にアパートにいるように連絡して、その指定した日に赴いた。
綾子と大地はいたが、麻里は不在だ。
在宅するように強く言っていたのだが、無視してどこかに遊びにいっているようだ。
「ようやくリフォームが終わったの。
遅かったわね。
あんたは、家族にこんなに長く不便な生活させて甲斐性がないと思わないの?
もっといい家を借りるか、早くできなかったの」
綾子が滔々と文句を言い、大地も
「ほんとにそうだよな。
この狭いアパートじゃ我慢できないぜ。
もう限界だ」
とそれに続く。
宗司はそれに答えずに、二人の目の前にぼんと紙の束を置き、横にスマホを置いて録画を始め、それから話し始めた。
「綾子、これはお前の浮気の証拠だ。
探偵社に調べさせた。
相手も突き止めていて、弁護士から慰謝料の請求がいく手筈だ。
さっさと離婚したいので離婚届に署名してくれ」
「大地、お前はもう23歳か。
大学まで出して、親の責任は果たしている。
五体満足なお前が働けない理由はない。
家を出て自立しろ」
「麻里はここにいないが、後で録画を見せてやってくれ。
本来なら成人しているから自立して欲しいが、大地と同様に大学卒業までの学費と最低限の生活費は出そう。
あとは自分で頑張ってくれ」
そう言って、宗司は妻と子供を睨みつけた。
今まで見たことのないその迫力に何も反論できない。
特に綾子はこれまで30年近く連れ添ってきて初めて見る厳しい夫の顔と、自分の浮気を指摘されて言葉が出ない。
「そんなことを急に言われても困る。
せめて自宅に住まわせてくれ。
家族じゃないか」
大地が頼み込んだ。
「家族だと?
確かに血の繋がりはあるのかもしれないな。この女がその頃から浮気してなければ。
しかし、家族とは互いに思いやり、助け合うものではないのか。
もう何年も俺はお前達から何一つ家族らしいことをしてもらった覚えはないぞ。
ひたすら金を貢ぎ、家政夫のように働いただけだ。
それと、あの家は売り払ったぞ。
あれは俺の金で買った俺の名義のものだからな」
もう家が無くなったという宗司の言葉に、綾子も大地も仰天した。
「じゃあ、俺の言いたいことはそれだけだ。
綾子、早く署名してくれ」
「ちょっと待って。
そんな急に言われても困る。
考えさせてよ」
綾子の言葉を宗司は鼻で笑った。
「浮気相手とは、俺の退職金が入ったらそれを分捕って離婚すると言っていたそうじゃないか。
気が弱い亭主だから言いなりになるんだって。
その時期が少し早まるだけだ。
今離婚すれば、財産分与で200万円ほど分けてやる。
ぐずぐず言うなら、家事も何もせずに金を浪費して浮気していたことを言い立てて、一文も渡さないぞ」
「私が家事をしてないなんて証拠はないでしょう!」
「家に取り付けてあるカメラに全部映っているぞ。
お前が浮気相手を連れ込んだこともな」
綾子は黙り込み、離婚届に名前を書いた。
「じゃあ、金は後で振り込む。
ここのアパートは今月いっぱいで期限が切れるから、どうするかお前たちで相談しろ。
家にあった荷物は借り倉庫に入れてあるから、引き取っておけ。
そうだ、大地、最後の親らしいことを一つしてやろう。
真っ当に働く気が出てきたなら職を紹介してやる」
宗司は離婚届を掴むと、そう言い捨ててアパートを去った。
夜、マンションで持ち帰った仕事をしていた宗司の携帯が鳴る。
麻里と表示されている。
「ちょっと、アンタ、何をふざけたことを言ってるの!」
電話に出た宗司はいきなりの怒鳴り声にすぐに電話を切った。
すぐにまた電話が鳴る。
「いきなり切るなんて、何を考えているの!」
「ちゃんと話ができないならすぐに切るぞ」
宗司の低い脅しつけるような声に娘は驚いたようで黙り込む。
「黙っているなら切るからな」
「待ってよ。
いきなり自立しろとか、家を売ったとかどういうことよ?
私はどこに住めばいいの?
今まで通りお金を貰えるのね」
何も聞いていない娘にため息が出る。
「録画を見てないのか。
家は綾子や大地と相談して借りろ。
俺は知らん。
学費は払ってやる。
そのほかに卒業までの2年間、生活費として月5万円振り込んでやる」
「5万なんかで暮らせるわけないでしょう!
