96. 黒金のアネモネ
屋敷でのメイドの仕事や、商会での見習いの仕事に追われているうちに、気づけば季節は冬から春へと移り変わっていた。
朝晩はまだ冷えるけれど、昼間の日差しは日に日に温かさを増し、外を歩けば頬にあたる風もほんのり柔らかさを帯びてきた。
春の初月に入って少しした頃、氷路で交わした約束通り、ルキス様からお茶のお誘いの手紙が届いた。
もしかしたら、あの時の話は一時の気まぐれだったのではないかと疑ったこともあったけれど、律義なルキス様らしく、ちゃんと有言実行されたみたい。
一週間後、私はルキス様と共にドルチェ・ミエーレへ足を運んでいた。前回と同じく噴水で待ち合わせ、そこから一緒にお店へ入ったのだけれど――。
「せっかくだから、季節の盛り合わせプレートを頼んではどうだ?」
「確かに、それは魅力的ですが……」
テーブルの上に開いたメニューを挟み、私とルキス様とでなぜか押し問答が始まっていた。
「普段、甘いお菓子を食べる機会はそう多くないだろう? 遠慮しないでくれ」
「でも……ルーカは甘い物が得意ではないと仰っていましたし、たくさん食べたら夕飯が入らなくなってしまいますから……」
今は遮音の魔術具を使っていないから、ルキス様ではなくここでは名前をルーカと呼んだ。
ルキス様の指し示している季節の盛り合わせプレートは、その時々のお菓子を一皿で味わえるという説明書きがあり、確かに心をくすぐられる。けれど贅沢すぎるし、そもそも甘い物が苦手な人を前に自分だけ楽しむのも、ちょっと気が引ける。
「得意ではないと言ったが嫌いなわけではない。それに、私から誘ったのだから、これくらい奢らせてくれないと困る」
そう言われてしまえば、引き下がるしかない。
故郷に戻ればこんな素敵なお菓子を食べる機会もなくなってしまうから、少しくらいならこういう贅沢もいいよね。私は内心で言い訳しながら、盛り合わせプレートを注文することにした。
ルキス様に押し切られる形で頼むことになった盛り合わせプレートだったけれど……結論を言えば、思っていた以上に素敵だった。
白磁の大皿に、小さな焼き菓子や果物を添えたケーキ、色とりどりの砂糖菓子が、まるで宝石箱のように整然と並ぶ。
メニューには簡単な説明しかなかったけれど、予想以上に見た目が豪華だった。
薄く削った柑橘の皮の香りが漂う焼き菓子にそっとフォークを入れると、砂糖の薄衣が、ぱりりと心地よい音を立てて崩れた。
香りと甘みが口いっぱいに広がり、目も鼻も耳も舌もすべてが刺激される。これこそ、極上のひと皿と言っても差し支えないのではないだろうか……。
夢中で頬張る私の様子を、ルキス様はにこにこと眺めていた。
「そこまで美味しそうに食べてもらえると、無理を押して注文した甲斐があった」
「……ありがとうございます。本当に、とても美味しいです」
笑顔で見られていることに居心地の悪さを感じながら、やっぱり全部お見通しだよね……、と心の中でひとりごちる。
プレートを勧められて、正直食べたい気持ちはあったけれど、私が遠慮したことをあっさり見抜いて、少し強引に注文してくれたのだろう。
相手の感情が分かっていても、行動するかどうかはルキス様次第だ。なんというか、乙女心を心得た見事な対応だなと、ぼんやりと頭の片隅で考える。
しばらくお菓子を味わっていると、ルキス様がふと思い出したように口を開いた。
「手紙にも書いていたけれど、もう少ししたら州都を出るんだって?」
「はい。夏の終わり頃に、ここを立つつもりです」
氷路で春に会う約束をした後、私は手紙で、もともと火の州の生まれであることや、故郷に帰るための旅費がたまったら州都を離れるつもりだということを伝えていた。
いろいろと気にかけてくれているルキス様には、きちんと話しておくべきだと思ったからだ。
「しかし、なんでまた火の州生まれの君が水の州に?」
ルキス様の問いに、私は手紙では触れていなかった事情をかいつまんで説明する。
姉の代わりに奉公へ向かう途中で事故に遭い、川に流されて水の州に流れ着いたこと。森を彷徨い、保護されてメルクリオの街に来たこと。
ルキス様は驚きながらも、黙って最後まで話を聞いてくれた。
「なるほど、そういう事情があったのか……。一言で済ませられないだろうが、いろいろと大変だったな」
「確かに大変でしたけど、周りの人に恵まれたおかげで、こうして帰る算段がつきました。それに……振り返ってみると、私にとってとても良い経験になったと思っています。故郷ではできない経験を、たくさんさせてもらいましたから。この盛り合わせプレートだってそうです」
