表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第三部】黒瞳少女は帰りたい 〜独りぼっちになった私は、故郷を目指して奮闘します〜  作者: 笛乃 まつみ
第七章 光の騎士

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

99/113

97. 萌水祭と七宝の口紅

誤字報告ありがとうございます。

「これ……本当に今日中に終わりますか? さっきから全然減っている気がしないです……」


 ほんのり甘い香りと張り詰めた緊張の空気の中、今にも机に突っ伏しそうな声でイヴァンが呻いた。


「イヴァン、ちゃんと集中しないとまた失敗するわよぉ」


 すぐ隣で作業していた女性従業員のカリーナが、のんびりとした調子でたしなめる。その声音には、呆れ半分、気遣い半分の色が混じっていた。

 萌水祭を二日後に控えたフィオルテ商会の倉庫には、私を含め四人――イヴァン、カリーナ、メリッサ、そして私が集まり、黙々と手を動かしていた。

 私たちが今しているのは、萌水祭限定の七宝ケースに口紅を詰める作業だ。


「ああっ、よれた! これで、またひとつやり直しに……」


 イヴァンの絶望混じりの声に、私たち三人の視線が同時に彼へと向く。誰ひとり責める人はおらず、皆の気の毒そうな眼差しがイヴァンに集まる。ただ私だけには、そこに言葉にしづらい複雑な思いも混ざっていた。

 失敗した時の辛さは、その場にいる誰もが知っている。失敗すれば、また最初からやり直しになるのだけれど、一度ケースを綺麗に洗わないといけない分、余計な手間が増えるとも言える。


「祭直前なのに、なんでこんな事をする羽目に……」


 肩を落とすイヴァンに、メリッサが苦笑しながら声を掛けた。


「仕方ないわよ。七宝工房が忙しくて、納入がぎりぎりになってしまったんだもの。今の時期は、どこの工房も大忙しだから……」


 カリーナも顔を上げ、作業の手を止めずに言葉を重ねた。


「でもほら、商会長が『売上が良ければ特別手当を出す』って仰っていたでしょう? 特別手当のためにも、もう少し頑張りましょう」


 その一言に、倉庫の空気がほんの少し和らぐ。冗談っぽい軽い雰囲気ではあるけれど、明確な目標があると気持ちも前向きになるものだ。

 カリーナの場合、皆を和ませるための一言ではなく、本気の一言だったかもしれないけれど。



 なぜ、私たちが口紅を詰めているかというと、ことの始まりは約五ヵ月前、私が旦那様に萌水祭についての提案をしたことがきっかけだった。


 二日にわたって開催される萌水祭の期間中、店は通常営業を止めて簡易の露店を出すのが決まりとなっている。例年、フィオルテ商会も店前に露店を出しているみたいだけれど、華やかな生花で飾り立てるものの、普段の店内営業と変わらない感じで商品を並べるだけだったらしい。

 そこで私が考えたのが、せっかく花で飾るのなら、何かしらの方向性を持たせれば、より客の興味を引けるのではないか――というものだ。

 そして、私が旦那様に提案したのは二つ。一つは、花を基にした香水を重点的に売り出し、それぞれに対応する花を生けて目を引くようにすること。

 もう一つは、今年の新作の口紅を特別なケースに詰めて、祭限定で販売することだった。


 私の提案を聞いた旦那様は、二つの案をどちらも採用し、七宝に花模様を施した特別なケースを作ることが決まった。ただ、それが決定した時期が少々問題だった。

 春は貴族の社交の時期でもあるため、どの商会も新商品は春に売り出す傾向がある。そのため、冬から春にかけては、どこの工房も新作の注文で手一杯の状況になるのだ。

 冬の半ばに急な依頼をした注文の納入が、ぎりぎりになるのも当然と言えば当然だろう。

 それでも、先週、屋敷で催された新作発表のパーティには貴族向けの分が間に合ったのだから、上出来だと言える。

 ただ、問題は萌水祭用だ。普段ならフィオルテ商会専属の工房で口紅を充填してから納品してもらうのだけど、今回はあまりに納入が直前だったため、その依頼も間に合わなかった。

 その結果、こうして倉庫にこもり、ひたすら口紅と格闘する羽目になったというわけである。



 間接的とはいえ私が提案した結果で発生した作業のため、私は率先して手を挙げ、ほかには手先が器用だからと立候補した三人――イヴァン、メリッサ、カリーナと共に作業を進めることになった。

