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【第三部】黒瞳少女は帰りたい 〜独りぼっちになった私は、故郷を目指して奮闘します〜  作者: 笛乃 まつみ
第七章 光の騎士

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95. 氷路の邂逅

(ルキス様が、何故ここに……?)


 驚きのあまり、私は思わずごくりとツバを飲み込む。まさか、こんなところで会うとは夢にも思っていなかった。

 ゆっくり滑りながら近づいて観察したけれど、やはりルキス様で間違いない。今日ここへ来ることを伝えていないから、本当に偶然なのだろう。

 冬の薄曇りの中、歩道に立つその姿は平民のような軽装だったけれど、相変わらず人目を引く姿をしていた。傍らには、メルクリオの街で見かけた同僚らしき青年が一人。

 騒がれていないところを見るに、おそらく今も認識阻害の魔術具を使っているのだろう。そして、それを使って同僚と共に市井にいるということは、仕事中の可能性が高い。 


(……私から声をかけるのは控えた方がいいよね)


 そんなふうに考えていると、ルキス様が隣の青年に何か声をかけて、ちらりとこちらを指さした。その指差しに導かれるように、青年の目が私の方へ向く。二人で何か短く話した後、ルキス様が私に向かって軽く手を振った。

 私は驚きながらも、とっさに手を振り返した。するとルキス様は、そのまま持ち上げた手で、氷路の上へと続く仮設の階段を指さす。


(これは、“上がってきて”という合図……?)


 ルキス様の意図を察した私は、足を止めて考え込む。

 話しているところを見られたら、後で商会の皆にいろいろと聞かれるよね。屋敷の皆みたいに、恋人だと誤解されたら説明が大変なのだけど……。

 少しの逡巡の後、私は階段の方へと滑り出した。ルキス様がここにいる理由もだけれど、それとは別に気になることがあって、私は素直に彼の合図に従った。

 途中、商会の同僚とすれ違ったので、「広場の方で少し休憩してくるね」とだけ伝えておいた。そして、貸出屋でスケート靴を一時返却すると、氷路の端に設置された仮設階段を上る。

 人通りのある歩道まで上がると、すぐ近くにルキス様の姿があった。


「久しぶりだな、アリーチェ。元気そうで何よりだ」


 軽く手を挙げて、ルキス様が爽やかな様子で挨拶をくれた。どうやら同僚の人と離れ、一人できたようだ。


「はい。お久しぶりです」


 小さく会釈して私も笑顔を返す。手紙のやりとりは今も続いているけれど、こうして実際に顔を合わせるのは三ヵ月ぶりになる。手紙で近況報告はしていたから、少し不思議な感じだ。