10万は頂戴」
「いい加減にしろ。
お前がそんなことを言える立場か。
成人した子供に扶養義務はない。
そのあとの分は親の好意だったが、今お前にそんなことをしてやる気持ちがこれっぽちも俺にはない。
学費と生活費を支援してもらってありがたいと思え。
文句を言うならそれも取り消すぞ」
これまで聞いたことのない宗司の声とその内容に麻里は震え上がった。
「ごめんなさい、お父さん。
許して。
家族じゃない」
「お前からお父さんなんて聞いたのは何年振りだ。
お父さんと言って金をねだる、これがパパ活というやつか。
家族がいないと寂しい人生とか嘘ばかりだ。
お前達が俺の稼いだ金で好きなことをしている間に、俺は胃を痛めながら得意先を回り、家に帰って家事をしていた。
一言も礼も言われずにな。
家族だから仕方がない、胸の内ではわかってくれている、そう言い聞かせていたが、すべて嘘、欺瞞だ。
もう俺は家族なぞいらない。縁を切る。
今日をもって田村家は家族解散だ」
そう言って宗司は電話を切った。
安アパートでは、綾子と子供達が大騒ぎしていた。
「お母さん、浮気していたなんて最低!
だからお父さんが怒ったのよ。
家族なんていらない、田村家は家族解散だと怒っていたわ」
「アンタだってあの人を無視したり、死ねとしか言わなかっただろう。
大地だって働きもせずにユーチューバーとかいってゴロゴロして、この穀潰しが」
「おふくろなんて、ずっと家事もやらずに親父に何でもやらせて、遊び歩いていただろうが」
口論の最中に、綾子の携帯には慰謝料を請求されて、激昂した浮気相手からの電話がかかってくる。
「結婚しようと言ってたよね。
それが少し早くなっただけじゃない。
アンタの家に行っていいでしょう」
甘えるような声で頼む綾子に相手は怒鳴り声を上げた。
「お前が退職金をせしめてくると言ったからだろう。
金もないババアと誰が結婚するか!
それよりも何百万も慰謝料とか払えるか!」
そのやり取りを聞いていた大地は、もういいと言って、立ち上がる。
「どこへ行くの?」と麻里が聞いた。
「金が無いなら暮らしていけないだろう。
働く気があるなら親父が職を紹介してくれるそうだ。頼んでくる。
麻里、親父は顔つきが変わっていたぞ。
前みたいに甘く見てたらとんでもないことになる。
もう自分で生活費を稼ぐしかない」
大地が紹介されたのは、宗司の得意先の中小企業。
人不足で困っていたのを覚えていたのだ。
「俺の息子だが、芯から怠け者だ。
俺に気を使わずにこき使ってくれ。
役に立たねば勝手にクビにしてくれ」
宗司は突き放したように言い、少しは父のコネに期待していた息子をがっかりさせた。
その会社は好業績だが、その分忙しく毎日のように残業させられた。
何度も失敗して怒鳴られ、叱られたが、夜に飲みにも連れて行ってもらう。
そこで、大地は父の話をたびたび聞く。
「田村さんはとてもいい人で、こちらのために走り回ってくれたよ。
でもここしばらくでずいぶん人が変わったなあ。
何か辛いことでもあったのかね」
(それは縁切りをさせるほどの冷淡な扱いを家族がしたからか)
大地は後悔した。
大地と麻里は相談して、アパートを借りた。
もともと何もしない母親には呆れていたが、浮気もしていたと聞くと、一緒に住もうという気もなくなった。
麻里は、これまで大学の講義もろくに出ずに親の金で遊んでいたが、もうそんなお金は無い。
兄が幾何か多めに出してくれても、家賃、食費、光熱費や通信費などを払うと、父から送られるお金では足りない。
バイトをたくさん入れ、大学の後にバイトに行き、疲れて帰ると何もしたくなかった。
兄が帰ってくるのは更に夜遅い。
狭い2DKではすぐに部屋は汚れ、洗濯もサボると着ていくものもなくなる。
麻里は疲れた身体に鞭打ち、家事を始めた。
(お父さんは仕事をしてきて、家族を養い、その後に家事もしていたのか。
その時、私は遊んで帰ってスマホをいじるだけ)
麻里は初めて父に申し訳ないと思ったが、もはやその気持ちを讃えようと電話してもブロックされたのか繋がることはなかった。