 とはいえ、口紅をケースに詰めるだけと言っても、その作業内容は決して簡単ではない。

 萌水祭用に用意された七宝の口紅ケースは、総勢百個。

 まず大きな器に詰められた練り口紅から、匙で二杯分を小鉢に取り、低温でゆっくりと温め、ほどよい柔らかさになったところで、あらかじめ布で磨き上げた七宝のケースに素早く流し込む。このとき空気が入らないように細心の注意が必要だ。詰め終われば、小鉢を洗浄してまた最初から。

 単純な手順ではあるけれど、温め作業も流し込み作業も神経を使う。しかも、一度の作業でできる個数が限られるという点も、大きな問題だった。

 工房の職人なら三個同時に充填できるみたいだけれど、素人の私たちには二個が精一杯。その二個だって、少しでももたつけば二つ目の途中で固まってきてしまい、最初からやり直しになる。さっきイヴァンが「よれた……」と絶望していたのも、まさにそれが原因だった。


 そんな訳で、思いがけず大変な作業をすることになったわけだけれど、納入されたばかりの七宝ケースは思った以上の仕上がりだった。清涼感のある薄い水色に華やかな色の花模様。光を受けるたびにきらめいて、ひと目で特別だと分かる。

 ケースだけでも綺麗だけど、紅が入ると色がより引き締まり、思わず息をのむほどの美しさに変わる。おそらく、口紅が収められて初めて完成するように計算されているのだろう。お嬢様や意匠担当がギリギリまでこだわったというのも納得できた。

 だからこそ、余計に納入が遅くなったわけだけれど、イヴァンたちが大変な思いをしているのも、私の提案がきっかけだと思うと、どうしても申し訳なさが募っていく。


「提案しておいてなんだけど、まさかこんなことになるとは思っていなくて……。大変なことになって、ごめんね」


 私が口にすると、イヴァンは手を止めてバツの悪そうな顔をした。


「別にアリーチェのせいではないでしょう。まあ、そんな風に言う人もいるみたいですけど……やると決めたのは商会長ですから。それに納入が遅れたのは七宝工房が忙しかったのもありますし、良いものを作ろうと最後まで絵柄にこだわった結果ですから。気にしなくていいですよ」


 慰めの言葉を発するイヴァンの横で作業していたメリッサが、同意するように笑った。


「そうそう。大変だけど、これはこれで楽しいものよ。こんな風に萌水祭の準備をすることなんて、今までなかったんだから」


 さらに、カリーナがにこにこと口を挟む。


「私は特別手当がもらえるかもしれないから、むしろ大歓迎かなぁ。七宝の口紅ケース、もう問い合わせが入っているって聞いたし、間違いなく売れるわよぉ」


 七宝ケースは、先週の新作お披露目パーティで発表したばかりだ。おそらく、流行に敏感なお嬢様方が、さっそく動き出したのだろう。思った以上の関心の高さに、皆の意欲が上向きになる。


「それならなおさら、気合を入れて作らないとね。頑張って、今日中に仕上げましょう!」


 メリッサの言葉に、私たちは力強くうなずくと、気合十分に作業を再開した。

 その後、皆の努力の甲斐もあって、日が落ちる頃には、山のように積まれた七宝ケース全てに口紅を詰め終えていた。長時間の作業に、肩や腕は鉛のように重かったけれど、全てをやり終えた私たちの顔には、達成感に満ちた清々しい笑みが広がっていた。




 待ちに待った萌水祭当日。朝早くから、旦那様とお嬢様と共に馬車で商会へと向かう。多くの店先で露店の設営や商品の陳列が始まっていて、フィオルテ商会の前にも既に従業員が集まって作業をしているのが見えた。

 商会に着くと、お嬢様は真っ直ぐ準備中の露店へ向かわれたので、私は更衣室で従業員の制服に着替えてから足を運ぶ。私が露店に着いた時、お嬢様は生け花の最終確認を行っているところだった。

 香水を飾り立てるために特別に準備した花器に、指示通り花が生け込まれているか、配置の見栄えはどうか。それを確認するお嬢様の横顔はいつになく真剣で、その成長ぶりに胸の奥が温かくなる。

 花瓶同士が喧嘩しないよう、色合いや花の形にも考慮し並び順まで計算されたそれらは、ひと並びで一枚の絵のように完成された華やかさを放っていた。春をそのまま閉じ込めたように鮮やかで、思わず私も見入ってしまう。