「まさか、こんな場所で会えるとは思っていなかったから、驚いた」

「私も驚きました。本当に、凄い偶然ですね」

「せっかく会えたのだから、よければ少し上で話さないか?」


 そういうと、ルキス様はさらに上の広場を指さした。


「もちろん、構いません」


 ここに来た時点で、もとよりそのつもりだ。

 私が了承すると、ルキス様と並んでさらに上へと続く石段を上がる。広場に出て、屋台通りの前を歩いていたところで、ルキス様が足を止めた。


「何か、食べるか?」


 お腹が空いているわけではなかったけれど、氷の上にいたため身体は冷えている。並ぶ屋台を眺めながら、少し考えて私は答えた。


「そうですね……では、蜂蜜湯をお願いしてもいいですか?」

「分かった」


 ルキス様は頷くと飲み物の屋台へと素早く移動し、私の分と自分の飲み物――ホットワインを買ってきた。そして、そのまま私を伴って人気のない広場の端へと向かう。

 焚き火から離れた広場の端は冷え込んでいるけれど、人通りも少なく、落ち着いて話をするにはちょうどいい。

 私が広場の端にあるベンチに腰を下ろすと、ルキス様が蜂蜜湯の入ったコップを私に差し出した。


「熱いから気をつけて」


 お礼を言って受け取ると、冷たくなった手にコップの熱が心地いい。息を吹きながら飲むと、蜂蜜湯が冷えた身体をじんわりと中から温めてくれた。

 ルキス様もホットワインを口にして一息ついたところで、懐から遮音の魔術具を取り出し、それをベンチの上――私との間にそっと置いて、起動させた。

 次の瞬間、周囲のざわめきがすっと遠のいた。


「今日は本当に驚きました。こんな偶然もあるものですね」


 そう口にしながら、私は両手で湯気の立つ蜂蜜湯を包み込む。だいぶ手は暖まってきたけれど、隣にいるルキス様の存在は、まだ現実味を感じるのに少し時間がかかっていた。


「私も驚いたよ。こんな場所で会うとはな」


 ルキス様も、薄く笑みを浮かべながら答える。その表情に、どこか私と同じような戸惑いの色が見えた。


「今日は、氷路に遊びに来たのか?」

「はい。フィオルテ商会の従業員の皆さんと一緒に。……メリッサも来ていますよ」

「そうか。メリッサ嬢と……」


 ふっと安堵のような気配が、ルキス様の横顔ににじんだ。目を細め、小さく頷いたその姿を見て、私は思わず質問が口をついて出た。


「あの、メリッサとガスパロ様のこと……ご存知ですか?」

「ああ……ガスパロから聞いているよ」


 ルキス様は、少し肩をすくめて笑った。


「婚約を前提に付き合っているんだろう? 本当に、まさかというか……最初に話を聞いたときは、私も驚いたよ」


 その言い方には、呆れではなく、どこか優しい親しみが込められていることに安堵しつつ、私はさらにルキス様に質問する。


「……あの、ルキス様から見て、メリッサとガスパロ様は問題なく婚約できそうでしょうか? 友人として、メリッサのことが心配で……」


 ここに来た理由の一つがこれだ。

 いくら想い合っている二人でも、事情や立場が違えばままならないこともある。突然駆け落ちした姉のように、平民同士でもよくあることだけれど、貴族ならなおさらだ。

 聞いたところで、私にできることは何もないと分かっているけれど……それでも、確認せずにはいられなかった。

 ルキス様は、私の気持ちを察したのか、少しだけ目元を和らげて微笑んだ。


「ガスパロの家の事情は知っているが……そうだな。上位の貴族令嬢から急な婚姻の申し込みでもない限り、問題はないはずだ。絶対とは言えないが、あいつの周りでそういう話は聞かないし……心配しなくてもいいと思う」

「そうでしたか……教えてくださって、ありがとうございます」


 私は心からの安堵とともに、小さく息を吐いた。話を聞かせてくれた時に見せていた、幸せそうなメリッサの笑顔がこの先も変わらず続くことを願って、私は手の中の蜂蜜湯を静かに見つめた。

 ひとつ心配事が解消されたので、次はもうひとつの疑問を口にする。


「そういえば……ルキス様は、どうしてここに? 今も、認識阻害の魔術具をお使いになっているのですよね?」


 認識阻害の魔術具を看破できるのは、こういう時に少し不便だ。相手の使用状況が分からないため、着ている服装――今の彼のように平民らしく見せている服装で判断するしかない。


「ああ。今日はお忍びで、調査に来ていたんだ」

「氷路に……ですか?」


 ルキス様は静かに頷きながらわずかに顔を曇らせた。


「……二日前、氷路に遊びに来ていた子供が、家に帰る途中で誘拐された」

「……!」


 一瞬、蜂蜜湯の温かさを忘れるほど、背筋がすっと冷えた。


「状況的に、おそらく私たちが追っている誘拐犯の仕業だろう。だから、何か手がかりがないかと、こうして氷路へ来ていたんだ」


 なるほど、それでルキス様がここに……。どう考えても不釣り合いな場所に疑問を持っていたけれど、これでようやく納得がいった。

 少し不謹慎な話になるけれど、事件が起きたのがお嬢様たちがスケートを楽しんだ後で良かったと一瞬思ってしまった。もし事件が先に起きていたら、旦那様は危険だからと言って、絶対お嬢様たちの氷路遊びを許可しなかったはずだから……。

 一つ納得すると、また別の疑問が頭に浮かぶ。それは以前から何となく気になっていた素朴な疑問。


「あの……失礼を承知で伺うのですが、ルキス様はなぜこの件を調査しているのですか? 普通、誘拐事件なら街の警邏隊が調査するのでは……?」


 以前から気になっていたことだ。子供の誘拐は重大な事件と言えるけれど、貴族であるルキス様が平民の誘拐事件を調査することに、少し違和感を感じていた。言葉は悪いけど、所詮は平民の事件だ。

 貴族の子供の誘拐であれば理解できるのだけれど……。新聞に載っていないだけで、実は貴族の子供も誘拐されているのだろうか。

 私の質問に、ルキス様は少し難しそうな表情を浮かべた。


「……アリーチェは、私が仕えているお方を知っているな?」

「……イグナツィオ殿下ですよね?」

「ああ、そうだ。殿下は、州城内でさまざまな仕事を任されているが、その一つに、違法魔術具に関する事件や事故の捜査というものがある」

「……違法魔術具」

「今回の誘拐事件には、魔術具が関わっているのは間違いない。だから、私たちの方でも別途捜査しているわけだ」


 なるほど、魔術具が絡むとなると、平民で構成された警邏隊では手に負えないことも出てくるのだろう。以前から感じていた小さな疑問が解けたことに、すっきりとした気分になる。