ティート村で“甘味”といえば、蜂蜜や果物くらいだった。もちろん、それらを工夫して焼き上げたパイはとても美味しかったけれど、目の前に並ぶ焼き菓子やケーキは、また別格だ。
甘くて、美味しくて、見た目も愛らしくて……。そういえば、屋敷で出される料理もいつも美味しいよね……と、これまでに食べた数々の料理が頭の中を駆け巡った。
州都に来てからは、贅沢と言えるほど美味しいものを食べてきたけれど、その前だって、私は十分に恵まれていたことを知っている。
孤児院の食事は豊かではなかったけれど、皆で囲んだテーブルは温かかったし、森の中で孤児院や北区の子供たちで分け合って食べた野ウサギの肉は、香草だけの素朴な味ながらも格別だった。森をさまよい、空腹でたまらない時に分けてもらった干し肉はびっくりするほど美味しかったし、その後に振る舞ってもらった温かなスープは、私を心の底から安堵させてくれた。
「そんなに寂しく思うなら、急いで帰らずに、もう少しここに残ってもいいんじゃないか?」
私が少し感傷的になったからか、ルキス様が気遣うように言った。その言葉が微妙にずれていて、私は思わずくすりと笑う。
感情は読めても、考えていることまでは正確には分からない。でも、気遣ってくれるその気持ちが嬉しくて、私は柔らかく笑みを返す。
「ありがとうございます。でも、夏を逃すと……また帰るのが一年後になってしまうので」
帰る時期を夏の終わりにしているのには、ちゃんと理由がある。
冬は雪が積もるから、ティート村のある山間を越えるには向かない。また、夏の初めには火の州で大きなお祭りがあり、その前後は移動手段も宿も満席になってしまうから、その時期も駄目。
春先の今なら、火の州の祭りの影響は受けないけれど、春の中月には水の州の祭り――萌水祭がある。商会は猫の手も借りたいほどの忙しさになるから、見習いとはいえ手伝っている以上、この時期に辞めるとは言い出しにくかった。
まあ、せっかくなら最後にお祭りを見たいな、という気持ちがあるのも、確かなのだけれど。
「そういえば、旅費の方は問題ないのか? 奉公の支度金分もためていると、さっき言っていたが」
「はい。お金の方は問題ありません。冬の初めにはほぼたまっていたので、今では十分余裕があるくらいです」
去年の夏にカルルッチ家からいただいた報奨金、屋敷での給金、そして商会で見習いとして働いている時の新提案による特別賞与――それらを合わせると、目標としていた大金貨二枚と小金貨五枚には余裕で届いている。
なんなら、故郷までの旅費と奉公の支度金だけでなく、もう一回分の片道の旅費まで用意できたくらいだ。
最初は、そこまで稼ぐつもりはなかった。けれど、少し思うところがあり、この前の冬から新しい提案にも力を入れるようになった結果、特別賞与でさらに貯金を増やすことができたというわけだ。
私が旦那様に提案した内容は多岐にわたる。化粧品の新しい広告案、従業員向けの福利厚生、化粧品の新開発、男性用の香水案、萌水祭についての案、水運業の在庫管理などなど。
すべてが採用されたわけではないけれど、出した数が多かった分、採用されるものもそれなりに多かった。おかげで、かなりの額を特別賞与としていただくことができた。
こうしてお金をためたのも、すべて私の夢のためだ。
今日までの間に、私は魔力を持つ者が将来になれる仕事について、調べられる限り調べてきた。
私の魔力量がどれほどかによっても変わるけれど、魔力量が多ければ、州や領地の支援を受けて魔術を学び、将来はその下で働く道や、あくまで可能性だけれど貴族の養子になる道だってある。
魔力量が少なくても、神殿に入って神官を目指す道や、平民の魔術具商会から支援を受けて魔術具師を目指すこともできるらしい。
故郷に帰った後、家族と相談したり、礼拝堂の神官様にも相談して、将来どの道を目指すかを決めることになるだろう。
私の頭にある選択肢のひとつに、またこの水の州に戻ってくる、という道もあった。
どの道を選ぶかは、すべて故郷へ帰ってからの話になるけれど、往復分の旅費をためたことが、私の中での答えかもしれない……。
ここで出会った人たちに愛着が湧いたからというのが一番の理由だけれど、ここに戻ることが、私にとって一番自分の望む未来を選びやすいからという少し打算も混じった理由だ。
商人関連であれば旦那様を頼れるし、貴族関連であればルキス様を頼ることもできる。将来を選ぶにあたって、これほど理想的な環境は、そうそうない。