「去年より準備に手間取ったけど、これは確かに……」

「映えるわねぇ」

「これなら客足も伸びるんじゃないか?」


 従業員たちの囁きが耳に入る。確かに、並べられた香水と生花の花瓶、新作の化粧品、そして限定の七宝の口紅ケース――すべてが整然と並んだ光景は、息をのむほど豪華で、ざわめきがその場を支配するのも分かる。七宝で描かれる花の色は青、白、黄、桃の合計四色あり、それらが並ぶと一層壮観だった。

 あの日、頑張って詰めた口紅ケースがこうして綺麗に陳列されているのを見ると、苦労が報われた気がした。



 ――カラーンカラーン


 三の鐘の音が鳴り響いた瞬間、街中から歓声がわっと湧き上がった。色とりどりの布や花で飾られた州都の大通りは、音楽と香りに満ちて、あっという間にお祭りの空気に染まっていく。鐘の音を合図に、萌水祭が始まったのだ。

 既に通りに溢れていた人々が、次々に露店へと流れ込み、呼び込みの声がそこかしこで響き渡る。

 私は露店の後ろに控えて、祭が始まる様子を見守った。今日は、商会の見習いとして祭を手伝う予定になっている。

 お嬢様はというと、旦那様と一緒に商会の執務室に入り、窓から通りの様子を眺めているはずだ。祭の間も商談や来客はあるため、その対応に備えるためである。


 狙い通り、香水売り場の華やかな花々は人々の目を引き、立ち止まる通行人が後を絶たない。七宝の口紅ケースもひときわ目を引くのか、興味を持った女性客が新作の口紅について質問をし、試し塗りをしては一つ、また一つと購入する人も出てきた。

 賑やかさはその後も続き、昼が近くなると従業員が交代で昼食に入る。私はイヴァンとともに裏方で商品の補充やお釣りの準備をしていたのだけれど、交代に伴って、私も接客へと回ることになった。


「名前だけだとどんな花かぴんとこないけど、飾られているからひと目で分かるわね」

「私はこっちの花が好みかも」


 お客様同士の会話が耳に入る。華やかに飾られた花々は、それだけで話題を呼び、香水の宣伝にもなっているようだ。そして、それは七宝ケースも負けてはいない。


「このケース、とても可愛いわ!」

「祭りの思い出にぴったりね」

「限定って聞くと余計に欲しくなるわ。少し高いけど、使い終わった後に小物入れにできるから、思い切って買っちゃおうかしら」


 楽しげな声が次々に飛び交うのを聞いていると、嬉しい反面そわそわと落ち着かない気持ちになる。私が出した提案が、こんなふうにお客様の笑顔に繋がっている――その光景が新鮮であり、誇らしくもあった。

 もちろん準備は大変だったし、私ひとりの力でやり遂げたわけではないけれど、こうして直接声を聞くと「提案してよかった」と心からそう思えた。


「すごい盛り上がりようですね」


 隣で接客していたイヴァンが、小声で私に話しかけてきた。


「去年もお客は多かったですが、今年は賑わいが段違いです」

「皆で頑張って準備をしたから、好評で本当によかった。お嬢様もすごく頑張っていらっしゃったし……。それに、この光景を見ると、あの充填作業が報われた気がするね」


 私がそう言うと、イヴァンはふっと苦笑いを浮かべた。


「本当に報われて何よりです。ただ、もうあの作業はこりごりです。来年こそは、冬の早いうちに発注して、充填作業は工房にお願いしたいですね」


 その声には、何度もやり直しを繰り返した苦い記憶が色濃くにじんでいて、思わず吹き出してしまいそうになる。

 来年の萌水祭はどんな展示になっているだろうか。私がいろいろと提案をした影響なのか、他の従業員からも商品や営業工夫などの案が出てきていると、旦那様が言っていた。

 一年後、私はその場にはいないけれど、きっと従業員の皆で案を出し合って素敵な展示になっていることだろう。


「それなら、来年は前もって準備を進めないといけないね」

「言われなくても、来年はきっとそうなりますよ。また、誰かさんが急な提案をしなければ、ですが」


 意地悪そうな顔で軽口を言うイヴァンに対して、私はただ笑顔を返した。

 私が仕事を辞めることは、従業員の中ではメリッサ以外にはまだ伝えていない。萌水祭の準備で皆が忙しかったこともあり、祭りが終わるまではと先延ばしにしてきたのだ。

 私が辞めることを伝えたら、イヴァンはどんな反応をするだろうか……。伝えるべきことを隠したまま、今はただ静かに、この賑わいを胸に焼きつけた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
自分の提案でみんなが忙しそうだと責任感じてしまいますよね。 アリーチェと親しい人たちは、恨み節を本人に向けなくてよかったです!!!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