 けれど、言葉を重ねるルキス様の声は、どこか力を失っていた。


「とはいえ、手がかりがなくて、行き詰まっているのが実情だがな……」

「犯人からの要求とかはないのですか?」

「誘拐後、犯人からの接触は一切ない。だから、目撃証言に頼らざるを得ないんだが、その目撃自体が……」

「違法魔術具の影響で、肝心の目撃証言がないというわけなのですね」

「そういうことだ」


 焚き火の熱が届かない広場の端で、彼の顔が薄曇りの空のように翳る。再会してから、季節は一巡りしたけれど、捜査の進展は、思うように進んでいないようだった。州都で誘拐事件が起こり始めたのが、去年の冬のはじめ頃だから、丸一年経過したことになる。

 ルキス様が手元のカップを飲み干した後、ふとこちらを見て言った。


「……アリーチェ、今度またお茶に誘ってもいいだろうか?」


 その言葉があまりにも唐突だったせいで、ごふっと咳き込みながら蜂蜜湯を飲み込む。慌てて飲んだせいで喉の奥がひりつき、軽い咳を繰り返した。

 幸い、ぬるくなっていたから火傷はしなかったけれど、私は目を白黒させながらルキス様を見つめる。


「……もしかして、何かありましたか?」


 恐る恐る尋ねると、ルキス様はわずかに口元を引き結んだあと、首を横に振った。


「……特に理由はない。強いて言うなら、気晴らし、だろうか」

(気晴らし……?)


 私は、手元のカップに視線を落としたまま、その言葉の真意を測ろうとするけれど、答えは見つからない。

 ルキス様に限って、お茶に誘える相手がいないなんてことはないはずだ。それなのに、わざわざ私を……?

 貴族女性を気軽に誘って勘違いさせるわけにはいかないということだろうか。それとも、毛色の違う平民の子供を誘う方が、まだ気晴らしになるくらい、貴族社会は気が抜けない殺伐とした場所なのだろうか?

 顔を上げ、胡乱な眼差しでルキス様をじっと見つめると、彼は居心地が悪そうに軽く咳払いをして目をそらした。


「それで……返事は?」


 意図を尋ねても、きっとはぐらかされるだけだろう。私は微かに笑みを浮かべて、肩をすくめた。


「奢っていただけるのであれば、喜んで」


 いろいろあったけれど、この人のことは嫌いではない。美味しいお菓子が食べられるのなら、それは私にとって悪くない話だし、いざという時に頼らせてもらうのであれば、それなりに友好関係は築いておくに越したことはないと思う。

 私の返事を受け、ルキス様は目を細めてぎこちなく笑った。



 話が一段落ついたところで、互いに連れと合流するため、私たちは広場を後にした。コップを屋台に返却し、水路の歩道部分へと続く階段を一緒に下りる。歩道まで降りてきたところで、私たちの足が自然と止まった。


「……会う予定については、また手紙で知らせる。春先あたりを考えておいてくれ」

「はい、楽しみにしています」


 そう答えると、私は「それではまた」と言って、軽く頭を下げる。そして、踵を返そうとしたその時、私の視界にふっと影がさした。

 何かと思えば、ルキス様が一歩近づいて私のすぐ目の前に立っていた。驚く間もなく、低く落とされた声が耳元に届く。


「今日の帰りは、必ず誰かと一緒に帰るように。夕方を過ぎて、市街区を一人で歩いたりしないように気をつけてくれ」


 小さな警告のような声に、ドキリと心臓が跳ねた。周りに吹いた風が、ひやりとした寒さを一層強く意識させる。

 その警告の意味について私が考えを巡らせる時間もなく、ルキス様はすぐに私から距離を取った。


「では、また手紙を送る」


 そう言って、彼は私に背を向けると、同僚のいる方へと歩いていった。

 近すぎて分からなかったけれど、ルキス様はさっきどんな顔をして、あの言葉を告げたのだろう。

 最後に言われた一言が、胸の奥に重く残る。冬の曇り空の下、淡雪を含んだ風が頬をかすめていったことにも気づかないほど、私は遠くなるルキス様の背中をじっと見送った。


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