とはいえ、こんなことを今口にすれば、「なら、故郷に帰らずここに残ればいい」と言われるに決まっている。だから、今はまだ誰にも言わない。
(……私にとって、故郷に帰ることは約束だから)
たとえ誰に何を言われても、一度は帰る。その決意は変わらなかった。
(一緒に帰ろうって、ニンファに約束したものね)
あの深い森の光景が、一瞬、私の頭の中を駆け抜けた。森の湿った土の匂いと、静けさの中で見つけた小さな身体。ニンファから外した濡れたリボンの手触りを、私は今も覚えている。
死んだと思われていた私が戻ったら、みんな、どんな顔をするだろう。驚いた顔、泣き出す顔、戸惑いの顔……。その光景を想像したら、胸の奥に熱いものがこみ上げてきて、何だか少し泣きたくなった。
「夏までここにいるなら、アリーチェは萌水祭には行くのか?」
ふと、ルキス様の声が私を現実へと引き戻す。
「もちろん行く予定ですよ。去年は少ししか行けなかったので、今年はもう少し見て回れたらいいなと思っています」
「そうか、それならちょうどよかった」
(……ちょうどよかった? 何がだろう)
私が首をかしげる間に、ルキス様は懐から小さな箱を取り出す。蓋を開くと、中には黒と金で彩られた涙型の小さなペンダントが収められていた。彫金で作られていると思われるそれは、夜の闇のような黒を背景に、金のアネモネの花が微かに輝いて見えた。
「付き合いで装飾品を見る機会があったんだが、君によく似合う色だと思って。萌水祭に着けるものとしてもちょうどいいだろう。ネックレスなら仕事中にもつけられるだろうし……よかったら、もらってくれないか?」
思わず、ペンダントとルキス様を交互に見てしまう。どう考えても、平民の私には不釣り合いな品だ。
驚き七割、戸惑い二割、そして少しの喜びが胸の中で混ざり合う。
「こんな高価そうなものを……私に?」
驚きと戸惑いで、声が少し上ずった。
「君に合わせて買ったものだから、持ち帰らせるようなことはさせないでくれよ」
そんなことを言われても、どう見ても私が持つには高価すぎる。私は少し様子を伺うようにルキス様を見上げた。
「……賄賂であれば受け取れませんよ?」
「君の考えを変えさせるためのものではないから、警戒しなくていい」
ルキス様が困ったように微笑む。私も本気でそう思って言ったわけではないけれど、戸惑いが強くて、つい軽口が出てしまった。
「それなら、お守りだと思って持っていてくれたらいい。いざという時に役に立つだろう」
冗談交じりの言い方だったけれど、ルキス様の笑顔の裏に、説明できない僅かな引っかかりを覚えた。その「いざという時」にどんな意味が込められているのか。
萌水祭でアクセサリーをつけていれば変な男が寄ってこない、という意味か。それとも――お金に困ったら売れる、という意味なのか。それとも、また別の……。
改めて考えても、まさか私がこんな贈り物をもらうとは思っていなかった。正直なところかなり驚いたけれど、自分のために選んでくれたと分かる品だから、悪い気はしない。
それに、色恋の贈り物というわけでもなさそうだし、少しの照れくささを覚えながらも、私は素直に受け取ることに決めた。
「では……ありがたくいただきます」
はにかみながらお礼を言い、小箱をそっと受け取った。小箱は思っていたよりもずしりと重く、その重みがペンダントの高価さを否応なく伝えていた。
この場でつけたほうがいいかと思ったけれど、さすがにそれはやめておいた。代わりに別の話題を振る。
「ルーカは、萌水祭には行くのですか?」
「祭の開催期間中はいろいろと忙しいからな。行く時間はないだろう」
確かに、この質問は愚問だった。萌水祭の期間中は州全体が活気づき、さまざまな催しが開かれる。おそらく、州城内も例外ではないだろう。
「そういうわけで、春はしばらく忙しい時期になるが、夏になれば時間もできる。……夏の終月あたりに、またこうして会えるだろうか?」
「私は大丈夫ですが……秋の討伐も控える時期ですし、ルーカは忙しいのでは?」
「少し会うくらいの時間は取れる。それに、旅立つのなら別れの言葉くらいは言わせてくれ」
驚きに、軽く目を見開く。その心配りが嬉しくて、胸の奥がじんわりと温まった。
「はい。では……夏の終わりに、また会いましょう」
笑顔でそう告げると、ルキス様の表情もわずかに和らぐ。
これから迎える春の気配と、待ち受ける夏の終わりの約束が、私の水の州での最後の時間を静かに感じさせた。




